色堂美波(この話は第3夜の人格投影までを読んでいただいてからお読みになった方がいいかもしれません)

――いまだに、朝起きると、自分の隣を見てしまうことがある。


 ただ、呆然と無意識に。それが例え、今使っているベットが一人しか寝るスペースのないシングルのものだったとしてもだ。

 それが過去のことならばそこには愛する男がまだ静かに寝息を立てて寝ているはずだった。

 今日も無意識に隣のスペースに目をやってしまう。彼女はため息を一つ吐いて、キッチンに移動し、コーヒーメーカーの電源を入れる。

 そして、コーヒーカップを一つ取り出し、コーヒーメーカーのボタンを押す。モードはエスプレッソだ。純白のコーヒーカップが徐々に黒い液体で侵食されていく。その黒い鏡面に写った彼女は自嘲的な笑みを浮かべていた。


 あの人はもうこの世のどこを探してもいない、それは頭ではわかっているが今でも無意識にその姿を探してしまう。前なんて、カップがセットされていないのにそのまま2杯目を淹れてしまったことだってある。その床にぶちまけられたコーヒーを拭いていると目から涙が零れ落ち、そのコーヒーとは対照的に透明な液体は溶けて見えなくなる。そのまま彼女は立ち上がれなくなってしまった。

 そんな自分を思い出し、「馬鹿」と一言言い聞かせて、彼女はスーツに着替え、今日も変わらず仕事に行く準備をした。



 彼女がFBIで働いていた時、オリバーという一人の男がいた。

 

 彼もFBIで共に働く同僚で、宝石強盗の捜査をしていた際、追い詰められた犯人が彼女に発砲し、彼が身を挺して、その凶弾から彼女を守ったことがある。

 この時、彼は腹に銃弾を受けたにもかかわらず、犯人の銃を回し蹴りして吹き飛ばしたのだった。その時、彼女には彼が一人の英雄のように煌めいて映ると同時にぼろぼろになりながらも戦う姿が壊れてしまいそうな何かを持っている一人の可哀そうな少年のように感じられた。

 その後、彼の退院祝いが終わった後、二人で帰っている時、彼女らはただの職場の同僚という関係から恋人同士という関係に発展する。どちらが切り出したかはもう覚えていない。


 彼は少し灰色がかった髪を持つ背の高い白人で、普段の職場では少し静かな印象だった。だが、彼女の前ではリラックスしているのか少し少年のようになることがある。 

 彼女は付き合い始めてから、彼のこの内面と灰色の髪がたまらなく愛おしく思えた。

毎日彼より少し早く起きてその灰色の髪を優しく撫でるのが彼女の日課となり、その時間は彼女をリラックスさせる大切な時間になるのだった。


 今思い返せば、彼女の前では少年のようになる彼であったが、一方で物の考え方は非常に達観していたように思える。

 FBIに入った当初はアジア人で女性というだけで風当たりが強く、男性で彼女と対等に話してくれるような者はほぼ皆無だった。(今はそんなこともなくなり、メル友のような関係の男性もいる)

 「ほぼ」とつけたのは例外がいるからで、その例外こそ、オリバーその人だった。

 彼は、唯一彼女を偏見の目で見ず、捜査終了後の打ち上げにも声をかけ、公平に徹していた。

 付き合い始めてからその理由を聞くと「個人は個人としてしか見ることができない」と答えた。

 今、彼女はこの言葉を外交官として日々心がけている。



 


 毎日、仕事が終わったら、一緒にご飯を食べ、一緒に音楽を聴き、そして、一緒に寝る。不変だが、それでも幸せな日々が続いていたし、これからも続いていくと思っていた。

 

 ――あの出来事が起こるまでは。

 

 付き合い始めてから1年半が経つ頃、自分たちの担当区域で銃乱射テロが起きたのだ。犯人は顔を見られない内に逃亡し、その追跡がFBIに言い渡された。防弾チョッキとアサルトライフルでの武装が言い渡され、現場に緊張感が走っていく。

 犯人を追って彼と彼女は、街の中心街に出る。当然のことだが、中心街ということもあって人が多い。

「まずいわね……。ここで銃を乱射されでもしたら……」

「ああ、そうだな……」

 彼は少し考えこむように目を固く瞑って下を向く。

「なに考えてるの?」と彼女が聞くと、彼は目を開け、彼女に顔を向ける。その目には並々ならぬ決意が込められているように感じた。

「パーソナリティトレースを使う」彼はそう言った。

「パーソナリティトレース?」と聞き覚えのない言葉を聞いた彼女は彼に聞き返す。

「ああ、あのテロリストの人格を自分に作る。もうこれしか奴らの居場所を突き止められない」

「それ、大丈夫なの?」と不安に思った彼女は聞いた。

――いま思えばここで止めるべきだったのかもしれない。この後悔を彼女は永きに渡り引きずることになる。だが、この時の彼女は次の被害への懸念で頭がいっぱいだった。

「ノープロブレム。もしなんかあったら、その銃で俺を撃ってくれ」

「……」

「頼む! もうこれしか手はないんだ」

 彼女は少し考えて、「分かった。信じるから」と言い渡した。


 



