第18話 それぞれの今日

 文久三年六月二日

 枡屋


 *京香 side*


 朝五つ半。いつものように朝餉を済ませ、縁側を通って自分の部屋へ戻る途中、そこから見える青空に目を細めた。

「いい天気……」

 枡屋さんから過去の話を打ち明けられた次の日、大阪から戻って来たお遥さんを迎え入れた。中村隼人さんと、晴乃さんのことを伝えた時の、お遥さんの喜びようは私の想像以上だった。

 枡屋さんとも、いつも通り接している。が、一つだけ変わってしまったことは、枡屋さんに対する意識だ。明仁さん曰く、何が何でも池田屋事件を迎えるまでに、枡屋さんが捕縛されない展開にもって行かなければならない。そう、強く思うようになっていた。

「今日は特に暑うなりそやね」

「そうですね。今日もお出かけになるんですか?」

「ああ。ほな、行って来ます」

「気を付けて行ってらっしゃい」

 すれ違いざま、枡屋さんと挨拶を交わす。

 吉田稔麿さんが訪れたあの日から、吉田さん以外にも龍馬さんと仲の良い、望月亀弥太さんや、桂小五郎さんなど、有名な倒幕派志士たちが訪れるようになった。

 史実が正しければ、池田屋事件は来年の今頃起こることになっているのだけれど、こんなに早くから計画が進められていたのかと、否が応でも緊張感が高まる。

 緊張感が高まるといえば、明仁さんが、近藤さんたちと一緒に大阪へ旅立つ日が今日だと聞いていたことから、いつもよりも落ち着かない朝を迎えていた。

 そんな中、長州藩が馬関海峡にやって来ていた米船を撃破したとの報せが届いた。

 世に言う、下関戦争というものだろう。確か、孝明天皇の強い要望を受けた将軍・家茂公が攘夷の実行を約束したにも関わらず、幕府としては攘夷を軍事行動とはみなしていなくて、公武合体論が進められている最中に勃発してしまったこの戦争によって、幕府は更なる苦境に追い込まれてしまうのだ。その一件に、高杉さんが関わっていたのかどうかは分からないけれど、この戦争が最初の攘夷実行だとされている。


(もう、奇兵隊は編成されたのかな。)


 ふと、高杉さんや龍馬さんの、凛々しい表情かおと豪快な笑い声を思い出す。

 龍馬さんや高杉さんたちと関わりを持ってしまった自分の、これからの身の振り方を考えると、どうすれば良いのか分からなくなる。何故なら、現在いまの私は大好きな壬生浪士組を見守りながらも、お世話になっている枡屋さんや、倒幕派志士たちの手助けになりたいと思ってしまっているからだ。

 今はまだ、壬生浪士組にとって枡屋はただの商家の一つかもしれないけれど、いずれやって来るかもしれないその日の為に、私がここにいてはいけない気がした。

 そして、もう一つ。

 部屋へ戻り、箪笥の中からあの指輪を取り出して、慎一郎さんと共に見つけた時のことを思い出す。

 あの時はこの指輪だけだったけれど、他にも私達と同じようにタイムスリップして来た人がいるとしたら、こちらに来た時の私達と同じように、突然の出来事に困惑しているに違いない。

 いろいろな思いが交差する中、ふと浮かんだ慎一郎さんの優しい微笑み。どれだけ頼っていたのかと、今更ながら気付かされる。


『これが、僕らが受け止めなければならない現実なら、覚悟を決めなければ……生きる為に……』


「……生きる為に」

 私は、指輪を握り締めながら、今日もこの空の下で、国の為に奔走している彼らに思いを馳せた。


 *

 *

 *


 八木家・壬生屯所内


 *慎一郎 side*


 いつもの羽織を纏った明仁さんたちを見送った後、僕は残った藤堂さんたちと共に稽古に励んでいた。

 大阪へ下ったのは、芹沢さんを筆頭に近藤さんや山南さんたち、明仁さんを含めた11名。明仁さん以外、京香さんの言っていた通りのメンバーが選ばれたことで、その現実味を帯びていく。

「よぉーし、止めい」

 藤堂さんの威勢の良い声が庭に響き渡る。

 各自、井戸から汲んだ水で水浴びをする人、手拭いで汗を拭いている人など。いつもの光景の中で、一つだけ変わった箇所があった。


(誠、か。本物なんだよなぁ。)


