第6話 証明と銃

 その日の東京の空は暗雲に満ちていた。

 警視庁のある千代田区もその例外ではなく立ち込める暗雲の雰囲気に外に立つ見張り番も呑まれそうになっている。

 嘉村匠と白谷秀、そして数人の刑事はそこから程近いマンションの一室にいた。

 彼は夏にも関わらず、灰色のコートを着ている。彼の身長を考えればそのコートは少しぶかぶかだった。

 だがそのコートは大事な誰かから受け継いだ彼の宝物だ。

 

 そして、彼らのいる部屋には数人の刑事によって当日の現場が再現され彼が導き出した舞台装置も用意されていた。

「これでどうかな? 嘉村匠くん」

「ええ、バッチリです。それからフルネームでなく下の名前でも大丈夫ですよ」

という会話を交わしていた二人だったが、招かれていた来客が入ってきたことにより場の雰囲気は一変した。

 

玄関に立つ人影。


 その正体は、半ば怒っているような佐倉洋子であった。だが、気のせいだろうか? 少しの焦りも感じられる。

 

 佐倉洋子が舞台に上がってきたことによって止まった時間を元に戻したのは主任刑事、大津信敏であった。

「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。今日は一連の事件の答え合わせをと思い、連絡を入れた次第です」

「まさか、私が犯人と言いたいわけ? あの日は買い物に出たというアリバイがわたしにはあるのよ?! 警察は誤認逮捕しようとしているのかしらね?」

 推理小説によくあるような台詞をいう佐倉洋子。

 しかし、その声は怒りと他の何かの感情で震えていた。どことなく、髪のふんわり感もこの間より落ち、潰れている。化粧の余裕がなかったのだろうか。スニーカーも少し古く、擦り切れていて汚い。


 見た感じ全体的に前より余裕をなくしている。仕留めるなら今日のうちだと彼は思考した。

「まあ、とにかく奥までどうぞ。時間は取らせません。雨も降りそうですしね」と大津は笑い皺を目元に作りながら言った。

 その言葉を聞いた佐倉洋子はスニーカーを脱ぎ、奥まで入ってきた。

 そして、リビングまで入ってきた佐倉洋子の目は、今回の照明に使う舞台装置

――天井以外に張り巡らされたブルーシートを見て、驚愕に大きく歪んだ。

 

「おや、どうしたのです?」

「なんでもない……」

 そう佐倉洋子が呟くのと室内で作業していた刑事が準備が終わったことを告げたのは、ほぼ同時だった。


 そして、あの事件の日の再現が始まることになった。


 あの日の事件を再現するには、まず超音波式加湿器の中にテトロトドキシンを入れることから始まる。本当にテトロトドキシンを入れてしまうわけにはいかないのではっきりと蒸気の動きが視認できるように色を付けた水を投入した。

 次に、ブルーシートを壁に貼り、エアコンの正面側の壁のビニールシートは少し傾斜をつけて貼る。これで衝突板の罠の擬似が完成する。あとは加湿器の蒸気の出る方向を調節すればいい。

 

 佐倉洋子が来る前にこれらの作業は一通り終わらせていた。

 

「それじゃあ、始めましょうか」と白谷が告げた。

 

 刑事達が脚立の上にマネキンを立たせ、加湿器とエアコンのタイマーをオンにした。タイマーの設定は短めの5分。本当は何分かは分からなかったが、佐倉洋子が外に出ている間にエアコンと加湿器が作動すればいいので、時間は重要じゃない。

 待つこと5分、部屋に気まずい空気が立ち込め始めたころ、加湿器とエアコンが低い音を出して、動き始めた。風がその場の全員の髪を撫でる。

 加湿器の蒸気噴き出し口から赤く色づけられた蒸気が風に乗って出てきた。それはエアコンの吹き出し口まで登ると風が当たり、その向きを一気に変えた。

 果たして、蒸気はマネキンの顔にあたり、斜めに張ったブルーシートに当たり、はっきりと視認できるほどの大きさの水玉が流れ落ちていく。見ると左右の壁にも赤い蒸気がはっきりと付着していた。

