夕暮れ時 I still……
嘉村匠
――いまだに紅茶を2杯淹れてしまうことがある。
外のどんよりと曇った空は東京という灰色のコンクリートでできた都市を一層灰色に染め上げている。
彼は自分の前にある2つのカップを眺めていた。彼の顔が小さい茶色でできた鏡に写る。
そのままただ灰色の時間が流れる。
彼はため息を一つついてカップの中の紅茶を飲みほした。茶葉の香りが口内を満たし、思考が少しクリアになる。
「やっぱりこっちの俺はまだあの人の死を完全には受け入れられていないんだな」と頭の中で別の誰かの声がする。その声は紛れもなく彼の声なのだが、どうも他人のものとして認識してしまう。
その声に「ああ、そうだよ」と返事をしてもう1杯の紅茶を飲み干す。
在りし日にはその紅茶の入ったカップはあの人の手に収まっていたはずだった。
あの人―――いうまでもなく彼の師匠の事だが―――の紅茶を入れることは彼の弟子としての一つの仕事だった。
彼はどちらかと言えば紅茶よりコーヒー派であったのだが師匠は「コーヒーなんてものはね、小さいころに飲むと身長が縮むのよ?いや本当に」という謎の主張により、いつも彼に紅茶を2杯淹れさせてはその一杯を自分が、もう一杯を弟子に飲ませていた。いま考えてみれば自分がコーヒーを飲めないことを気にしていたのかもしれない。そんな人だった。
まだ、外は曇っている。
彼は師匠から譲り受けたコートを着て外に出る。彼は自分のクロスバイクにまたがり、そのまま首都高速3号線脇の道路を渋谷方面に走っていった。特に目的はない、ただの放浪だった。多分男子であれば誰でも一度はすることだろう。
そのままぼんやりとした気分のまま突き進んでいくと彼はある懐かしい場所に出た。そこは一度事故に見せかけた他殺があった場所で師匠もこの事件を解決するべくいろいろ調べまわっていた。
結果的に一人の眉目秀麗な絵師を巡る3人の女性の愛憎劇だったわけだが、この事件は第三者の介入により複雑化したもので、師匠はその第三者を捕まえようとこれまでにないほど躍起になっていた。結果的に惜しいところまで行ったようだが、最終的に当時の公安局からストップがかかり捜査が続けられなくなったようだ。どうやらその絵師の背景に治安維持上の不都合があったことが原因らしいが詳しい情報は知らされなかった。
今、その場所はガス管の工事で入れなくなっている。
「おい、お前!!その小包みたいなものはなんだ?」
「すいません。すぐ片づけます」という会話の断片が聞こえてくる。
彼はその会話に違和感を覚え、遠くから工事現場を見る。
どうやら怒られているのは新人らしい。作業服がまだ比較的新しい。その新人を叱っているのは現場監督と言ったところか。
新人はその小包を手離そうとしない。現場監督の男もため息をついて、置いてこいと指示して立ち去った。
新人は作業に戻ろうとしてふっと彼の方に視線を向けた。
瞬間、彼はぞくっと嫌なものを感じる。まるで蛇に睨まれているかのような粘っこい視線だった。
彼はすこし慌ててその場から走り去った。
家に帰った彼は運動したおかげか体がすこし軽く感じる。
そして、そのまま自室に閉じこもり一冊の本を手に取る。その本は日本の作家が描いたミステリーで孤島で生活を送る天才工学博士を巡る事件を偶然島を訪れた大学助教授とその女大生が解決するという話だ。
彼はこの本をもう5,6回も読み直している。
ただ、いつもだったらここで完全に本の世界に身を浮かべることができるのだが、今の彼の脳裏にはある男の声がちらついていた。
「あの人に挑もうってんなら辞めた方がいい。あの人は日本の警察組織が束になっても勝てない」
この言葉は先日、FreeWi-Fiとコンピュータウイルスを使用して1億円以上の金を盗った、元生活安全局主任刑事、鈴木涼からかけられたものだった。
この事件により、恐らく鏡恭弥に一億円以上の金が渡ることを許し、そして結果的に鈴木の共犯者の逮捕もできていない状況にある。
警察の他にも組織がこの2つを探しているが未だに見つかっていない。
しかし、彼は鈴木の共犯者は鏡に殺されていると判断している。なぜかは分からない。ただ、この選択肢が正解という絶対的な確信がある。
鏡恭弥は人心掌握力と圧倒的なカリスマを持っている人物だと彼は推測している。それに相当頭が回る人物だとも。
鈴木が言うように彼が鏡に打ち勝つことができないのは誰よりも彼自身が自覚している。
なぜなら、最高の女流探偵と呼ばれた彼の師匠でも勝てなかったからだ。
師匠はまだ、鏡恭弥という人物が警察でそこまでマークされていなかったときもその危険性にいち早く気づいていた。この人物を野放しにすることは非常に危険と死ぬ直前までよく当時の刑事局の刑事たちに警告していた。
結果的に彼女は鏡に殺され、アクリル標本にされるという冒涜的な目に遭ってしまった。
あの夜の,あの風景はいまだに夢に見ることがある。
あれほど、泣き叫んだことは後にも先にも一度きりだった。獣のようだったと後になって言われたほどだ。
当時の光景を思い出し、彼は手を強く握る。少しずつ血が滲んでいくのが分かる。
彼は自室のもう一つの部屋に入る。彼の両親もその部屋の存在は知っていたが彼が普段南京錠で施錠しているので入ろうとはしない。認識としてはそういう雑誌があるんだろうなという程度だった。
広さにして3畳ほど。
その部屋には古びた机,
壁には大量の新聞紙のスクラップが張られ、犯罪資料、本、論文のコピー、師匠が事件を捜査するときに使っていたノートなどが所狭しと置かれている。
この場所こそ彼の成しえる全てを形にした空間だった。
本来の彼を天才と言うには程遠い。
彼が天才たちと肩を並べる、もしくは叩き落すためにできること、それは人より多くの時間をかけ、泥臭くただ足掻くことだけだった。
なぜなら、半月の探偵としてではない、根本としての彼は人より不器用で、人より繊細で、人並みに笑い、ただ遊ぶ。
そうしたことが許されている、ただの中学生なのだから。
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森博嗣さんのS&Mシリーズ大好きです。
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