後日談

遠距離恋愛のすすめ

 片桐千花との遠距離恋愛が始まって、はや一年半が経とうとしている。

 とはいえ日本とシンガポールと距離はいかんともし難く、実際に会って話をした日にちを数えたら、おそらく一ヶ月にも満たないだろう。時差がほとんどないことだけが救いで、折を見てはビデオ通話をしていたが、画面越しの会話だけだと満たされないものもある。


『もういい。これ以上話してても仕方ないから、切るね』


 温度のない声とともに、ぶちっ、と通話が切れた。パソコンのディスプレイに表示された「通話を終了しました」の文字はやけに無機質で、勝手に終了してんじゃねーよ、と無駄に苛立ってしまう。

 遠距離恋愛は難しい。直接会って抱きしめてキスのひとつでもできれば簡単に解決するような問題が、いつまで経っても片付かない。

 飲むのを忘れて放置していた缶ビールは、すっかり炭酸が抜けてぬるくなっていた。ただ苦いだけの液体をごくごくと喉に流し込む。

 最近残業続きで、しかも休日に仕事に駆り出されることも多かった。デスクの上に処理しきれない事務仕事が溜まっていることも気になっている。出入り企業の社長と少々衝突して、余計なストレスも抱えていた。

 千花だって日本を離れて慣れない外国で仕事をしているのだから、大変に決まっている。疲れているのはお互いさまだ。

 それでも俺は、仕事終わりに彼女と通話をする余裕すらなかった。いつもは癒されるはずの会話も、ささくれだった心をちくちくと刺すばかりだった。

 どうして千花は今、俺のそばに居てくれないんだろう。彼女をこの腕に抱きしめることさえできれば、こんな苛立ちなんてすぐに霧散してしまうだろうに。

 どうにもむしゃくしゃしていた俺は、コンビニで買った缶ビールを片手に、心にもないことを言い放ってしまった。


「遠距離恋愛なんて余計なリソース割くだけだし、やるもんじゃねーな」


 ディスプレイ画面の向こう側の千花は『そう』と低い声で呟いて、そっと目を伏せた。


『航くんがもし私のこと待てなくなったら、いつでも他の人のところに行ってもいいからね』


 千花がもしあからさまに怒ったり悲しんだりしたなら、俺はきっともう少し心穏やかになれたはずだ。彼女のどこか投げやりな、突き放すような言葉は、的確に俺の心臓を抉った。


「なんだよ、それ。結局千花は、その程度の気持ちってことだよな」

『遠距離恋愛に余計なリソース割けないって言ったのは、航くんの方でしょう』

「割けない、とは言ってねーよ」


 そんなところから口論が始まって、結局通話は一方的に切られてしまった。やってしまった、とゲーミングチェアの上で膝を抱える。俺は今、この世で一番みみっちくてくだらない生き物だ。

 鉄面皮だった中学時代よりは多少表情豊かになったとはいえ、未だに千花は表情に乏しい。パソコンの画面越しだと、微妙な感情の機微までは読み取れないことだってある。寂しいも会いたいも、口にするのは俺ばかりで、彼女はいつだって平然としているように見える。

 ……なあ千花、ほんとに俺のこと好きなの?

 俺はそんな情けない問いかけを、幾度となく飲み込んでいる。

 思えば今まで付き合っていた女性に、「本当に私のこと好きなの?」と訊かれたことは何度かあった。俺はそのたびに、なんでそんなわかりきったことをわざわざ訊くんだろう、好きじゃなきゃ付き合わないだろ、と不思議に思っていたのだが、今なら歴代の元カノたちの気持ちがわかる。言葉にしてもらわないと、どうしようもなく不安なのだ。

 千花の海外勤務は、いつ終わるともわからない。最短で三年、最長で五年と聞いている。最低でもあと一年半は、この状況に耐えなければならない。


 ――千花が日本に戻ってきたら、結婚しよう。


 千花にそう伝えたのが、半年前のこと。俺が差し出した婚約指輪を、彼女は大きな瞳に涙を浮かべて受け取ってくれた。


 ――本当に私でいいの? 待っててくれるの?

 ――千花でいいんじゃなくて、千花じゃないとダメなんだよ。十年かけて思い知った。

 ――私だって、そうだよ。


 嬉しい、と微笑んだ彼女の顔は今でも鮮明に思い出せるのに、なんだか都合の良い幻だったような気さえする。

 こんなどうしようもない夜は、さっさと寝てしまうに限る。俺は残ったビールを飲み干すと、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。疲れているせいか、眠りに落ちるのにそれほど時間はかからなかった。


 その夜、俺は久しぶりに千花の夢を見た。何故か中学時代の姿をしていた彼女は、懐かしいあの旧音楽室で、紺色のセーラー服を着て、赤いマフラーをせっせと編んでいた。俺は頬杖をついて、それをじっと眺めている。俺にとっては大切な、甘酸っぱい初恋の思い出だった。




