赤い糸、まだ繋がってますか?
織島かのこ
本編
十年前、四月
きっかけは、一本の赤い糸だった。
この四月に中学三年生に進学したばかりの俺は、単調な学校生活にやや惓んでいた。成績だってそんなに悪くないし、ガツガツ勉強をしなくても、第一志望である公立高校に合格できるだろう。部活だってゆるく楽しんでいるし、友達だってそれなりにたくさんいる。自慢じゃないが、女子からも結構人気があると思う。
それでも俺は退屈だった。いつまでたっても完成しない、ピースの足りないジグソーパズルに興じているような、そんな毎日。
ある水曜日の放課後、無性に一人になりたかった俺は、生徒たちがあまり寄りつかない旧校舎へと足を向けた。来年取り壊しが決まっている旧校舎は薄暗くて黴臭く、木製の床はギシギシと嫌な音を立てる。
行くあてもなく歩いていると、怖いくらいに静かな階段の踊り場に、赤い毛糸の玉がころんと廊下に転がっているのを見つけた。
毛糸の玉から伸びた赤い糸は、階段を上って渡り廊下へと長く伸びている。毛玉を拾い上げた俺は、何気なく毛糸の行く先をたどっていった。
赤い糸は、三階の奥にある旧音楽室へと向かっていた。ぐるぐると糸を毛玉に巻きつけながら、立てつけの悪い扉を引く。開いた扉の向こうに、セーラー服を着た小さな後ろ姿を見つけた。
「あ」
思わず漏れた声に、部屋の主はくるりと振り向いた。
首元できっちりと結ばれた赤いスカーフに、膝下丈の紺色のスカート。飾り気のない黒髪のショートヘア。全体的に小さな顔のパーツの中で、ややつり目がちの瞳だけが驚くほど大きく、意思が強そうな光を放っている。両手いっぱいに毛糸を抱えた彼女は、俺の顔を見てゆっくり口を開いた。
「ありがとう」
「え?」
「それ、拾ってくれたんですよね」
言われて初めて、俺は自分の手の中にある毛糸玉の存在を思い出した。俺の手から伸びる赤い糸は、彼女のもとへと繋がっている。俺は旧音楽室の中に入ると、毛糸玉を差し出しながら問いかけた。
「
俺の言葉を聞いた彼女は、やや怪訝そうに眉を寄せる。
「私の名前、知ってるの」
俺は小さく肩を竦めてみせた。
「クラスメイトの名前ぐらい、覚えてるよ。俺、
俺が言うと、片桐さん――クラスメイトの片桐
「ごめんなさい。私、人の名前と顔を覚えるの苦手で」
片桐さんは顔を上げると、俺の顔をじっと見つめてきた。大きな黒い瞳をぱちぱちと瞬かせながら「さえき、こうくん」と小さな声で呟く。
「大丈夫。もう覚えた」
意外とハスキーな声だな、と俺は思う。四月に同じクラスになったばかりの彼女の声をちゃんと聞くのは初めてだった。
俺に限らず、片桐千花がクラスメイトの誰かと会話をしているところを見たことがない。要するに、片桐千花は我がクラスから早くも浮いているのだ。
別に、表立って虐められているわけじゃない。ただ、無口で無表情な片桐さんはとっつきにくく、女子からも男子からもどこか遠巻きにされていた。本人も周囲に積極的に話しかけるようなタイプでもない。だんだんとグループが形成されていくコミニュティの中で、片桐千花はいつまでたっても一人ぼっちだった。
「で。片桐さんはこんな辺鄙な場所で何してんの?」
先ほどと同じ質問を繰り返した俺に、片桐さんは表情を動かさないまま答える。
「部活。ここ、部室だから」
「部活ぅ?」
言われて、きょろきょろと見回してみる。今は使われていない旧音楽室には彼女以外の誰もおらず、大きなピアノは埃をかぶっている。
「私、手芸部なの」
そう言って片桐さんは、俺から受け取った赤い毛糸玉を軽く持ち上げてみせた。
なるほど言われてみれば、彼女は休み時間になると裁縫箱を取り出して、何やらチクチクとやっている気がする。俺は彼女に興味がなかったので、それほど意識したことはなかったが。
「他の部員は?」
「私一人だけ。顧問の先生もいないし」
果たしてそれは部活動と言えるのだろうか、と思ったが黙っていた。片桐さんは窓際の椅子を引いて腰を下ろすと、二本の長い編み針を取り出す。白い小さな手が、赤い毛糸玉を掴んだ。
「編み物、好きなの?」
俺の問いに、片桐さんはちょっと困ったように眉を下げて口籠った。
「うーん、そうでもないけど」
「けど?」
「休み時間に一人で教室に居るときに、手芸してたら手持ち無沙汰にならないから」
意外な返答に、俺はぽかんと口を開ける。そんな俺に構わず、片桐さんはやや自嘲気味に続けた。
「友達がいないって思われるよりも、好きで一人でいるんだって思われてた方が、惨めじゃないでしょ」
俺の脳裏に、一人で黙々と手芸をしている片桐さんの姿が浮かんだ。わいわいと賑やかな教室の中で、彼女は寂しさに押しつぶされないように必死に鎧を纏っているのだ。ぎこちなく編み針を動かしている彼女に向かって、俺はぽつりと呟く。
「俺、片桐さんは一人が好きなんだと思ってた」
「そう思われてたなら、成功なのかな。よかった」
口ではそう言ったけれど、片桐さんは全然嬉しくなさそうだった。
「片桐さん。ほんとは一人でいるの、好きじゃない?」
「……あんまり」
「じゃあ、俺ここにいても邪魔じゃない?」
俺の言葉に、片桐さんはちょっと笑った。じっと見ないと気付かないくらい、さりげなくて儚い笑みだった。
おそらくクラスメイトの誰もが目にしたことがないであろう彼女の笑顔は、驚くべきことに結構かわいかった。
俺は少し離れた場所に座ると、頬杖をついてぼんやりと彼女の横顔を見つめる。せっせと編み物をしている彼女は、俺の存在なんて少しも気にしていないみたいだ。
俺は彼女がいるこの空間に、不思議な心地良さを感じていた。一人になれる場所を探していたはずなのに、不思議なものだ。
春のあたたかな空気を含んだ風がカーテンを揺らす。窓から注ぐ陽射しはぽかぽかと温かい。ゆるゆると襲ってくる睡魔に抗わず目を閉じた俺は、もしかすると俺の欠けたピースはここにあるのかもしれない、と漠然と考えていた。
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