第17話 切なき想い
*京香side*
その晩のこと。
お風呂の準備を終え、薄暗い台所でお水を頂いていた。その時、背後から枡屋さんの声がして、私は湯呑を手にしたまま振り返った。
「あ、お帰りなさい!」
「ただいま。今日は、甘いもん買うて来ました」
そう言うと、枡屋さんは手にしていた箱を軽く上げてみせた。
「じゃあ、今お茶の準備をしますので、部屋で待っていて下さい」
こちらに微笑みながら頷き、台所を後にする枡屋さんを見送る。その後、出来上がったお茶を番頭さんたちに配り、枡屋さんの待つ部屋へ向かう。と、
「お待たせし、ました……」
開け放たれたままの障子の向こう、青い着流し姿の枡屋さんが座布団を枕にして無造作に横になっていた。
(余程疲れていたんだなぁ。それにしても、なんて朗らかな寝顔……)
起こさないようにお盆を床に置き、押し入れから取り出した掛布団をそっと被せる。お付き合いして来たのだろう、近寄って気づく微かなお酒の匂い。
枕元にある行燈の灯りを消そうとして、不意に呟いた枡屋さんの言葉に、思わず手が止まる。
それは、はっきりと聞き取ることは出来なかったものの、誰かに対しての詫びの言葉で、今度は目蓋を苦しげに歪め始めた。同時に、伸びて来た指先が私の手首に添えられる。
「……っ……」
誰かを引きとめるかのように強く握られた手首に微かな痛みを感じて、私は思わずもう片方の手で、その大きな手を包み込むように握り返した。次の瞬間、ゆっくりと開かれた色っぽい眼差しとかち合い、
「……
「え?」
逆にもう片方の手によって強く腕を引かれ、気が付けば、私は枡屋さんに覆い被さるようにしてその腕の中にいた。右頬に微熱を感じながら、逃れようとすればするほど力は強まってゆく。
「あ、あのっ! 枡屋さん私です、京香です」
「京香、はん……」
解放されると、枡屋さんも驚愕したような眼で私を見つめながら、ゆっくりと上体を起こした。
「……っつ」
急に起き上がったからだろう、枡屋さんは片手で顔を覆って指の隙間からこちらを窺うように言う。
「大丈夫や。それより、すんまへんどした」
「いえ、あの……突然だったのでびっくりしちゃいましたけど、お茶! お待たせしました」
しどろもどろになりながら、持参して畳の上に置いたままの御盆を、枡屋さんの目の前まで移動させた。
「なんや、寝ぼけてしもたようやね」
そう言うと、枡屋さんは這うようにして傍にある文机の上にあるお菓子の箱を手に取り、こちらに見えるように蓋を開けた。
「カステラですか?!」
久しぶりに見るカステラは、現代のものとなんら変わり無く綺麗にカットされている。勧められるままに頂いたのだけれど、甘さは控えめだった。
「久しぶりに食べたなぁ、カステラ」
「喜んで貰えたようで何よりや」
「はい、すっごく美味しいです!」
(はっ……!)
ふと、カステラにがっついてしまっている自分に気付く。それと同時に、飲み込むのに失敗して、苦しさからげんこつで胸を叩いた。
「んっ、んんー」
「はよう、お茶飲みぃ」
枡屋さんから湯呑を受け取って、急いでお茶をかっ込む。ようやくカステラが喉を通り過ぎてくれたことに安堵の息をつき、枡屋さんの楽しげな笑い声にまた視線を上げた。
「そない焦らんでも、これ全部あんさんのもんやさかい。ゆっくり食べなはれ」
「あはは、なんか恥ずかしいなぁ……」
苦笑する私に、枡屋さんはいつものように優しく微笑んでくれる。
そうしながらも、ふと見せる寂しげな表情や、さっき呟いた “ みお ” という一言も気になっていた。
だからと言って、こちらからどんな夢を見ていたのかなどと聞く訳にもいかないし、ましてや寝言を聞いてしまったとも言いづらい。
(何か話題を。あ、そうだ。吉田稔麿さんのことを伝えないと……)
夕刻頃、吉田稔麿さんが訪ねて来たことを伝えると、枡屋さんは少し厳かに瞳を細めた。
「吉田殿が。どのような要件で?」
「また、出直すと言っていただけで他には何も……」
「左様か」
何となく、沈黙が落ちる。すると、枡屋さんはおもむろに立ち上がり、障子の縁に手を添えながら夜空を見遣った。
「京香はん」
「はい」
私を呼ぶ声に答えると、枡屋さんはゆっくりとこちらを振り返った。
「綺麗やね。今宵の月は……」
私も立ち上がり、枡屋さんに寄り添うようにして見上げた月は、神秘的な光を放っているように見える。
「こない月を見ながら、よう酒を酌み交わしたもんや」
「月見酒、いいですねぇ」
誰と?と、尋ねてしまいそうになって、私はすぐに切り替え、その場をやり過ごそうとした。でも、続いた枡屋さんの、「誰と、とは聴かへんの?」と、いう一言に、私は戸惑いながらも、遠慮がちに口を開いた。
「……訊いてもいいんですか?」
「どのみち、聞かれてしもたやろ? さっきの……」
また苦笑を浮かべる枡屋さんに小さく頷き、“ みお ” と、囁かれたことを伝える。
「みおって?」
「わての、想い人どした」
「お、想い人……」
(だった?)
