第7話 二人の日常




 それは、ごく一般的な暮らしを送るごく一般的な中年夫婦。


 そのごく一般的な中流家庭の、極めて一般的な朝の風景である。



 夫は新聞を片手に朝食を食べ、一方ではテレビの音に耳を傾けている。


 どれか一つにすれば良いものなのだが、これは夫の毎朝のルーティンのようなもの。そうしなければいけない理由は無いが、しなければ居心地が悪くなるのである。


 妻からすれば自分の作った朝食をもっと味わってほしいという不満を長年抱えてはいるのだが、もうそれも諦念の気持ちに変わっている。


 それもこれも、いつもと変わらない朝の一幕である。



『一か月前に突如姿を現し、多くの死傷者を出した謎の生物、通称ゴブリンは依然としてその行方が分かっておらず――』



 ゴブリンのニュースが連日テレビを賑わせているが、この夫婦にとってそれはどこか遠くの世界のように感じていた。


 事件はこの夫婦が住む街の近くで起こっている事なのだが、それをテレビやネットのニュースを通して伝えられると、近所だろうが地球の裏側だろうがそこに違いを感じなくなるのだ。


 夫婦にとっては、そんな事よりももっと身近な事に頭を悩ませるのである。



「丈瑠はまだ寝てるのか?」


 男は新聞から一切目を離さずに妻にそう問いかける。


「いつも通りまだよ」


 妻もまた夫の方には目を向けずにそう答える。


「しょうがない奴だな……」


「あの子、私が起こすと怒るのよ。そのくせ寝坊するとすぐ私のせいにするし。あなたから一度丈瑠に言ってやってよ」


 丈瑠とはこの夫婦の一人息子、『樋野 丈瑠ひの たける』の事である。


 いつの時代も親が頭を悩ませるのは子供の事。といえば聞こえが良いのだが、この夫婦の場合は端的にいえば想像力の欠如である。この夫婦にとってはこれまでの日常こそが現実であり、それ以外の事は全て物語の中やそれこそテレビだけの世界なのだ。



「もう高校二年生だ、構われたくない年頃なんだろう」


「そんな事は分かってます。でも放っておいたら何もやらないし、後で後悔するのはあの子なんだから。だいたいあなたは――」


 また始まったかと、夫は溜息を吐く。


 とにかくこの妻は一を言えば十が返ってくる。これがあるから朝はあまり喋らないようにしていたのである。無闇に藪をつつかないようにしていたのに、迂闊だったと夫は反省した。


「そんなに心配しなくても、そろそろ――」


 夫がそう言ったときである。



「おはようございますー!」



 玄関から元気よく鳴る鈴の音ような良い声が聞こえてきた。


「――ほら、今日も来たみたいだ」


 その声の主とは丈瑠の幼馴染、『白石 楓しらいし かえで』のもの。


 樋野家と白石家は隣同士で昔から親しい間柄であるんだが、それは子供たちもそうであった。幼い頃から仲の良かった二人は、現在も一緒に学校へ通うほど仲が良い。そんな二人を見ている両家の親たちは本気で二人を結婚させたいと思っているのだが、当人たちはまだそんな事は意識はしていないようだった。



 玄関を上がった楓は食卓につく二人に顔を見せる。


「おじさん、おばさん、おはようございます」


 髪を一つに束ねた少し垢抜けない感じのある女の子ではあるが、その純朴そうな笑顔に二人の気持ちは自然と明るくなる。


「ああ、楓ちゃん。おはよう」


「おはよう、楓ちゃん」


 挨拶を交わした後、楓はその食卓に丈瑠の姿が無い事に気付く。


「丈瑠はまだ寝てるんですか?」


「そうなのよ、いつもの事で悪いんだけど起こしてやってくれる?」


「任せてください!」


 鼻息荒くそう応えた楓は素早く身をひるがえし、丈瑠の部屋へと階段を駆け上がって行った。



 丈瑠の両親はそんな楓の姿を微笑ましく見つめるのだった。


 このところ特にそうなのだが、丈瑠は年々口数が減ってきており、三人でいても家の中はしんと静まり返っているのだ。そんな家庭内にあっては、楓がやってくる一瞬の賑やかな時間がとても貴重なものに感じていた。



『丈瑠ー部屋入るよー! 早く起きないと遅刻するよー!』



「ふふ、今日も賑やかだね」


「ああそうだな」


 二階から聴こえてくる声に二人はその相好を崩す。


 二人はこの時間が好きだった。楓がやってきて、丈瑠がそれに渋々言う事を聞く。毎朝の騒がしいひと時である。


 そんな騒がしくも楽しい朝の一時に、この一瞬が出来るだけ長く続くようにと二人は願うのだった。



『きゃああああ!!! ちょ、ちょっと丈瑠!?』


『お、おい! 急に布団めくるなよ!!』



 二階から聴こえてくる声に二人は溜息を吐いた。


「丈瑠……」


 楽しい朝の一時であるが、溜息の漏れる時もある。



『――今も尚相次ぐ女性の失踪事件に関して、警察はゴブリンとの関連性についても慎重に捜査を行っていくとのことです』



 点けっぱなしのテレビの音。


 それを聴いていた者はここにはいない。






  ☆






 楓に起こされた丈瑠は素早く準備を済ませ、簡単に朝食を済ませると飛び出すように家を出た。


 丈瑠が準備するのを待っていたために時間的な余裕が無くなってしまい、二人は小走りで学校への道を急いでいた。


 その道すがら。



「もう丈瑠のせいで遅刻しそうじゃない」


「朝は弱いんだよ俺は…」


 丈瑠はあくびをしながらそう答えた。


 二人は小中高と同じ学校に通い、いつも一緒に登校している。小さい頃からいつもこうしている二人は、自分達の距離が近すぎる事をあまり意識はしない。時折ある周囲の冷やかしにも二人の関係は動じないのである。



