現在、四月
ゆるゆると瞼を持ち上げると、煌々とした蛍光灯の光が目に飛び込んできた。上体を起こしてガシガシと頭を掻く。
つけっぱなしになっていたテレビには、巨乳のグラビアアイドルがフラフープをしている映像が映し出されていた。わりと好みの顔だったので、揺れる胸をついつい凝視してしまう。テーブルに置いてあるビールの缶を持ち上げて、三分の一ほど残った中身を飲み干した。
……なんだか妙に懐かしい夢を見ていた気がするけれど、思い出せない。
大学を卒業してから社会人になって、はや四年目。仕事を終えて帰宅するなり、缶ビールとつまみを開けてソファでうたた寝をする毎日は健全と言い難いが、二十代の独身サラリーマンなんて大体こんなもんだろう。実家を出て一人暮らしをしているし、付き合っていた彼女とは去年別れた。したがって、俺の自堕落な生活に文句を言ってくる人はいない。気楽ではあるが、それはそれでちょっと寂しいものだ。
二本目の缶ビールを開けたところで、テーブルの上に置いてあるスマートフォンが震えた。手に取って見ると、しばらく連絡を取っていない中学時代からの友人の名前が表示されている。俺は驚いて、通話ボタンをタップした。
「え、
「コウ! ひっさしぶりー!」
スマホの向こうからは、底抜けに明るい声が聞こえてくる。中学のとき三年間同じクラスだった、
「マジで久しぶりじゃん! え、なに? なんかあった? まさか結婚するとか言わねーよな」
この年齢になると、そういう知らせを受けてもおかしくない。同世代ではまだ独身の方が多いとはいえ、先日も会社の同期の結婚式に出席したばかりだ。
しかし隆二は、やや声のトーンを落として答えた。
「いや、オレこないだ彼女と別れたばっかで……」
「げっ。ごめん」
「結婚……するつもりだったんだけどなあ」
電話越しでもわかるほどに、がっくりと落ち込んでしまった友人に、俺は慌ててフォローを入れる。
「いや、俺も今彼女いねえし! いいじゃん気楽で! 今度飲みに行こうぜ!」
「行く……」
隆二は深い溜息をついた後、「そうそう」とようやく気持ちを持ち直したように続ける。
「来月、中三のクラスの同窓会やるんだけど、コウも来る? 俺、幹事やるから」
「へー」
隆二の言葉に、俺の頭には先程まで見ていた夢の残骸が浮かんでは消えていく。
古ぼけた廊下に伸びる赤い糸。旧音楽室の隅の陽だまり。やや掠れたハスキーな声。つり目がちな大きな瞳……。
果たして俺は、どんな夢を見ていたんだろうか。
「コウのカノジョも来るらしいし」
ぼんやりと考え込んでいる俺の耳に、予想外の言葉が飛び込んでくる。すっとんきょうな声で「彼女ぉ!?」と叫んでしまった。自分の記憶が正しければ、中学時代の俺に恋人はいなかった、はずだ。
動揺している俺に、隆二はからかうような笑い声をたてる。
「ほら、片桐さんだよ。片桐千花」
「あー……」
その名前を聞いただけで、俺の頭にははっきりと顔が浮かんだ。
もう十年以上会っていないというのに、唇の横にある小さなほくろまで鮮明に思い出せる。他のクラスメイトの姿はもう既におぼろげになっているのに、記憶というのは不思議なものだ。それは俺が相当長い時間、彼女の顔を見つめていたことの表れでもある。
「いや、俺別に片桐さんと付き合ってたとかじゃねーから」
「でもおまえ、しょっちゅう片桐さんにちょっかいかけてたじゃん。物好きだなーってみんな言ってたんだぞ」
物好きだなというセリフは、当時から散々聞いていた。俺があれやこれやと片桐千花に構うのを、周囲が不思議に思っていたのも知っている。
あのクラスの中で、好き好んで彼女に話しかける人間は俺だけだったし、彼女に一番近しいクラスメイトは間違いなく俺だと自負していた。からかいまじりに「さっさと付き合っちゃえばいいのに」と言ってくる奴もいた。それでも。
「……卒業してから、一回も会ってねーし」
中学の卒業式に別れてから、俺は一度たりとも片桐千花に会っていない。
地元の公立高校に進学した俺と、私立の女子校に進学した彼女は、あっというまに疎遠になり、互いに連絡のひとつも取らなかった。
片桐千花は、これまでに何度か開催された同窓会には一度も顔を出さなかった。成人式にも、彼女の姿はなかった。友人がろくにいないのだから、仕方のないことなのかもしれない。
それでも、俺に会いたいとは思ってくれなかったのか、とやや拗ねたような気持ちになった。自分からは連絡しないくせに、ずいぶんと傲慢なことだ。
所詮はその程度の関係だったのだ。俺の中で彼女はほんの少し特別な存在ではあったが、それを口にしたことは一度もなかった。
中学を卒業した後、俺は何人かの女性と交際してきたし、付き合っているときはそれなりに本気だった、はずだ。それでもふとしたときに、彼女の影がよぎる瞬間があった。
たとえばキスをしているとき。ベッドの上で身体を組み敷いているとき。こんなとき彼女だったらどんな顔をするのだろうか、という想いが時折頭を掠めた。そのたびに俺は恋人に対して罪悪感を抱いた。そのせいかどうかはわからないが、結局どの恋もうまくはいかなかった。
「そっか。まあ、中学のクラスメイトなんてそんなもんだよなー。俺も当時仲良かったのに、全然連絡取ってない奴とかいるし」
俺の心境などいざ知らず、隆二は呑気にそんなことを言っている。
「で、コウ。同窓会行く?」
「……行く」
スマホを片手に、俺は頷いた。この機会を逃したら、もう二度と片桐千花には会えない気がする。どうしても、俺は彼女にもう一度会いたかった。
別に、いまさら彼女とどうこうなりたいわけじゃない。初恋の思い出というのは、必要以上に美化されてしまうものだ。彼女と再会して「なんだこんなもんか、意外と大したことなかったな」と思えたなら、それでいい。そうすれば俺も初恋の亡霊に縛られることなく、スッキリと新しい恋に向かうことができるだろう。
「オッケー了解。じゃ、また詳細連絡するわ。あ、個人的に飲みにも行こうぜ」
「うぃーす」
互いにじゃあなと挨拶を交わして、通話を切った。
再びごろりとソファに寝転んで、スマホのアドレス帳を呼び出してみる。何度も機種変更を繰り返したスマホの中に、片桐千花の名前はまだ残っていた。画面には、十一桁の番号が表示されている。もちろん、発信ボタンを押す勇気はないが。
目を閉じると、口角を僅かに上げたささやかな笑みが頭に浮かぶ。これも夢の残骸なのだろうか。おぼろげな赤い糸を掴むように伸ばした右手は、虚しくするりと空を切った。
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