第10話 アフターエフェクト
まるで靄がかかったようにはっきりとしない意識。
丈瑠の脳は昏睡と覚醒の狭間を彷徨い続け、意識を夢か現実か分からない世界に縛り付ける。
そんな夢うつつの中、遠くの方からは機械的な音が聞こえてくる。
いつまでも規則的に鳴り響くその音。
それは、不思議と丈瑠の事を呼んでいるような気がした。
何処かで聞いた事のあるようなその音が、心電図モニターの鳴る音だという事に気が付くまで随分と長い時間を要した。
やがて目覚め始める意識の中で、丈瑠には音の正体が判っても何故そんな音が聴こえるのかまでは理解できなかった。
次に視界が広がる。
見た事もない部屋に、見た事も無い機材が並んでいる。見た事は無いが、丈瑠はここが何処かは知っていた。
(ここは…、病院……?)
目を見開いた丈瑠は自分が何故こんな所にいるのか、その記憶を辿ろうと思考を巡らせる。
しかし、そんな間もなく――
「丈瑠っ!!」
よく知った声が急に丈瑠の名を呼んだのである。
「かあ…さん……」
その声の主とは丈瑠の母親だった。
涙をこぼし、掠れるような声で丈瑠の名を呼ぶ母親。
しかし、たった今目を覚ましたばかりの丈瑠には、その母親の様子に戸惑うばかりであった。
「良かった…、良かった……。丈瑠が目を覚ましてくれた……」
「うっ、…体が……。一体、何が……」
丈瑠は自分の体の重さに驚いた。
それはまるで全身が鉛になってしまった様な、自分の体とは思えないくらいに動いてはくれないのだ。
「ちょっと大丈夫? まだ動いては駄目よ。丈瑠、あんた三日も眠ったままだったんだから」
「三日……?」
自由に動かない体と、徐々に襲ってくる鈍い痛み。それらが、丈瑠の記憶をゆっくりと呼び起こす。
思い出したくもないゴブリン達の姿。それが楓に纏わり付き、連れ去られようとしている光景。
そこから先は朦朧とした意識の中の夢のような記憶。
それらがフラッシュバックのように丈瑠の脳裏に浮かんできたのだった。
「か、楓は!? 楓はどうなっ…ぐぅっ!!」
急に力んだために丈瑠の全身を激痛が襲う。
その激痛に呻き声を上げる丈瑠であったが、どうしても楓の事が気になるのだった。
「動いたら駄目だって! 無理せず安静にしときなさいよ」
母はそんな丈瑠を諭すように言うのだが。
「母さん、そんな事より楓は!? 楓はどうなったの!?」
「…………」
しかしその答えは返ってこない。
その母の無言が何よりも雄弁に語っていたのだ。
楓は連れ去られてしまったのだと…。
「ぅっ…」
丈瑠は小さい呻き声を一つ洩らした。
「丈瑠、今は何も考えなくていいから…。ゆっくり休んで早く体を体を治す事だけ考えてればいいからね……」
丈瑠にとって、まるで家族のようにして育った人がいなくなった。
母はその事を考えると、掛ける言葉が見つからずにそう言う事しか出来なかったのだ。
しかしそんな声も丈瑠の耳には届かない。
そこから丈瑠は、ずっと暗く塞ぎ込む事となった。
夜になると父親が病室に駆け込んできた。
丈瑠が意識を取り戻したと聞いたのだろう、その息の切れ方から余程慌ててやって来た事が窺える。
「丈瑠…、心配したぞ……」
医者が言うには、丈瑠はかなり危険な状態であったようだ。
血を失い過ぎていたために、脳に回る血もかなり少なくなっていたのである。ひょっとしたら脳に後遺症が出ているか、最悪このまま目を覚まさない可能性もあったのだ。
今のところ後遺症のような兆候は見られないが、それは今後の検査をしてみないと完全には分からないとのこと。
しかし、両親にとっては目を覚ましただけでも何よりの事だった。
「ごめん父さん……」
丈瑠は体を動かせない為、寝たままの姿勢でそう呟いた。
「いや、いいんだ。誰が悪い訳じゃない…。それより体の方は大丈夫か? 痛みは無いか?」
いつもより優しい言葉を掛けてくる父に丈瑠は目頭が熱くなる。
「ごめん……」
丈瑠は呟くようにもう一度それを口にした。
それはとても小さな声だったが、静まり返る病室にはその声がとても大きく聞こえるのだった。
それから暫く沈黙が続いた。
この病室に来るまでは喜んでいた父親も、今はその感情とは別の感情も生まれている。
自分の息子の痛々しい姿と憔悴しきった様子に、言葉を失うほどの苦しさを覚えていたのだ。
「どうした、もっと元気を出せ。元気が無いと早く良くならんぞ」
父は暗い雰囲気を払拭しようと無理に明かるく振舞おうとした。
しかし――
「ごめん……」
返ってくる言葉はそれだけだった。
この時になって父は理解した。
それが、自分だけに向けた言葉では無いのだと。