 昨日出来上がったばかりの隊旗。それを目にする度に、身が引き締まる思いがする。

 この時代の尺とか寸とかいう数値はよく分からないけれど、縦約120㎝、横90㎝の赤い旗のほぼ中央に『誠』の文字が白く染め抜かれていて、同様に下の方にも白くだんだら模様が描かれている。

 先日、入隊して来た人たちを含め、総勢43名が、ここ八木邸や前川邸にて共に生活するようになったことにより、増々、活気づいて来た。その反面、体調を悪くしていた阿比留さんがお亡くなりになったり、殿内さんが何者かに斬殺されてしまったり、粕谷さん達数名が組を離れたりしていた。

「沖田くん、これ」

「あ、ありがとうございます」

 不意に手拭いを放られ、慌ててお礼を返す。と、松原さんはにっこりと微笑みながら片手を上げ、庭を後にした。

 僕はその背中を見送り、袖から両腕だけ抜いて上半身の汗を拭っていた時のこと。今度は、土方副長から声を掛けられた。

「沖田、ちょっといいか?」

「あ、はい」

 縁側まで歩み寄ると、副長は視線を定めずに静かに口を開いた。

「総司から聴いたんだが、山本先生から学んでいたんだってな」

「え?」

「え、じゃねぇだろ」

「あ、あーっ! あれですね、剣術!」

「それ以外に何があるってんだ」

 たちまち、訝しげに眉を顰め瞳を細める副長に、僕はとりあえずの苦笑を返す。


(土方さんから聞いていたことを忘れてた……)


「いや、その。違うことを考えていたんで……すみません」

「で、山本先生とは今も付き合いが?」

「いえ、ここずっと会っていないですね。そんなに親しかった訳ではないので」

 嘘をつくのも慣れてきたと思いきや、口にすればするほど、罪悪感に苛まれてしまう。

 逆に山本満次郎さんのことを尋ね返すと、副長は首を軽く横に振った。

「いや。機会はあったんだが、そうこうしているうちにこっちへ来ることになって、結局は会えずじまいだ」

「そうだったんですね」

 何となく、今度は山本さんの人柄を尋ねられそうな気がして、僕は話題を変えようと必死に考えを巡らせた。それでも間に合わず、案の定、その人柄を問われ、咄嗟に浮かんだ親父の性格をそのまま伝えた。

「頑固で融通が利かないところもありますが、剣の道に掛ける意気込みは誰にも負けないというか。器の大きい人だと、僕は思います」

「そうか。一度、手合せ願いたいものだな」

「と、言ってもですね、今のは僕が勝手に抱いたイメージなんで……」

 慌てて言い訳をするも、「いめぇじ?」と、怪しいものを見るかのように瞳を細める副長に、僕はまた顔を引き攣らせた。

「あ、その、イメージというのは印象という意味です!」

「………」

「えっとぉ……」


(藪をつついて蛇を出すとはこの事だなぁ……)


 更に細められる瞳を間近に、もうお手上げだと思った。その時、庭正面の部屋奥からやって来た源之丞さんに助けられた。

 その表情は、少し硬く見える。

「土方はん。お話し中のところすんまへんけど、ちいとばかし相談したいことがおますのや」

「何でしょう?」

「わての部屋でお話しします」

 そう言って、ぎこねちない笑みを浮かべたまま奥の部屋へと向かう源之丞さんから少し遅れて、副長もその後を追いかける。

 源之丞さんの言っていた相談したいことというのは、多分、芹沢さん達のことだろう。去り際、溜息をついていた副長もそう思っていたに違いない。

 今の僕らには贅沢出来るほどのお金は無く、八木家の方々から道具などを借りることが多い。ほとんどの人が借りたままの形で返すものの、芹沢さんたちにはその気が無いのか、弓なども壊してしまうことがあった為、それが主な理由だと思われる。それ以外だとすると、急激に増えた隊士の数だろうか。京香さんも言っていたけれど、八木家や前川家の人たちからすれば、今の僕らは迷惑な客人でしかないはずだから。