 これが彼と彼女の最後の会話となる。

 




 白い歯を見せて笑った彼はすぐに真剣な表情となり、胡坐をかいて座った。そして、そのまま呼吸だけして動かなくなる。

 その様子を見守っていた彼女だったが、ふと彼の顔に汗の玉が浮かんでいることに気づいた。その量はどんどん増えていく。

 今度は彼の体が小刻みに震え始めた。不安に思った彼女は彼に「ねえ、どうしたの?」と声をかけるが、彼は一向に目を開けない。

 そして、彼女が彼を揺さぶろうとしたとき、彼は目を開けた。そのまま遠くを茫然と見つめる。

「なにか分かったの?」と彼女が聞いたが、それに答えないまま彼はゆっくりと立ち上がった。

「ねえ、ほんとに大丈夫?」と聞いた瞬間、彼は人々に向けて銃を向ける。












 そして、「ちょっと」という彼女の声をかき消すが如く、アサルトライフルが銃声の産声を上げたのだった。











――突如として起こったFBIによる銃の乱射に人々は逃げ惑った。逃げ遅れたのか、地に崩れ落ちていく人々も見える。一瞬にしてその場は阿鼻叫喚の地獄となった。

「やめて!!」と彼女が銃を奪おうとするが、すさまじい力ではねのけられる。

 最終的に彼女は彼に言われたことを思い出し、銃口を彼の頭に向け引き金に指を置く。絶対にこれ以上、彼を堕としてはならないという思いからだった。


 しかし、引き金にかかった指は動かなかった。

 「撃たなきゃ」と頭ではわかっている。なのに指が引き金を引くことを拒んでいるかのように動かない。

 そして、ついに指の震えは思考にまで影響を及ぼす。

 「撃て……るわけ……ないよ……」彼女の頬を涙が伝っていった。


 突然、銃声が鳴りやむ。彼は引き金を引き続けているのを見るに弾切れになったのかもしれない。

 彼女は彼を取り押さえようとする。もうこれ以上彼に人々を殺させないために。

 だが、それよりもはやく、彼はハンドガンを取り出し、


 


 彼女に向ける。




 「え?」としか声が出なかった。愛する人から向けられる銃口、そこに彼女はもはや絶望も見いだせなかった。ただ、「殺される」という事実がそこにあるだけだった。彼女は目を瞑る。



 しかし、少し待っていても最期の瞬間は一向に訪れなかった。

 目を開けた彼女が見たもの、それは泣きながら引き金を引くまいと人差し指を震わせる彼の姿だった。

「オリバー?」と彼女が問いかけた瞬間、彼の首筋から赤い液体が噴き出るのが分かった。そして、彼はスローモーションのようにゆっくりとその場に崩れ落ちる。

 

「オリバーの鎮圧を確認」と声が聞こえ、彼女は同僚の誰かが彼を撃ったことを知ったのだった。


 





 その後、テロリストの逮捕と同時に彼女はFBIをやめた。別に職場での風当たりが前より強くなったわけではない。

 それでも彼女は思い出したくなかった。彼と過ごした幸せな日々を。豹変しテロリストになってしまった彼を。そして何より、あの時彼を撃つことができなかった自分を。

 しかし、どんな結末を迎えたかを知っている今でさえ、本当に彼を撃てたのかどうか分からない。

 本来だったら迷わず撃つべきだったし、撃たなかった自分は多くの命を犠牲にした、ただの最低な殺人者だとわかっている。それでも、日本に帰国し、外交官として、そして外国組織対策局の協力者として働き始めてもそこだけは分からなかった。



 



 こつこつと誰かがこちらに向けて歩いてきたのが分かる。彼女がいるのは棚田状に机が並べられた会議室の一番上だ。ここまで登ってくるということは同業者なんだろうと、彼女がそっと顔をあげる。そこには灰色のコートを着た一人の少年が立っていた。多分、最近うわさに聞く刑事局のA級協力者だと彼女は推察した。

 

 この少年を見た彼女の胸に、ほんとに中学生なんだという驚きとある既視感が去来する。

 似ているのだ、この少年は彼に。人種も、身長も、年齢も何もかも違う、それでも似ていると言わざるを得なかった。

 この少年は彼と同じく「壊れてしまいそうな何か」を胸に宿している。その正体が何かは分からない。彼のでさえも分からないのに、まだ会ってすぐの少年の何かなんて知るはずもない。

 

 


 ただ、一つの結末を知る者として不安が胸をよぎる。

 

――もし、この子が暴走してしまったら、この子の相棒と呼べる刑事は、この子を止めることができるのか、と。

 


 

  

 


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