「楓ちゃんの事な……。あまり思い詰めるんじゃないぞ…」
丈瑠の気持ちを理解した父は、重々しい声でそう諭すのだが…。
「ごめん……」
それにも丈瑠はそう呟くだけだった。
「分かってるか? 丈瑠のせいなんかじゃ……」
父はそう言おうとして言葉を飲み込んだ。
きっと丈瑠の中ではそういう事では無いのだろうと、その様子から窺い知れるからである。
これは何を言っても慰めにはならないと判断した父は――
「丈瑠…、ゆっくり休め。明日もまた来るからな……」
「うん…。ごめんよ父さん……」
丈瑠の頭を一撫でして、込み上げるものを堪えながら病室を後にするのだった。
「頑張れよ…」
去り際に一言そう言い残して。
父のいなくなった病室で一人天井を見詰める丈瑠。
しんと静まり返った室内ではあるが、遠くの方に看護師らしき人達の話し声も聞こえる。
その声をぼんやりと聞きながら、考えるは楓の事。
守れなかった自分が不甲斐なく、非力である自分を疎ましく思った。
あの時こうしていれば、もっと出来る事があったはずだ、いや、自分の命を投げ出してでも助けなければいけなかった。
最初に躊躇して、その場に居合わせた警察官に自分のやるべき事を丸投げにしてしまった、丈瑠はその自分の甘さが腹立たしくてしょうがなかった。
そして、丈瑠の目から涙が一粒こぼれ落ちる。
悔しさに涙する丈瑠。
思い返す程に悔しくて悔しくてしょうがなかったのだ。
だがそんな丈瑠に、遠くからの看護師たちの声がやたらと耳に入ってくる。
ぺちゃくちゃと話すその声は何となく耳障りで。
自分とは対照的なその呑気な声に苛立ちすら覚えた。
「くそっ……」
――丈瑠からそんな声が漏れた、その時である。
『僕の血は馴染みそうかい?』
丈瑠の耳にそんな声が入ってきた。
それは看護師たちの声の中。何を言っているか分からないほど遠くの声の中に、それだけがはっきりと聞こえてきたのだ。
(今の声は……?)
男か女かも分からない中性的な声。
丈瑠にとって初めて聞く声ではあったけど、何故かその声は以前から知っているような気がした。
その声を聞いた丈瑠は何故か心が軽くなるような気がして。
全身の力がすっと抜けたような感覚に陥った。
そして。
そのまま、ゆっくりと眠りに落ちるのだった。
一夜明けて、次の日になると丈瑠の体は少し動かせるようになっていた。
医者からは暫くは体を動かすのは無理だろうと言われていただけに、動くようになった丈瑠を見て母親は目に涙を溜めて喜んでいた。
その喜ぶ母の横で、体が動かせるようになった丈瑠はある事に気が付く。
ぐるぐるに巻かれた両手の包帯なのだが、左手だけがどうにも大きさがおかしいという事に。
そしてその左手を見て、あの時の光景がフラッシュバックする。
楓へと伸ばした左手。その手を一匹のゴブリンによって切り飛ばされ、大量の血を噴き出してその場に動けなくなってしまった。あの時の映像が生々しく丈瑠の頭の中に蘇ってくるのだ。
丈瑠の心臓の鼓動は早くなり、それと同時に強烈な吐き気を催した。
「うぅぅ……。うぅえぇぇぇぇ…」
「た、丈瑠、大丈夫!?」
急に嘔吐き始めた丈瑠に心配する母の声。
しかしその母の声は丈瑠には届かない。
丈瑠の脳裏に何度も何度もあの時の光景が映し出され、それがぐるぐると頭の中を巡りだす。
それと同時に込み上げてくる嘔吐物。
まるで自分の中で誰かが住み着いて、それが好き勝手に暴れ回っているいるような。そんな感覚に襲われ、丈瑠は悶え苦しむ。
「うあぁぁ!!」
「た、丈瑠! ナ、ナースコールを…」
慌ててナースコールする母。するとすぐに看護師がやって来る。
そして苦しんでいる丈瑠の姿を見た看護師が医者の先生を呼んでくると病室を出ていった。
間もなくしてやってきた医者は丈瑠を丹念に診察した後、すぐに検査に回すように看護師に指示を出した。
苦しむ丈瑠はベッドに寝かされたままの状態で、病室から検査室へと運ばれていく。
医師や看護師は慣れた様子でテキパキとその作業をこなすのだが、それを見ていた丈瑠の母が一番落ち着きなくその様子を眺めていたのだった。
検査終了後――
医者は診察室にて丈瑠の母と二人でその結果についてを話す。
「特に異常はありませんね。恐らく輸血の後遺症でしょう」
医者は検査の結果を見ながら頭を掻く。
「後遺症って、そんな事があるんですか…?」
「ええ。血液型が同じでも人間の体にとっては他人の血は異物ですからね、異物を排除しようと体が反応するんです。時々こういう症状がでるケースがありますが心配しなくても大丈夫ですよ。まあ暫くはこういう症状が続くかもしれませんが、次第に収まってくると思います」