 それを確認した彼はブルーシートを半ば強引に取った。テープの跡が天井に、壁に付けられる。周りの刑事が眉を若干細めたが、彼は構わず全てのビニールシートを取り去った。

「この時、マスクや手袋は絶対につけて行います」と彼は刑事たちに告げる。



 こうして、殺人現場がここに再現された。



 佐倉洋子の顔は蒼白を通り越して、真っ白な雪のようになっていた。足も少し震えている。

 だが、雪解けは意外にも早かった。その顔は幾分か落ち着きを取り戻し、不敵な笑みで歪んでいた。


――そう、まだ佐倉洋子には最大のカードが残されている。


 それは毒の入手先だ。警察のサイバー犯罪対策局は裏取引の行われているダークウェブのマーケットを洗ったが、佐倉洋子の痕跡を発見するに足りなかった。


 佐倉洋子は自信に満ちた声でこうまくし立てた。「で、でも毒の入手先はどうなのよ! 確か、テトロトドキシンが使われたって言ったわね? フグから採れるって言っても、毒のある卵巣なんてすぐに捨てられるは…」


「詳しいんですね、佐倉洋子さん?」


 佐倉洋子の攻撃を防いだのは彼だった。

 確かに佐倉洋子の持つカードは強力で、うまくやれば事件を未解決に持っていくことは可能だった。


 だが、まだ彼にもカードが残されている。


「貴方の略歴をもう一度洗い直しましょう。貴方は両親に捨てられ、祖母の家で育った。確か貴方はその両親に捨てられた記憶を思い出すからと言い、これを黙秘。任意の事情聴取では理由が有れば黙秘は許されますからね。警察もそこまで重要ではないだろうと深くは追及しませんでした」

そして、彼はカード真実をきる。

「だからこの場で言いましょう。貴方の祖母の家は――山口県、もっと言えば下関あたりでしょう」

 その言葉を聞いた瞬間、佐倉洋子は驚愕と恐怖に打ちひしがれた。

 そして、それと同時に理解しただろう。自分を追い詰めているのは、ただの中学生の子供ではない。獰猛な獣だと。

「なんで? なんでわかるのよおおぉぉぉ!?」断末魔の叫びが上がった。

 もう、この場の全員が全てを理解しただろう。山口県の下関はフグの漁獲量が日本トップクラスの地域だ。そこに祖母の家があるならば、フグの卵巣を取らずに入手するのは困難ではない。

「理由は、貴方の取調室での言動ですよ。貴方、フグって何回か聞き返したでしょう? 山口県ではフグのことを『ふく』という。まあ方言のようなものですね。恐らく脳がフグという言葉を瞬時に理解できず、飲み込むまでに時間が掛かったのでしょう」

「ちょっと待ってくれ。匠君」と白谷が手をあげて彼に質問する。まるで生徒が教師に質問を投げ時のように。

「未処理のフグの譲渡は食品衛生法で禁じられている。だとすれば彼女の祖母も引っ張ってこないといけなくならないか?」

 この言葉を聞いた瞬間、佐倉洋子の顔が強張る。

「まあ確かにそうしなければならなくなる可能性はあります。ですがよく譲渡の言い分として用いられる言葉として『知人にさばいてもらうことになった』というのがあります。これならばおばあちゃんは譲渡に応じる可能性が高い。なんであれ孫が中毒死する可能性があるのに譲渡しているところから見て、犯行の事は知らされていないでしょうね」

 そして、彼は佐倉洋子に向き合い、告げる。ゆっくりと、高らかに。

「どうあれ、さっきの貴方の反応で答えは出ました。事件の幕はここに引かれた。貴方の負けです。佐倉洋子さん」


 その瞬間、負けを理解した犯人は最後の抵抗に打って出る。

 佐倉洋子は玄関へと猛然と走り出したのだ。驚いた刑事が止めようとし、佐倉洋子とぶつかった。だが、倒れたのは佐倉洋子の細い体ではなく、刑事の鍛え抜かれた体のほうだった。



 それもそのはず、刑事の腹にはボールペンが刺さっていたのだから。

 

 ボールペンを伝って血が滴り、部屋は怒号に包まれた。



――――――――――――――――――――

 佐倉洋子、いや彼女の人生は齢29にして絶望と断絶、そして、少しの温もりで埋め尽くされていた。

 両親が彼女を産んだのは18歳。彼女が物心ついた時には、アパートの狭い一室での暴力が日常茶飯事だった。自分へと振るわれる男と女の拳、存在否定の暴言。

 それでも、親からの愛を受けずに育った彼女が歪まなかったのは、近所にいる一人の友達のおかげだったのだろう。

 2つ年上のその子との時間だけが生きる意味だった。

 「この子と一緒ならあの人たちも怖くない」そう、思っていた。

 