軽く驚いていると、すぐに枡屋さんの柔和な視線を受け止める。
「お話するそん前に、月見酒といきまひょか」
そう言いながら、お猪口を持つ振りをする枡屋さんに、私は大きく頷いた。
「あ、じゃあ、用意して来ますね」
「京香はん」
「はい?」
呼び止められ振り返ると、枡屋さんは少し遠慮がちに私を見つめ言った。
「あんさんさえ良ければの話やけど、出来たらあの着物に着替えて来て貰えまへんか?」
それから、しばらくしていつもの晩酌が始まった。
枡屋さんからお願いされた通り、初めてここへ来た時にお借りした着物を纏い、月明かりが差し込む縁側で寄り添うようにして枡屋さんのお猪口に徳利を傾ける。
今夜も美味しそうにお酒を飲み干す、枡屋さんの笑顔につられてしまう。
「本当に美味しそうに飲むんですよね、枡屋さんて」
「あんさんに注いでもろてるから、やろね。特にこの澄んだ目ぇが……」
すーっと、もう片方の指先が私の頬に添えられ、近づいた枡屋さんの少し細められた悲しげな瞳と目が合う。
「あんさんと初めて
枡屋さんは、手にしていたお猪口を配膳に戻すと、昔をふり返りながらゆっくりと話し始めた。
枡屋さんが、父親と共に上洛したのはまだ16歳の頃。松井美緒さんと出会ったのは、京都へ来て四年ほどが過ぎたくらいだったらしい。偶然、通りかかった路地裏で、数名の不逞浪士から因縁を付けられていた美緒さんを枡屋さんが助けたことが切っ掛けで、お付き合いが始まり、それからはとても幸せな日々を過ごしていたのだそうだ。
けれど、その幸せは長くは続かなかった。
「辻斬りに会うてしもたんや……」
「辻斬りって、江戸時代初期まで流行っていたと言われているあれですか?!」
私からの問いかけに、枡屋さんは困ったように微笑み頷いた。
辻斬りとは、武士が刀の切れ味や自らの腕を試す為に、往来で人を斬ることだということは時代小説から学んでいた。
「そん日は、共に花見をする約束をしとりました」
約束の時刻が過ぎても一向に現れない美緒さんのことが心配になり、彼女の実家へと急いだそうなのだけれど、駆けつけた先で枡屋さんが目にしたのは、彼女の変わり果てた姿だった。
「なんで美緒やったんやろ。何度もそう、思いました」
「……っ……」
「その安らかな顔を目にして、わては心に誓ったんどす。この世を変える為、尊王攘夷に自らの命を捧げようと」
掠れたような声でそう呟くと、枡屋さんはまた月を見遣る。
それ以来、熱心な尊王攘夷派である父親の影響を受け、師である
(梅田雲浜さんに弟子入りしていたってことは……)
「枡屋さん」
「ん?」
こちらに向けられる柔和な眼差し。私は、尋ねるなら今しかないと思い、枡屋さんを見つめながら今まで抱えていた疑問をぶつけた。
「養子に入る前は、何ていう名前だったんですか?」
大きな溜息と共に逸らされる視線。枡屋さんは泣いたように微笑みながら静かに口を開いた。
「誠の名は、古高俊太郎……」
(やっぱり、そうだったんだ。)
ようやく謎が解けたというか、すっきりした気持ち半分。もう半分は、やっぱりここがあの枡屋だったんだという思いでいっぱいになる。
「ただ、その名はもう一生使わへんさかい。今ここで忘れとくれやす」
「……分かりました」
しばらくして、この着物に着替えさせた理由も尋ねると、枡屋さんはふっと微笑った。
「実はそん着物、美緒の形見として譲り受けたものなんどす」
「え!? じゃあ、夕霧太夫に贈るって言っていたのは……」
「口からでまかせ。あん時は、ああ言うほかなかったんや」
枡屋さんが古高俊太郎だと判明しただけでも驚きなのに、今着ている着物が美緒さんの物だったという事実にもショックを受けた。
「そ、そんな大事な物を。私なんかに……」
「あんさんにならええ。そう、思えたんや」
私の肩にそっと手を添えながら諭すようにそう言うと、枡屋さんはまた配膳の上からお猪口を取りこちらへ差し出した。
そして、また美味しそうにお酒を飲んで、色っぽい吐息を零す。
そんな枡屋さんを見つめながら、私は考えていた。亡くなった美緒さんの分も、必死で日本を守ろうとしているこの人の力になりたいと。
「もうそろそろ、しまいにせんとあかんね」
「あ、すみません。お疲れなのに、いろいろと訊き過ぎてしまいましたね」
「そうやなくて、こっから先は沖田はんに許しを貰わんと」
「沖田さんに?」
枡屋さんは、きょとんとしている私を見ながらくすくすと笑い始める。
「いや、なんも」
なんか、はぐらかされたような気がするけれど、楽しそうにしてくれていることが嬉しくて、私は再び差し出されたお猪口に徳利を傾けた。
*
*
*
*明仁 side*
壬生屯所内
こうして、縁側に腰かけながら月を見上げるのはいつぶりだろうか。しかも、
「と、いうことなんですけど、土方さんはどう思いますか?」
「どうって?」
「えー、聞いてなかったんですかぁ?」
暗くてよく見えないが、明らかに呆れている様子の慎一郎に鼻で笑い返す。
これまでの話を聞くうち、寺島と見つけたとされる指輪は、どう考えても現代からやって来たものだと言っていいだろう。だが、雷が関係しているかどうかまでは頷けなかった。
「指輪に関しては、お前らの推察通りだと思うが。雷は偶然だろ」
「そうかなぁ……」
単純だが、落雷によってこちらの世界へと連れて来られたのだとしたら、同じ方法で現代へ戻れる可能性に期待するのは至って普通の考え方だと思う。だが、やはりそれだけでは確証は持てない。
「それより、今後の寺島との付き合い方だが、よりいっそう注意しなければと思っている。枡屋のことも、池田屋事件で捕縛される前までには、なんとかしなければ……」
続いた慎一郎の言葉に俺はまた笑うしかなかった。
「もし、現代へ戻れる方法が見つかったとしても、こっちに残るつもりでいるんでしょう?」
家族でも何でもないただの腐れ縁だが、多分、誰よりも俺という人間を理解してくれている。
「今、戻っても後悔だけが残るだろうからな」
「やっぱりね」
「だが、雷に賭けてみるのも良いだろう。その為には、もっと確実に情報を集めないとならないが」
一応、話を合わせる為、心にもないことを口走った。それでも、こいつと寺島だけは現代へ戻してやらなければという思いでいる。
「勿論、そうして行きますけど……」
「……けど?」
尋ねると、慎一郎は膝を抱え込みながら話し始めた。
「正直、いろんなことがあり過ぎて、不安で堪らなくなる時もあるんですよね」
ここまでの弱音を吐く慎一郎を見るのも久しぶりだった。ガキの頃以来だろうか、その横顔はあの頃と何も変わっていない。
「以前も言ったが、俺だって同じ思いだ。今はまだ仲間内のいざこざも可愛いもんだが、これから裏切りだの間者だのって、数々の争いに巻き込まれることになるんだからな」
「……命がいくつあっても足らないなぁ」
それが判っていながら、ここに残ると言い切る俺はやっぱりイカれているんだろうか?
近藤さんはその名の通り、勇ましいのかと思いきや、何かにつけて回りを笑わす明るい人柄で、土方さんは隊のことばかりを考えている威厳ある人だという印象が強いが、割と頻繁に俺達を島原へ誘うこともあった。他にも、悪役のイメージが先立っていた芹沢鴨は、ガキっぽく意外と子供好きな一面もある。
誰がどのように後世に伝えたのかは分からないが、こういった新たな一面を知って尚更、真実を確かめたい。何より、出来る限り無益な戦いを避けなければと、思っている。
短くも長い沈黙。
背後で人の気配を感じ、振り返る。と、風呂から戻ったであろう総司がこちらへ歩いてくるのを見とめた。
「こんなところで何をしているんです?」
青い着流し姿に、首からかけられた手拭いで頬の汗を拭いながら言う総司に、慎一郎が立ち上がりながら答える。
「ちょっと、ありまして……」
「その、ちょっとっていうのが気になるなぁ」
何かを企んでいるかのような総司にも、それに対し苦笑を漏らす慎一郎にも笑わずにはいられない。俺は二人に背を向けながらニヤけるのを堪えた。
この二人に、何かしらの共通点があるように思えるのは俺だけだろうか。時々、総司に慎一郎を重ね見てしまうことがある。
「お風呂、左之助さんと永倉さんも上がられた頃だと思うので、今なら空いていると思いますよ」
「じゃあ、入って来ますね」
そう言うと、慎一郎は足早にその場を後にした。残された俺も同様に部屋へ戻ろうとして、不意に呼び止められる。
「明仁さん、少しいいですか?」
俺は立ち上がりかけていた腰を下ろし、躊躇いながらも、慎一郎が腰かけていた同じ場所に胡坐をかく総司に頷いた。
「ずっと尋ねようと思っていたんですが、どこで天然理心流を学ばれたのですか?」
「それは……」
(いつか尋ねられるとは思っていたが、今それを聞くか?)
現代にも根強く息づいている天然理心流は、近藤内蔵之助によって開かれた流派であり、二代目を近藤三助が、三代目に近藤周助、四代目を近藤勇が引き継いでいる。それは、嫌っていうほど聞かされて来たことだが、頭を働かせた結果、近藤内蔵之助の高弟である、小幡万兵衛に指導を受けて免許皆伝となった
「そうだったんですね。どうりで、筋が良いと思っていました」
これから入隊して来る予定の、中島登がその一人で、山本満次郎から認められた新選組隊士である。
地元、八王子では割と有名なこの中島登は、千人同心の家系の長男だった。その為、近藤さんの方針で、故郷の人間が入隊を希望した場合、長男は家督を継がなければならないという理由で一度は拒否されてしまう。しかし、監察方として活躍するようになった中島は、大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮部隊として勝沼での戦いにも天然理心流の力を発揮したとされている。
「もう少し、東よりだったら一緒に稽古していたかもしれないなぁ」
「……そうだな」
日野宿本陣。現在も、沢山の新選組ファンが訪れる場所の一つだが、当時はその裏手に道場があった。
小島鹿之助や、佐藤彦五郎らと深い繋がりのある近藤さんら試衛館メンバーが、出稽古に来ていたと伝えられている。
今よりも前にタイムスリップしていたら、市ヶ谷の試衛館や日野の道場で彼らに会えただろう。などと思っていた。その時、「話しは変わりますが」と、いう総司の、妙によそよそしい言い方に視線を戻した。
「京香さんとは、どのような御関係で?」
「関係?」
「その、友人とか、幼馴染とか……」
微笑みながらも不安そうな眼差しを受け、とても分かりやすい意思表示に、俺はまた苦笑した。
「ただの友人だが」
「沖田くんも?」
「慎一郎が寺島のことをどう思っているかは分からない」
「そ、そうですよね……」
明らかに俺達の関係を気にしている。そう思えば思うほど、からかいたくなるのは人間の性というもの。
「慎一郎に聴くよりも、寺島に直接尋ねた方が早いんじゃねーか」
「え……」
「好きな奴がいるのかを」
「あ、あはは。そうですよね」
照れ隠しのつもりか、うなじに手を持っていきながら笑う総司を横目に、俺はこの先起こるであろう三角関係を想像した。
(面白くなってきた)
「それじゃあ、俺もそろそろ」
「あ、はい」
立ち上がり、就寝前の挨拶を交わしその場を後にする。しばらくして、ふと、後方から微かな吐息が聞こえたような気がして、縁側に佇んだままの背中を見遣った。
(沖田総司の恋、か。そんなことにも関わるようになるとはな)
新選組の中でも、一番好きだと言っていた沖田総司から惚れられていると知ったら、きっと寺島も喜ぶに違いない。彼女が幸せに笑えるのなら、それが一番いい。
その笑顔を守る為にも、複雑に絡み合う運命の糸をどう紡いでいくのか。
絶対に見誤ってはならないと、改めて思わされた。
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