図書館から借りてきた本のページをめくる。書かれた文字を指でなぞって、四郎は眉間にシワを寄せた。


「誰だ、夏休みの宿題に読書感想文なんて考えた奴」


 顔すら知らない相手に文句をいい、四郎は本を閉じる。朝から粘ってみたものの、黙って本を読む作業は苦痛でしかない。

 机の上に置かれた他の宿題は計画通りに進んでいる。宿題が終わらないなんて事態、完璧主義のご主人さま(笑)になにを言われるかわかったものじゃないので、毎日コツコツ進めているのだ。


 それでも読書感想文は毎年苦戦した。今回はなんでもいいやと適当に選んだ本が大外れで、余計に読むのが億劫になっている。


 物語の主人公は四郎と同い年の男子高校生。地味で奥手の主人公は部活の美人な先輩に惚れてしまう。後輩として優しくしてくれる先輩に意識してもらいたいが、今の関係を崩すのも恐ろしく踏み込めない。そんな主人公の繊細な心理描写が描かれているわけだが、四郎には全く共感が出来なかった。


 なぜなら四郎はモテる男だった。告白をしたこともあるし、されたこともある。現在も年上彼女と交際中である。緊張して好きな人に話しかけられない同い年の男子の思考回路など全くもって理解ができない。


「ルリさんはこういうの好きそうだよな……」


 途中まで読んだ本をパラパラとめくる。素直で純情な主人公は夢見がちな乙女思考のルリには受けが良さそうだ。いっそルリに読ませて感想を聞き、聞いた感想で適当に書こうかと考えたが、バレたら烈火の如く怒られるのが目に見える。私を利用するなんて四郎のくせに生意気。という声まで脳内再生余裕だった。


 面倒なことはさっさと終わらせたい。となれば、気分を変えて別の場所で読むのはどうだろう。自室にいるからいろんなものが目に入って気が散るのだ。ファミレスか喫茶店か、適当な店に入れば集中できるのではと考えていたところで、ルリのことが頭に浮かんだ。


 書道教室で講師役をすることになったルリは今日は一日練習するといっていた。四郎からすれば練習の必要などない腕前なのだが、完璧主義故のこだわりがあるのだろう。

 どうせ集中できないのだから、ルリの練習でも見てやろうと四郎は本を携えて自室を出た。


 エアコンの効いた部屋を一歩出ると、熱気がまとわりついてくる。それに不快さを覚えつつも四郎は階段を降り、下へと移動した。


 ルリは自室の他に趣味部屋を持っている。幼い頃から美に対して人一倍敏感だったルリは、舞やら生花やらお茶やら、とにかく目につく美しいものには触れたがった。そうして出来上がったのは現在の多趣味で多芸なルリである。

 そうして四方八方に好奇心を分散させているから、鳥喰筆頭である生悟にいつまで立っても勝てないのではないかと思うだが、本人にいったら雷を落とされるのは予想がつくので黙っている。生悟のように人間性を捨てて一点特化になられても困るのも本音ではある。美への追求に振り回され気味であるルリは人間らしくて面白い。


 形から入りたがるルリは書道をするためだけに袴を身に着けていた。長い髪は高い位置でポニーテールにしており、日頃は見えない項がよく見える。

 二階に比べて風の通りがよい一階はエアコンを付けなくても十分に涼しい。風が吹くたびにチリンチリンと風鈴が音を立て、その音だけで心が清められるような気がした。


 ルリは近づいてきた四郎に気づくこともなく半紙に向き合っている。ピンと糸を張ったように伸びた姿勢は美しく、筆を持つ手はしなやかだ。自分の一部かのように筆を動かして、文字をよどみなく書いていく。その姿だけでもずいぶんと絵になるのだから、書道教室の講師として呼ばれたのも納得だった。


 五家の狩人は皆、生まれ持って大多数とは違う目と髪の色を持つ。犬追の場合は茶色の髪に紫の瞳。他の家に比べればとっつきやすいと言われる犬追だが、ルリの立ち振る舞いは他の狩人とは一線を引いているように思う。


 狩人だから人目を惹くのではなく、ルリという人間が人の目を惹きつけるのである。それは男の体を持ちながら精神が女性であるというアンバランスさのなせる魅力なのか、本人が追い求める美への尽きない探究心故なのか、四郎には分からない。


 多趣味で多芸なルリは他の筆頭狩人に比べて一般人に顔をさらす機会も多い。それでもルリという存在が一般人に紛れることはなく、むしろ顔を出せば出すほどに、高嶺の花という認識は深くなる。


 四郎は柱に寄りかかってぼんやりとルリを見つめた。読もうと思っていた本を読む気にはならず、ルリが筆を動かす姿を見つめ続ける。


 先程まで読んでいた本の内容が頭をかすめる。美人で優しい先輩に自分みたいな地味な男が告白してもいいものか。そう悩む主人公の背中を蹴飛ばしてやりたかった。どれだけ高値の花だろうが、相手は同じ人間の先輩なんだからどうとでもなるだろう。生まれ持って毛色からして違う、汚すことすら恐れ多いような神聖な存在ではないのだから。


 本の主人公に対してモヤモヤとした気持ちを抱いていると、視線に気づいたのかルリが顔をあげた。


「あら、いつのまに来ていたの?」

「さっきからいましたよ。ずいぶん集中していましたね」

「久しぶりだから、本気でやらないと勘を取り戻せないのよ」


 ルリはそういいながら、文鎮をどかして書きあげたばかりの書を掲げてみせた。


「みて、うまくかけたでしょ」


 幼い子どもが母親にクレヨンで描いた絵を見せるような無邪気な顔でルリは笑う。先程までの触れてはいけないような神聖さが消え去って、ただの人間がそこにいる。

 それに四郎は内心ホッとした。それをルリには気づかれたくなかったからわざと眉をひそめてみせた。


「練習に才色兼備を選ぶセンスが理解不能です」

「あんたほんと生意気ね!」


 ギャーギャーと人間みたいに騒ぐ姿を見て、心底安心する。だからこそ本の主人公には一生共感できないだろうと四郎は思った。

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