 いずれにせよ、あの副長のことだから、上手く源之丞さんを言いくるめるんだろう。

 などと思いながら、引き続き汗を拭い始めて間もなく、

「う、腹減った」

 腹の虫が騒いで軽く項垂れた。その時、門の方から荷物を抱えて歩いて来るお梅さんの姿を見とめた。

「今日も精が出ますなぁ」

 お梅さんみたいな人のことを京美人と言うのだろう。菱屋さんからの使いで屯所を訪れるようになってからというもの、割と頻繁に顔を出すようになっていた。

「芹沢はんは?」

「もう、大阪へ行かれました」

「なんや、もう行ってしもたん?折角、稲荷作って来たゆうのに……」

 言いながら、縁側に腰掛け、その隣に荷物を置いて、丁寧に風呂敷を開いてゆく。次いで、中から顔を出した黒い二重箱の蓋を開け、傍に残っていた隊士たちに振る舞い始めた。

「これ、良かったら皆はんでどうぞ」

 お梅さんがにっこりと微笑みながらそう言うと、その場にいた佐々木さんや、安藤さんたちがお梅さんを囲むようにして、次々と稲荷を頬張ってゆく。

「沖田はんもどうどす?」

「あ、じゃあ一つ頂きます」

 差し出された重箱から残り少ない稲荷寿司をつまんで、そのまま一口頬張る。と、甘さ控えめながら、しっとりとした味と食感にたちまち胃袋が満たされ始める。

「美味い! 稲荷寿司なんて久しぶりに食べました」

「喜んで貰えたようで何よりやわ」

 他のみんなも同じように、「美味い」を連発している。京香さんから聞いていたお梅さんのイメージは、もっと大人で近寄りがたいものだったのだけれど、実際は優しくて気さくな人だという印象を受けた。

「沖田はん」

「はい?」

「ちょい、こちらへ」

 手招きされるがままその距離を縮めると、ゆっくりと伸びて来たお梅さんの、細くてしなやかな指先が口元を掠めていった。

「ご飯粒、ついといやした」

「あ……」

 指先の米粒を上品に口へと含むお梅さんに唖然としながらも、一瞬、妖艶な瞳とその色っぽい唇に目を奪われた。

 やっぱり京香さんの言っていた通り、お梅さんには何て言うか、人を惹きつける魅力があるように思える。そんなことを思いながら、少し熱を帯びた頬を悟られまいと、僕はお梅さんに背を向け、残りの稲荷を口に放り込んだ。

 それから、しばらくして空になった重箱を風呂敷で包み、帰ろうとしていたお梅さんを引きとめる声がした。その声の主は、土方副長だった。

「土方はん、おはようさんどす」

「来ていたのか」

「はい。稲荷寿司を作って来たんで、皆はんに振る舞っといやした」

 ほな、と言って、お梅さんは来た時のように重箱を胸元に抱えながら、上品にお辞儀をして、ゆっくりと屯所を後にした。


 *

 *

 *


 大阪・八軒家、舟宿京屋忠兵衛方


 *明仁 side*


「はぁ、久々に歩き疲れた……」

 と、宿について真っ先に座り込んだのは総司だった。

 早めの朝餉を食ってすぐに屯所を出ても、辿り着いたのは夕七つ頃。その、夕七つというのが何時なのかはいまいち分からないが、日の傾きからしてだいたい17時くらいだろうか。

 俺を含め、二人の局長の他、芹沢一派から野口、平山が。そして、井上、山南、沖田、永倉、斎藤、島田というメンバー。

 寺島から聞いていた通り、芹沢の一言で明晩にでも舟遊びに興じることとなった。

 本当に斎藤が腹痛を起こすのか半信半疑だったが、一応、胃薬を持参した。大阪の町も京都ほどではないがだいたいは覚えている。

 上手くいくかどうかは分からないが、迷わずにいられさえすれば、力士たちに出会うことはないはずだ。

 それにしても、現代なら電車などで1時間くらいの距離を、8時間以上かけて歩いて来たことにも新鮮な驚きを感じた。比較的、修行の一環として階段などで足腰を鍛えていたからこのくらいで根をあげることは無いが、これが毎日続いたら平気でいられる自信はない。

 総司以外は、平然とした顔で寛いでいるものの、さすがにこれから飲みに行こうと言い出す奴はいなかった。



 翌日。

 朝餉を済ませた俺たちは、早速、市中見廻りへと繰り出した。

 近藤、井上、山南、永倉、斎藤、島田の6名。芹沢、野口、平山、沖田、俺という編成で二手に分かれ、市中や商家などを見廻り、不逞浪士を捕えるのが今回の任務だ。

 宿を出てから、どれくらいの時が経っただろうか。とある商家で数名の不逞浪士を捕え、大阪町奉行所へ連行した頃にはもう、日が傾きかけていた。

 その後、いったん宿へ戻った俺達は着替えを済ませ、しばらく寛いだ後、いよいよ舟遊びに繰り出すことになった。

 次々と部屋を去って行く奴らを横目に、荷物を解いている源さんと、その隣で書物に目を通している近藤さんに、自分も出かけることを伝える。

「じゃあ、俺も行って来ます」

 立ち上がりかけて、近藤さんから呼び止められる。すかさず、「あとは頼んだ」と、言われ、俺は少し躊躇いながらも無言で頷き返した。

 行先は、堂島川。

 割と頻繁に訪れていた現代の大阪とは大きく違うものの、変わらない箇所もあり、今自分がどの辺りに来ているのかが何となく分かった。


(堂島川ということは、北新地。梅田あたりか……)