 ――その子の親が彼女の家の真実に気づくまでは。

 まだ自我を持って間もない子供にとって、親こそ世界の全てなのだ。


 それからは、その子までも敵に周り、外に出れば近所の子から石を投げられた。


 そして、世間体が悪くなった両親は彼女を置いて消え、3歳の少女にはボロボロの汚いアパートと虚無だけが残った。

 あまりにも過酷な幼少期、だが彼女の前に母方の祖母が現れた。玄関に立つ祖母を見つめる虚な子供の目。それを見た祖母は何も言わず、ただ涙を流して抱きしめた。彼女が初めて感じた、ヒトの温もりだった。

 その後、彼女は下関の祖母の家に移り住んだ。関門海峡と空から見ればクジラの形をしているらしい水族館がある、潮風の吹く街だった。そこで彼女は生まれて初めて外食に行った。水族館のすくそばにある小さな料理屋だった。生まれて初めて、水族館に行った。イルカが跳ねた水を浴びて叫びながらも笑う祖母を見ると、本当に子供なのは祖母の方ではないかと思った。周りの人も皆、優しく温かった。たまに船に乗せてくれる漁師の男たち、いい魚を割り引いてくれる魚屋のおばちゃん、そして、一緒に帰り道を歩く友達。

 彼女が高校生になる頃には、両親によってできた心の闇を忘れられるようになった。

 高校卒業後、彼女は再び、アスファルトと踏まれまくって黒くなったガムでできた東京の地に立つことになる。


 そこで彼女はIT企業に就職、運命的な出会いをする。

 初めて会ったのは、会社でのパーティーだった。多くの男性が礼儀かまた別の思惑を抱えて彼女に挨拶してきた。

 その中でも特にしつこかったのが、今はもういない未来の夫だった。


 その後、付き合って1年で結婚。祖母は涙を流して喜んでくれた。


 しかし、徐々に夫の態度が横暴になっていく。次第に暴力、暴言、浮気が増えていき、最終的に自分の幼少期と祖母を馬鹿にされ、彼女は限界を迎えた。


この男を殺そうと。


もう全て遅すぎた。ゆっくりと闇が蝕んでいった。


――――――――――――――――――――

 走馬灯のように様々な記憶が蘇っていく。

 佐倉洋子はバイクに乗り道路を疾走した。

 恐らく、警察はまだ追いかけてきていない。

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら車と車の間を縫いながら走る。





 そして赤信号を無視し、直進しようとした瞬間、パンという音が後ろから聞こえ、バイクのミラーが音を立てて割れた。佐倉洋子はここで気付く。


撃たれたと。








 刺された刑事の介抱を頼み、心優しい仕事帰りのサラリーマンからバイクを拝借するまで30秒と掛からなかった。白谷と彼は佐倉洋子の後を追い、道路を突っ走った。

 後ろの席にいる彼に白谷が声をかけた。

「それで、なんでバイクで来たと予想できたのさ?」

「彼女の髪が潰れていたのとスニーカーの擦り減りから。恐らく最初からこうして逃げる予定だったのでしょうね。……逃げるなんて無駄なことを」

 最後のフレーズは白谷の耳に届かなかった。

 居たぞと白谷が声をかける。100メートル程先に法定速度など既に気にしていないであろう佐倉洋子が見えた。

「どうする?」

「距離を詰めてください。後は俺がなんとかします」

「なんとかって言ってもどうするんだ?」


 すると彼は長めのチェーンをリュックから取り出して、白谷と自分を結んだ。

 そして、ヘルメットを外し、リュックからあるものを取り出した。彼はそれを前方の佐倉洋子に向ける。

 それを見て、白谷が大きく息を呑んだのが分かった。



 彼の手に握られていたもの、それは黒光りするハンドガン

――スミスアンドウェッソンの M&P 9 だった。

 白谷が何かわめくように言っているが、彼の耳には届かない。彼は自分の周りのすべての時間がゆっくりになっていくのを感じる。



 そして、彼は引き金を引いた。



 



「死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」

 銃で撃たれたと理解した佐倉洋子の胸中である。殺した自分の夫も見たであろう生への渇望、その境地。

 全人類が本来は持つその感情。しかし、その感情を覚えるには少しタイミングが悪かった。

 ハンドルを握る手が震え、バイクが大きく空中に投げ出される。

 そして、佐倉洋子の意識は暗転した。



「セヤアアアァァァァァァアア!!」

 ここが全力の出し所とばかりに白谷がバイクを加速させる。そして、片手を出して佐倉洋子を受け止め、手錠をかけた。



「7月18日 16時42分 確保」

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