第16話 世界からの否定
階段から十階の廊下を覗き見る修誠と真琴。
「誰もいませんね……」
「そうね……」
そのフロアは一本の廊下にオフィスが一つだけでなので、それは一目で見て取れた。
修誠が言うようにその廊下には誰もいない。
しかし、壁を隔てた向こうのオフィスの中。そこから、ただならぬ気配を二人は感じ取っていた。
「でも、何かいますね…これ」
「いるね…。相当やばいのがいるね…」
どちらのものか分からないが、ごくりと唾を飲む音がやたらと大きく聞こえた。
「よし、もう少し近づこうか……」
「大丈夫ですか……? 気付かれたら一巻の終わりですよ」
「君は何しにここまで来たんだ。ほら、行くよ」
「は、はい…」
二人はゆっくりとその廊下を歩みだす。
足音を殺すためにそろりと一歩を踏みしめ、徐々にだが確実にその距離を縮めていく。
徐々に徐々に。
一歩、また一歩と。
オフィスのドアが近づけば近づくほど、まるでそこに空気の壁があるように二人の歩みを邪魔しようとする。
その異様なプレッシャーを押し退けるように、さらにまた一歩を踏み出していく。
そうしてオフィスのドアの近くまでやってきたとき、その中から何やら声のような音が聞こえてきた。
誰かと誰かが喋っている。
修誠と真琴は目で合図すると、その場に留まり話声に聞き耳を立てるのだった。
☆
薄暗闇の向こう、そこに人影のようなものが現れる。
「何だお前は?」
シヴァは突然現れたその者に誰何する。
「ふふ、何だとは挨拶だね。僕はずっとここで君を見ていたというのに」
徐々にその姿をはっきりと現してくるその声の主。透き通るような白い肌をした、色素の薄い独特な雰囲気を持った少女。
その少女は、シヴァと視線を合わせるとにこりと微笑んだ。
「ここで? はっ、でたらめ言ってんじゃねぇ。お前なんかいなかっただろ」
「僕は何処にでもいるし、君の事もこの世界に来てからずっと見ているよ」
少女はシヴァから視線を外さず、ゆっくりとシヴァの方へと歩きだした。
「おい、何わけ分かんねぇ事言ってんだ。つか、お前は何もんだって質問に答えろよ!」
「ふふふ、気になっているようだね」
少女は歩く足を止めない。
まるで揶揄うような表情を浮かべるその少女は、そのままゆっくりとシヴァの周りを歩き回る。
そんな少女にシヴァは苛立ちを隠せなくなっていく。
「ふざけんな。ちゃんと答えないと殺すぞ」
「君に僕が殺せるのかな?」
「ふん。やってやるよ」
言うや否や、シヴァは少女に向かって手を翳す。
すると大きな音を立てながら炎の塊が出現し、シヴァは少女へと狙いを定めた。
ごうという音を上げながらその炎の塊が放出されると、それは一気に少女の眼前へと迫る。
しかし。
その炎の塊は少女の目の前で一瞬にして姿を消してしまったのだ。
「なっ! き、消えた!? どういう事だ……? おい、お前が消したのか!?」
目の前で起こったあり得ない事に、驚いて呆気に取られるシヴァ。
「おいおい危ないなぁ。火事になるところだったよ」
「……何をした?」
「さあて、何をしたんだろうね」
そう言って少女はとぼけるような仕草をとる。
それが更にシヴァを苛つかせた。
「ふざけんな」
シヴァは吐き捨てるようにそう言うと、一気に少女へと間合いを詰める。
それは、ほんの瞬きをするような刹那である。その瞬間に、シヴァの手刀は少女の首元へと迫ったのだ。
しかし、これも少女の首を跳ね飛ばすには至らなかった。
シヴァの手刀は空を切り、そこにいたはずの少女はシヴァの後ろへと回り込んでいたのだった。
「なっ!?」
「無駄だよ、君に僕は殺せない。触れる事すら出来ないよ」
「くっ。な、何者だお前……」
「僕はこの世界そのものだよ。まあ、神のようなものとでも思ってくれたまえ」
自慢げな顔でそう語る少女。
「神だと? ふざけやがって……」
「あれ、信じてないのかい? まあ、君たちが思うような神とは違うけどね」
シヴァたちのいた世界にも、いくつもの信仰があり宗教はあった。そのそれぞれに神が存在し、それぞれの神に異なった意味を持っていた。
しかしその神に対する信仰というのは、人間たちや一部の亜人種たちのものである。シヴァたちゴブリンには信仰は存在しないし、祈りを捧げる対象も無い。故に神という存在自体、ゴブリンには理解などできないのである。
もちろんシヴァ自身も神などというものは信じてはいない。
しかし。
信じてはいないはずなのだが、その少女からは今まで感じた事のない気配を感じていた。
「ちっ、何が神だ。俺を化かそうってつもりか…?」