 現代でも賑やかな観光名所として有名だが、この時代の夜の大阪は、京都とはまた違った華やかさを感じる。

「じつは、楽しみだったんですよね」

 総司が楽しげに微笑う。と、その後ろにいた山南さんもまた、にこやかに微笑んでいる。

 その後、舟に乗り、しばらくしてから斎藤が腕組みをしながら顔を引き攣らせ始めた。来たか、と思いそれとなく声を掛ける。

「顔色が悪いな、どうかしたのか?」

「……腹が」

 とうとう、両手で腹を抑え込み、顔を歪める斎藤を気にしながらも、船頭に現在の場所を尋ねた結果、ここが鍋島岸であることが判明する。そして、不機嫌そうな芹沢たちと船を降りた後、持参した胃薬を斎藤に手渡した。

「胃薬だ。万が一の為にと、慎一郎に持たされてたのを思い出した」

 などと、嘘をつくのも慣れて来た。

 用意周到だと、感心したように言う総司に斎藤を預けると、俺は休める宿を確保する為、つまらなさそうな芹沢にここで待つように伝えた。

 付き合うと言ってくれた永倉と共に宿を手配することになったのだが。


(ここで迷ってるうちに、出会っちまうんだったよな。)


 寺島も、うろ覚えだと言っていたが、今のところ史実通りに事が進んでいる。だが、もしかしたら現代に伝えられていない事実もあるかもしれないことを考えると、自然と足は速まった。


(確か、この辺りに老舗の宿があったはず……)


 入り組んだ路地を抜けた先、大通りにそれらしき宿を見つけ、ひとまず安堵した。


「ここなら」

 と、喜んだのもつかの間。船着場へ戻ろうと、走り出してすぐに、前方から歩いて来る大柄な集団を確認する。


(あいつらと出くわすことになるのか)


 急がなければと、来た道を戻りかけて間もなく、すぐ側で女の悲鳴がして足を止めた。

 声のした方へ向かうと、狭く薄暗い路地裏で女が一人、左腕を押さえながら蹲っている。

「おい、大丈夫か?!」

「あ、あっちに……逃げ……」

「すぐに戻る」

 早口で言い切り、その視線が向いた方へと走り出す。と、不穏な動きをしている加害者らしき男が駆け去って行くのを見つけた。だが、すぐに人ごみへと紛れ、その姿を見失ってしまう。

「くそッ……」

 強盗か、それとも怨恨か。いずれにせよ、さっきの女が腕を負傷していたこともあり、俺はまた女の元へ急いだ。が、そこにあるはずの姿は無く、蹲っていた場所に少量の血痕が残されているだけだった。

「……どこへ行ったんだ」

 女の行方も気になったが、本題を思い出し、ロスした分を取り戻すようにして、船着場へと急いだ。

 見えてきた船着場にいるはずの芹沢たちがいないことに驚愕する暇もなく、俺は人ごみを避けながら、今度は力士たちを探した。

 その途中、永倉と合流し、これまでの経緯を簡潔に伝えると、まるでこの先何が起こるかが判っているかのように、一刻も早く合流しようと言い出した。

「ったく、世話の焼ける野郎だぜ」

 永倉がそう言いたくなる気持ちは分かる。

 俺と慎一郎は、壬生浪士組結成後からの付き合いだが、他の奴らはその前から芹沢たちの数々の悪行に付き合って来たのだから。

 京都へ辿り着くまでに起こしただろう焚火事件で、先番宿割を引き受けていた近藤さんと揉めたという話は有名だ。

 共に探し続けて、どれくらい経っただろうか。

「いったい何処に行っちまったんだ」

 永倉が息を荒げながら呟いた。その時、遠くに人だかりを発見した。

「ヤバいッ」

 紛れもなく、それが芹沢たちとさっきの力士たちだと確信した俺は、乱れた呼吸を整える間もなく駆け出していた。





 *あとがき*


余談ですが、調べてみたら、「やばい」って言葉はもう、この頃からあったみたいですねぇ。

「マジ」って言葉もあったとか…

 知らなかったです。

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