「そ、そうですか…」
医師は事務的で淡々とした話し方をするのだが、丈瑠の母にとってはそれが逆に安心感となって落ち着く事ができた。
「あとは、そうですね……。PTSDが出ているかもしれませんね、そっちのケアもしていきましょう」
「はい、よろしくお願いします」
その後、医師から幾つかの注意点と治療の説明などを受け、母はそれを熱心に聞いていた。
「――説明は以上ですが、お母さんの方から質問などはありますか?」
医師は決まり事を喋るように、母にそう訊いた。
「いえ…、あ、そういえば血液を提供してくれた方の連絡先とかは分かりませんか? お礼をしたいのですが……」
丈瑠は大量の血を失っていた為に相応の輸血が必要だったのだが、丈瑠の血液型が少し特殊だった為に輸血用の血液が足りなかった。その時の丈瑠の症状は一刻を争う状態であり、血液センターから血液が届くのを待っていられないほどの緊急事態だったのである。
急を要するその状況に、医者も頭を抱えたその時だった。
偶然そこに居合わせたある少女が血液の提供を申し出てくれたのだ。
年の頃は丈瑠と同年代くらい、肌は白くて透明で髪の色素も薄くどこか不思議な雰囲気を持ったその少女。何故かその少女の申し出に誰もが疑問を抱かず、輸血はスムーズに行われる事となった。
かくして丈瑠は、その一命をとりとめる事が出来たという訳である。
「ああ、あの女の子ですか。それがあれ以来見かけないんですよ。入院患者でもないし看護師たちに訊いても誰も見た事が無いそうで…」
「そうですか……」
「また見かけましたらお知らせしますよ。当院で治療を受けているならまた見かけると思いますし」
「わかりました。よろしくお願いします」
医師との話はそれで終了した。
その後、丈瑠の病室に戻った母は医師から受けたその症状の説明を丈瑠に告げる。
母は丈瑠を安心させようとなるべく表情を和らげて話すのだが、吐き気を抑える薬を飲んだ丈瑠はそれを茫然とした顔で聞いていた。
「丈瑠…、ちゃんと聞いてる?」
「……ああ。聞いてるよ」
薬が効いているのか、丈瑠の声に力は無い。
心配する母だが、どうする事もできず歯痒い気持ちになっていた。
「……母さん。……楓のおじさんとおばさんはどうしてる?」
「……ああ。白石さん、かなり気落ちしててね……。もう少し落ち着いたら丈瑠の見舞いに来るって言ってたよ、丈瑠によろしくって」
「そうか…」
丈瑠の反応はそう呟いただけだった。
少し沈黙があって。
無表情にベッドの端を見詰めるだけの丈瑠に母親は。
「あんたが気にする事じゃないからね…。背負い込むんじゃないよ」
そう声を掛けた。
「うん……」
この日から丈瑠は、薬による倦怠感と時々襲ってくる強烈な吐き気との戦いとなった。
次の日も、その次の日も、またその次の日も。
その症状に変化は無く、丈瑠の精神状態は限界を超えて疲弊していく。
そして何度も何度も嘔吐を繰り返す中で、丈瑠自身もう意識があるのかどうかも分からなくなってきていた。
そんな状態が何日も続く。
丈瑠の精神状態は相変わらずだが、それに反して体の方は異常な回復力を見せる。
医者も驚くほどの回復速度で、後は通院にしてそろそろ退院をという話が出始めたころであった。
ある日の消灯後、丈瑠は薄暗い病室の天井をぼんやりと眺めていた。
退院の話も朦朧とする意識の中で聞いていた丈瑠は、明日も明後日もこれが続くのだと思いその心中を鬱屈とさせていたのである。
いつ襲ってくるか分からない吐き気が既に恐怖となっていた丈瑠。
そして彼はいつしかこう思うようになっていた。
全てを投げ出して楽になりたいと。
丈瑠の精神状態はもう正常なものでは無くなっており、あらゆる事に嫌気が差していたのである。
つまりはもう限界だったのだ。
そして丈瑠は。
「死にたい……」
小さくそう呟くのだった。
その時である――
「死なれては困るよ」
何処からともなく聞こえてきた声。
それは間違いなく何処かで聞いた事がある声だった。
男とも女とも分からない、中性的でずっと昔から聞き慣れていたかのような。
不思議と丈瑠の耳にすんなりと入ってくるその声。
その声を聞いた丈瑠は、何故か疲弊した心が洗われるような感覚に陥った。
(この声…。そうだ前に父さんが帰った後に聞いた声だ)
さらにその声は丈瑠に語り掛てくる。
「憐れな人の子よ、君の命運はまだ尽きていない。残念だがまだ死ねぬのだ」
そしてその声の主は丈瑠の目の前に姿を現したのだった。
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