「のようなものって言ってるじゃないか。君たちが思っているようなものとは随分と違うものだから別にそこに拘らなくてもいいんだけどね」
飄々とした雰囲気でそう言った少女。
そんな少女に反するように、シヴァの内心には焦りが広がっていた。
というのも、シヴァはこの少女の言う事が真実であると認識してしまっているからである。何故そう思うのかは分からないが、とにかくその少女の言葉にはそう思わせる力のような物があった。
シヴァは今更になって自分の手から汗が噴き出している事に気が付く。
一つ舌打ちをしその手をぐっと握りしめると、シヴァは大きく息を吐き出した。
「それで、その神とやらが俺に何か用なのか?」
「お、ようやく納得してくれたかい?」
「うるせぇ、いいから用件を言えよ。用も無いのに姿を見せたわけじゃないだろ」
語気を荒げるシヴァ。
少女はそれを躱すようにふっと口角を上げる。
「ああ、もちろんさ。少し君に釘を刺しておこうかと思ってね、小鬼君」
「釘を刺す…? 何だ、俺たちが気に入らないって話か。だったら無駄足だったな、悪いがこっちはお前のご機嫌を取るために生きてんじゃないんでね」
「そういう事ではないよ小鬼君。気に入らないんじゃない、これは否定だよ」
「否定だと? それはどういう事だ?」
「そのままの意味さ。君たちはこの世界にとって否定的な存在という事さ。世界は不都合な存在を否定する、これが真理というものだよ」
少女の要領を得ない話にシヴァの苛立ちは増していく。
「不都合ってのは何だよ。そんな事は俺たちの知った事では無いんだがな」
「君たちはこの世界とは別の世界からやって来た、この世界の理からは外れた存在なんだよ。謂わば異物というやつだ、この意味が分かるかい?」
「……何が言いたいんだ?」
「疫病と同じさ。生き物の体に異物が入り込めば、それを排除しようと体が反応する。そのせいで熱や嘔吐を繰り返すわけだよ」
シヴァはまた一つ舌打ちをする。
「おい、回りくどい言い方をするな! 結局何が言いたいんだ!」
「つまりだね。君たちという異物が入り込んだせいで、それに反応してこの世界はいま歪に捻じ曲がろうとしているんだ」
少女は手をぐるりと回してそれを表現する。
「……捻じ曲がる? 捻じ曲がったらどうなるんだよ?」
「さあね、本来あるべき姿とは大きく異なってしまうか、あるいはこの世界そのものが消えてしまうかもしれない。それはもう理外の話だからね、この僕にも想像がつかない事なんだ」
少女は表情も変えずに淡々とそう言ってのけた。
「……それが、世界による否定ということか」
そう訊きながら、シヴァはごくりと生唾を飲む。
「まあそういう事だね」
少女は嘘を言っていない。
そう感じ取れるだけに、余計に焦燥感のようなものがシヴァを襲っていた。
「はんっ! だから何だ? それで俺たちにどうしろって言うつもりだ!?」
「まあここは穏便に帰ってもらえると有難いんだけどね」
「ふざけるな! 帰れと言われて、はいそうですかと聞けるわけないだろ。俺たちは気が付いたらこの世界にいた、自分の意思でここに来たわけじゃないんだよ!」
シヴァの語気はさらに荒くなる。
ゴブリンという元の世界では忌み嫌われる存在が、こちらの世界では存在すら否定される。その事を突き付けられた事で、シヴァはその憤りを抑えられなくなっていた。
「ああ、知っているよ。だから帰りたい気持ちがあるんじゃないかと思ったんだけどね」
「は? てめぇらの都合で散々俺たちを振り回しやがって。今度は世界が消えそうだから向こうに還そうってのか!」
「いやいや君たちをこっちに連れてきたのは僕ではないよ。それに、二つの世界を結ぶには色々と条件が揃わないといけないんでね、悪いが君たちを還すのは今の状態では無理なんだ」
「何だよそれ。結局は出来ないないのか、神が聞いて呆れるね」
「帰ってくれると有難いと、希望を言ったまでさ」
「ははっ、神が希望をね。そりゃ何の冗談だ」
シヴァは小馬鹿にするように鼻を鳴らして笑った。
「神と言っても君たちが思うような万能な存在ではないからね。そんな事よりも話を戻そうか小鬼君」
「話を戻す……。そういや釘を刺しに来たとか言ってたな」
「うむ、君たちが来た事でもう既に色々と歪みが出始めていてね、かなり修正の難しい所まで来ている。しかも君たちが動けば動くほど歪みは大きくなっていっているんだよ」
「はっ、知った事じゃないね」
シヴァの言葉にも構わずに少女は話を続ける。
「それでこれ以上歪みが大きくならないよう、君には一つ頼みを聞いて欲しい」
「頼み……? 何だそれ、聞いてやる義理は無いが一応言ってみろよ」