 翌日、俺はトラブっていた相手と無事和解し、うまく契約を取りつけた。事務仕事はまだたっぷり残っていたが、残業をすることなく定時で会社を出た。来週の俺が頑張るはずだから、たぶん大丈夫だ。駅のホームに辿り着くなり電車が到着して、すぐに乗れた。今日は金曜日だし、明日は休みだ。なんだか久しぶりに晴れやかな気分だった。

 電車から降りると、駅から自宅マンションのあいだにあるスーパーで、晩飯と酒を購入した。今日はひときわ寒さが厳しいので、温めるだけのおでんにした。吐く息は白く、澄み切った夜の空には真っ白い巨大な月が浮かんでいる。遠い海の向こうにいる彼女とは、今夜は月が綺麗だね、だなんて感想を共有することすらできない。

 とりあえず帰宅したらSkypeを繋いで、「昨日はごめん」と千花に謝ろう。どれだけ余計なリソースを割かれるとしても、結局俺は千花以外を選ぶつもりはないのだ。

 オートロックを解除して、エレベーターに乗って八階で降りる。キーケースを手の中でくるくると弄んでいると、ふと、扉の前に誰かが立ちすくんでいるのが見えた。

 まっすぐな黒髪のロングヘア。真っ黒いビー玉みたいな、つり目がちの大きな瞳。この季節にしてはやけに薄手のコートに、申し訳程度にストールを巻いている。しきりに両手を擦り合わせては、白い息を吐きかけていた。


「…………千花?」


 そんなバカな。こんなところに、彼女がいるはずがない。

 俺の呼びかけに、彼女はゆっくりとこちらを向いた。ほんの少しだけ唇の端っこをつり上げて、「久しぶり」と薄く微笑む。


「……な、んでっ、ここにいんの!?」


 俺はその場にエコバッグを放り出すと、一目散に千花に駆け寄って抱きしめた。すっぽりと腕の中に入った彼女の身体は、氷のように冷え切っている。


「日本、寒いね。久しぶりすぎてちょっと舐めてた」

「あ、当たり前だろ! 十二月だぞ!」


 ぎゅーっと強く抱きしめて、ぺたぺたと頬の輪郭に触れて、今目の前にいる彼女が幻ではないことを確かめる。俺はもう一度「なんで、ここにいんの」と質問を繰り返した。


「今日、有休取ってたから。朝イチの飛行機乗ってここまで来た。着いたのは一時間くらい前かな」

「信じらんねー……連絡ぐらいしてよ……」

「空港着いたら連絡しようと思ったんだけど、スマホ忘れてきたことに気がついて。ごめんなさい」


 それにしたって、七時間もかけてここまで来るなんて、とんでもない無計画だ。俺も似たようなことをした手前、人のことは言えないのだが。

 なんとも言えない顔をしている俺に、千花はやや悲しそうに瞬きをした。やっぱり画面越しじゃない方が、彼女の感情の動きがよくわかる。


「……迷惑、だった?」

「そんなわけない」


 即答した俺は、彼女を抱きしめる腕に力をこめる。会いたかった、本当に会いたかった。何度繰り返しても足りないぐらいだ。

 千花は俺の頰をぱちんと両手で挟んで、大きな瞳で見つめてくる。力強い光を湛えたこの瞳が、俺は昔から好きだった。


「航くん。私昨日はあんなこと言ったけど、本当は航くんが他の人のところに行くのは嫌」

「……うん。どこにも、行かねーよ」

「航くんがもう遠距離恋愛なんてもううんざりだって思ったら、こうやってまた会いに来るから。だって、繋がってるんでしょ? ……赤い糸」


 はにかんでそう言った千花が、そっと細い小指を差し出してくる。俺は自らの小指をそれに絡めて、馬鹿みたいに「うん」と頷く。

 ……解けそうになった糸は、何度でも何度でも結び直せばいい。十年経っても千切れなかった、俺と千花の運命を舐めるな。

 それにしても。そのためだけにここまで来る、彼女のバイタリティには感服だ。頭ではわかっていても、なかなかできることではない。


「……千花、もしかしてそれだけ言いにここまで来たの? ちょっと男前すぎねー?」

「うん。それもあるけど、ほんとは」


 俺の背中に腕を回した千花が、ぎゅっと強く抱きついてくる。冷たくなっていた身体は、いつのまにか俺と同じ温度になっていた。


「わ、私が……航くんに会いたかっただけ。……会いたかった。ほんとは、ずっと寂しかった」


 彼女の頰が真っ赤になっているのは、きっと寒さのせいだけではないだろう。ほんとに俺のこと好きなの、だなんて馬鹿げた質問は、もはやする必要はない。七時間かけて会いに来てくれる情熱的な彼女の愛を、疑えるはずもないではないか。

 ひやりとした額に唇を押しつけると、彼女の顔がますます赤くなった。とりあえず、先程ほっぽりだしたおでんを回収して、ビールを飲みながら一緒に食べよう。狭いベッドで二人で眠ろう。彼女と過ごす素晴らしき週末の始まりに、俺はこっそり笑みを溢した。

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赤い糸、まだ繋がってますか? 織島かのこ @kanoco

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