「そんなの遅刻の言い訳にはならないんだからね」


「はいはい、分かってるよ」


「あ、もう絶対分かってない。朝くらい自分で起きれるようにならないとダメだからね」


「いいよ楓が起こしてくれれば」


「な、またそんな事言って…」


 丈瑠は割とボーっとしている事が多く口数も少ない。だから丈瑠が何を考えているのか、たまに楓にも分からない時があった。


 例えばこういう言葉も、丈瑠はどういう意味で言っているのかと楓は頭を悩ますのである。



 二人の間に何となく沈黙が流れた。



「…あ、そうだ丈瑠。今日の放課後空いてるよね?」


 沈黙に耐えかねた楓がその口を開いた。


「空いてるけど、何?」


「んとね、付き合って欲しい所があるんだけど…」


「別にいいけど、どこ?」


「えと、隣町なんだけど。店舗限定の特典があってね、それを買いに行きたいんだよね」


 楓はそう言いながら少し恥ずかしそうにする。


「またゲームか?」


「うん…。一緒に行ってくれる?」


「うん、いいよ」


 楓はゲームの趣味を丈瑠以外に話していない。だからこうして、時折ゲームを買いにいくのに丈瑠が駆り出されるのである。


 また丈瑠自身も嫌がったりはしないので、楓の方も頼みやすいというのもあった。



「よし、じゃあ放課後ね。勝手に帰っちゃダメだよ」


「はいはい、分かったよ」


 楓は丈瑠に念を押しつつも、少し嬉しそうに顔を綻ばせる。


 楓はくすりと笑って。


「さ、早く学校行くよ!」


 そう言いながら丈瑠の背中をぱしっと叩いた。



 足並み早く学校へと行く、いつもと変わらない朝である。






 放課後――



 時刻は日暮れ時。


 学校を終えた二人は楓の用事で隣町までやって来ていた。


 学校帰りという事で制服のままの二人。その片方である楓の手には、今日の目的の物が入った紙袋がしっかりと握られていた。



「むふふふ」


 妙な笑い声が丈瑠の横から聞こえてくる。


「良かったな、売り切れてなくて」


「うん、本当は朝から並びたかったんだけど学校あるからね」


 楓の欲しかったゲームはそれほど人気のタイトルでは無かったらしく、夕方になっても品切れにはなっていなかった。しかし楓としては一秒でも早く手にしたかったという気持ちがが強かったのだ。



「もっと都心の方に行ったら日が替わった瞬間に売り出す所もあるんじゃないか?」


「ああ、あるかもね。でも深夜に出かけるとかお母さん許してくれないから」


「それくらい俺が行ってきてもいいけど?」


「ほんとっ!? あ、でもダメだ。そんな事したら丈瑠は絶対に朝起きられなくなる…」


「俺は別に構わないけど」


「私が構うの!」


 楓は「もう!」と言って口を尖らせた。



「それにしても、そんなにそのゲーム面白いの?」


「なになに興味ある? なんだったら丈瑠も一緒にやる?」


「いやいや、それ乙女ゲームだろ」


 楓がハマっているゲームというのは乙女ゲームと呼ばれる女性向けの恋愛ゲームである。


「あ、分かってないなぁ。私が選ぶゲームは乙女ゲームといっても恋愛要素は少なめのストーリー重視の物なんだからね」


「ストーリー重視……」


 楓は確かにストーリーを重視している。さらに付け加えるならグラフィックの綺麗さもゲームを選ぶ上での基準となっている。


 しかし丈瑠は知っている。もう一つ重要なファクターが有るという事を。


 今回、楓が隣町まで買いに来た理由は何か。それは店舗販売限定の特典が目当てだったのだ。そしてその特典の内容というのが…。



 そのゲームに出演している声優による生声ドラマCDである。



「――何? 何か言いたい事でもあるの?」


「いや、別に。楓が楽しそうで何よりだなと思って」


「な、何よそれ。もう、変な事言わないでよね」


 楓は顔をほんのりと赤くさせながら丈瑠の背中をバシッと叩く。


 しかし、怒ったような口調の楓だが、その表情は嬉しそうに頬が緩んでいた。


 そんな楓を見て、丈瑠の表情も緩むのである。



「遅くなっちゃったね、早く帰ろ」


「うん」


 もう随分と傾いてきた夕日が、二人の背中をオレンジ色に染め上げる。目の前には二人の影が長く伸びていて、背の高い二人が仲も良さげに歩いているように見えた。


 そんな街中を暫く歩いていると、やがて辺りには人気が無くなってくる。


 慣れない所で少し道を外れてしまったようで、周りを見渡しても前方の遠くのほうに警察官が一人見えるだけ。



「丈瑠、この道で合ってるの?」


「大丈夫だよ、駅の方向は分かってるから」


 方向音痴の楓としては知らない道というのは不安になるところではあったが、丈瑠の落ち着いた雰囲気に不思議とその不安な気持ちは無くなっていた。


 こういう時の丈瑠は本当に頼りになる。


 そんな事を再確認し、楓はほくそ笑むのだった。



 こんな毎日が、丈瑠と楓のいつもの日常である。


 恐らく明日も明後日も、その先もずっとこんな毎日が続くと二人は信じて疑わなかっただろう。



 しかし――



 そんな二人に、とある影が音も立てずに忍び寄る。




 素早く近寄ってくる影に二人はまだ気付いていない。




 気配を殺し、その影がどんどんと楓に近づき…。




「きゃああっうぐっ…!!!」




 二人の日常を切り裂くその声が、辺り一帯に鳴り響いたのである。




「か、楓!?」





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