「なに大したことじゃない。時が来るまで大人しくしておいて欲しい、唯それだけだよ」
「時が来るまで? 何の時だ? 何がある?」
「悪いがそれはまだ明かせない。でも君はこの頼みを聞くしかないだろ? この世界が無くなってしまえば、君たちも消えて無くなるんだから」
そう言って掌を上に向け小首を傾げる少女。
シヴァはその少女に射る様な眼差しを向けながら、少し沈黙する。
「それは出来ないな」
腕を組み、色々と思考を巡らせた後シヴァはそう口にした。
「それはどうしてだい?」
「どうしても何も、俺たちがこっちに来てからやった事を考えると殆どが俺たちの生存に欠かせないものだ。それを止めろってのは死ねって言ってるのと同じだからだ」
「そうかな。その割には動きが派手なようだけど?」
すかさず少女は指摘を入れてくるが、シヴァはとぼけた態度でそれに応える。
「まあ偶には行き過ぎる事はあるかもしれんがな。その辺は主観の相違だろ」
「武器も集めているようだね」
「護身用だ。なんせ人間に追われる身だからな。てかお前、俺たちを監視し過ぎだろ」
「僕は神だからね、この世界の事は何でも把握しているよ」
そう言って少女は自慢げな顔を浮かべた。
「けっ、何が神だ。神だったら俺たちを救ってみせろってんだよ」
「それは君たちが勝手に作り上げた空想上の神とやらの仕事だろ。僕の仕事じゃないよ」
「何だそれ。とにかく、俺たちは今の行動を抑えるつもりはない。世界が無くならない可能性もあるんだろ? どうせならそっちの可能性の方に賭けるね」
シヴァの言葉を聞き、少女は「ふーん」と言って顎に手を当てる。
「小鬼の割に頭が回るようだね君は。しかし僕としてはこの世界が歪んでしまうのも消えてしまうのも容認できないことなんだよ」
「お前の都合なんて知らないね」
「ふふふ、そうか。じゃあ君の好きには出来ないようにその時を少し早めるとしようかな」
「その時を早める……? 一体何しようっていうんだ?」
「秘密だよ。知りたいんだったら大人しくしてる事だね」
そう言いながら、薄闇の向こうで少女は静かに笑った。
「話にならないな。肝心な所をはぐらかしやがって、そんなものに俺たちが従うわけないだろ」
「そうか、それは残念だよ。きっと君は後悔することになるよ」
薄っすらと浮かべられた少女の笑み、その雰囲気が少しずつ変化していく。
表情は先程から少しも変わっていないのだが、その笑顔には神気のようなものが纏わりついて見るものに畏れを抱かせる。
それはシヴァとて例外ではない。
「何をしようとしてるんだか知らないがこっちにも思い付いた事がある。悪いがお前の好きにさせるつもりは無いんでね」
シヴァはその少女が放つ雰囲気に圧されながらも、それに張り合うように虚勢を張る。
「ほう、何かするつもりなのかな?」
「まあな。お前の言った事がヒントになった、礼を言うぞ」
シヴァは少女に負けじと歪んだ笑顔を浮かべた。
「ふーん。それで、何をするのか是非聞いてみたいんだけどね」
「はは、それは秘密だね。まあいずれ分かる事だから楽しみにしてろよ」
シヴァがそう言うと少女の神気はさらに膨れ上がり、笑顔を浮かべたままのシヴァを襲う。
それに自身の魔力をぶつけるようにして対抗するシヴァ。
「へぇ、それは楽しみだ」
笑顔を浮かべたまま睨み合う二人。
しかしその和やかな見た目とは裏腹に、まるで猛獣同士が威嚇しあうような気配を撒き散らすのである。
まさに一触即発といった雰囲気の二人。
しかしその時。
部屋の外から何かが振動する音が聴こえてきた。
二人はその音のする方に一度視線を送る。
しかし、特にそれを気に留めることなくまた視線をお互いに戻した。
「どうやら時間切れのようだね、名残惜しいがもう行かなきゃいけない。君との会話はなかなか楽しめたよ小鬼君」
「俺は別に楽しくなんかなかったけどな」
「そうかい? じゃあ次はもっと楽しい話でもしようかな」
そう言いながら少女の姿は徐々に薄くなっていく。
「次なんてねぇ。こっちは二度と会いたく無いんだからよ」
「ふふ、しかし僕たちはまた会う事になる。それは決まっている事なんだよ小鬼君」
その声も段々と小さくなっていき。
やがて少女の姿はシヴァの前から消え去ってしまった。
少女がいなくなり、静まり返る薄暗いオフィス。
そして、そのオフィスの中に一人のこされたシヴァは。
「さてと…」
そう呟くと、部屋の外へと視線を移した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます