第3話 枡屋喜右衛門という男①
道場を離れてから、どれくらい歩いただろうか。凍てつくような向かい風に誰からともなく足を止めた。空を覆う厚い雲のせいもあり、余計に寒く感じてしまう。
「どうやら、本当に江戸時代の京都へタイムスリップしてしまったみたいですね」
遠くを見遣りながら言う沖田さんの不安そうな視線を受けて、土方さんは厳かに目を細めた。
季節は、もうじき春を迎えようとしており、時代劇のセットみたいな町中を、和装の人やお侍さんみたいな人とすれ違う度、今抱えている現実を受け入れるしかない。ということに、どうしようもない程の不安を感じてしまう。
当たり前なのだけれど、道という道は舗装されていない。“ 誰かに草履を盗まれてしまった ” などと、苦しい嘘をついて、三人分の草履を貸して貰えたところまでは良かったのだけれど、素足に草履というのもあまり経験のない私にとってはとても歩きにくく、指先の感覚が無くなってしまうほどの冷気も手伝って、余計に辛く感じていた。
「このままじゃ、京香さんが風邪を引いてしまう。何とかしないと……」
お二人と共に、私も頭を巡らせてみるものの、価値観が違うこの時代でどのようにして生きていけば良いのか、考えあぐねてしまう。
それでも、せめて風を凌げる場所を探そうという沖田さんの案を受けて、私達は、また歩みを進めた。
どれくらい歩いただろうか。ふと、土方さんがある方向を見つめたまま立ち止まった。
「道場破りってのはどうだ」
土方さんの視線の先、先程の道場ほどではないものの、割と立派なお屋敷を見とめた。
「この時代に、本当に道場破りなんてあったのかどうか疑問だけど。土方さんなら、簡単に倒しちゃうだろうな」
と、笑顔の沖田さんに、土方さんは呆れたように言い返す。
「何言ってんだ。お前がやるに決まってんだろうが」
「え、でも言い出したのは土方さんじゃ……」
「勝たなきゃ意味ねーんだよ。俺より腕の立つお前に任せた」
「それでも、僕は構いませんけど」
昨日、出会ったばかりで何も知らないはずなのに、こんなやり取りが懐かしく感じる。私は笑いを堪えながら、その道場へと入っていくお二人の背中を追った。
「ま、参りました!」
正座をしながら面を取っている沖田さんの目前、この道場の師範が
十名ほどいた門人らも、師範の背後で同様に跪く中、「すごい」としか言えなかった私の隣で見守っていた土方さんが、ゆっくりと立ち上がり、沖田さんの隣に腰を下ろし言った。
「これで文句はねぇな」
最初、沖田さんと土方さんを前にして勝ち誇ったように笑っていた門下生たちだったが、今はまさかの展開に慌てふためいているように見える。
「まだだ。あと一人いる」
師範が、顔を引きつらせながらそういうと、土方さんはチッと舌打ちをした。
結局、もうじき来るというその門人を待つことになった私達は、しばらくしてやって来た門人と沖田さんとの勝負を見守ることになったのだった。
「きっと、沖田さんなら楽勝ですね」
「ああ」
そう、自信を持って即答出来る土方さんも素敵だけれど、頷かせてしまう沖田さんも凄いと思った。
相手の男性は30代後半くらいだろうか、総髪で、今までの門人達とは違い、どこか儚げな雰囲気を漂わせていて、面をつける前の柔和な微笑みを目にした限りでは、とても剣を扱える人には見えない。
「頑張れッ。沖田さん」
小声ながらも、さっきより熱を込めて応援の声を掛ける。すると、沖田さんはほんの少しこちらを見るようにして、すぐに相手に向き直り腰を下ろした。続いて、同様に竹刀を構えている相手へと、斬っ先を向ける。
両者がちょこんと軽く剣先を合わせた。次の瞬間、威勢の良い声を上げながら、小刻みに足を動かし始める。そして、沖田さんが攻めようと一歩前へ踏み出した。刹那、男性の剣先が沖田さんの胸元へと突き刺さった。
「慎一郎!」
倒れこむ沖田さんに駆け寄る土方さんから少し遅れて、私も縋り付くようにして声を掛ける。
「沖田さん、大丈夫ですか?!」
「すみません。負けて……しまいました」
その少し苦しげな様子が心配で声を掛け続ける私に、沖田さんは大丈夫だと言って、土方さんに支えられながらゆっくりと上体を起こした。
一方、勝利した男性の背後で、先程まで沖田さんに平伏していた師範や門人達が歓喜の声を上げている。
「俺が行く。
「あ、はい!」
土方さんは、支えていた沖田さんを私に預けると、沖田さんから全ての剣道具を取外し、それらを素早く身に着けていく。そして、最後に竹刀を手にしながらゆっくりと立ち上がった。
「土方さ……ん」
「なんだ」
「……仇を取って下さいね」
まだ片手で胸元を押さえながらも、おどけたように言う沖田さんに、土方さんは、「あほか」と、だけ返して少し離れた男性の元へ向かう。
男性は薄らと微笑むと、先に構える土方さんの目前へと歩みを進めた。次いで、皆が見守る中。両者一斉に剣を合わせ、機敏に動き始める。
互いに一歩も譲らず、相手の様子を窺うようにして何度も剣を合わせようとしている。そして、両者ともに威勢の良い声と同時に振りかぶり、前へと踏み込んだ。
「……!!」
どちらも面を奪って未だ、剣を合わせたまま。と、師範の「い、一本」と、いう少し戸惑ったような声を耳にして、ようやく二人は距離を置いた。
(ど、どちらが速かったんだろう?)
眉を顰めながら土方さんの方へ手を掲げた師範の、「土方」と、いう言葉に私と沖田さんは喜び、男性の背後で門人たちが悔しげに大きな溜息を漏らすなか、師範がゆっくりと稽古場を後にした。
剣を竹刀立てへ戻し、面を取った土方さんが、正座しながら面を取っている男性に歩み寄って行く。
「強ぇな。流派は」
「小野派一刀流」
「確か、赤穂の」
「訳あって学ぶようになりました。そうゆうあんさんの方こそ、天然理心流を学ばれとるとは。これからの世に、必要とされる流派の一つやね」
と、言う男性の表情はとても穏やかに見える。
皆、口々に男性への労いの言葉や土方さんを称える言葉を掛けて、散り散りに去って行く。それと入れ替わるようにして、師範を迎え入れると、土方さんは、キッパリと言った。
「ここの看板を潰すつもりはない。その代わりと言っちゃなんだが」
師範ならずとも、続いた土方さんの一言に私も沖田さんも、相手をしていた男性も、唖然とさせられる。
江戸から出稽古に来たのだけれど、お財布を
すると、そんな私達に同情してくれたのか、「心ばかりだが」と、お金を恵んでくれた師範にも、苦笑せずにはいられない。
(東京から出てきて指導していたのも、一瞬にして何もかもを失ってしまったのも事実だもんね)
「だが、ここいらでそのような働き先は……」
眉を顰める師範を
「あんさんら、何の為に京へ
「何の為と、言われても」
男性からの問いかけに答えられずにいる土方さんの、少し困ったような瞳と目が合う。すると、今度は沖田さんが楽しげに言った。
「悪い奴らを懲らしめに来ました」
「悪い奴ら?」
「はい。今、
そうでしたよね。と、私に尋ねて来る沖田さんに頷くと、男性はまた質問をぶつけて来た。
開国派か、攘夷派かと尋ねられた私達は、すぐに答えることが出来ずに考えあぐねてしまう。
開国派とは、外国と手を結ぼうとしている人達のことであり、攘夷派とは、外国嫌いの天皇を尊び、外国人を排除しようとしている人達だということは知っていた。そして、確かほとんどの幕末志士たちが尊王攘夷派だったということも思い出し、私は躊躇いながらも " 攘夷派 " であることを伝える。
すると、男性はまたにっこりと微笑み、
「そうゆうことどしたら、当てが見つかるまでわてんとこにおる、ゆうのはどないどす?」
少し訝しげに目を細める土方さんの隣、私は嬉しそうな沖田さんと共に安堵の息を零した。次いで、自らを
「ま、枡屋喜右衛門さんって言うんですか?」
「そうどすけど、なんぞ問題でも?」
「いえ、何でもないです。似た名前の人を思い出しただけで……」
私は、不思議がる枡屋さんにぎこちなく微笑んだ。
(枡屋さんの家へ行けば分かるか)
もしも、この人があの枡屋喜右衛門だとしたら、近江の勤王志士・
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