8-2 あなたがつらそうに見えるから
暦は九月。佐上優希と千波伊里弥が東城大学の講義室棟の廊下で向かい合っている。
佐上優希は怒りの表情を浮かべているのが見える。それに対して千波伊里弥がにへらと笑っているような気がした。
「優希、なんか言いたいことあるのか?」
千波は怒る優希をからかう。それに対して佐上は、元の顔の作りがよいから表情が卑しくならないが、本物の怒りを抱えている。
「別れた女の子の悪い噂を流すのって、どうなの?」
その言葉は千波の心に響かない。
「悪い噂って、なんだよ?」
しらばっくれる千波に佐上がたたみかける。
「私と伊里弥が別れたのは、私が二股をかけて、それが見つかった私が逆上して伊里弥を切ったって、方々で吹いてるらしいじゃない。時任さんと綿貫さんから聞いたわ」
千波は肩をすくめる。
「ヒステリー女の妄想は聞きたくないな。別れて正解だったって自分で言ってるのが分からないのか」
佐上の怒りが冷たいものへと変わる。
「あなた、どこまでも嘘がつけるのね。人間性を疑うわ。こんな人とつきあった私が馬鹿だったわ」
千波の顔がニヤリと歪む。
「自分で馬鹿って言うんだ。笑える」
佐上は、身長は千波より低いから見上げる格好だが、心の上では見下げていた。
「もういい。何も言わないわ。さようなら、この虚言男」
踵を返し立ち去る佐上に千波が台詞を捨てる。
「さようなら、ヒステリー女」
そこで記憶は終わった。
狩科が見た記憶は、見ようによっては、千波が嘘をついているとも、佐上が嘘をついているとも、どちらにもとれる。
しかし狩科は、嘘をついているのは千波だと直感した。それは同じ事を経験したからだ。病的な嘘つきには絶対的余裕がある。その余裕があるのは千波だった。
この記憶を深津も見ているはずだ。
佐上優希でもある深津瑠璃に対して、千波伊里弥でもある狩科恭伽は何をできるか。
狩科には分かった。自分がしてほしかったことをすればいい。
机の上のスピーカから声が流れる。
「Aさん、二人が会っている時期は……」
「佐上さん、僕は、嘘をついたことを、本当に恥ずかしく思います」
Aさんである深津は試験官からの質問を聞き取り損ねた。狩科が言葉をかぶせたからだ。自身も怒りに震えかかっていた深津は、目の前の男性がなぜそんなことを言うのか、真意を測りかねた。
「あなたがどうしてそんなことを言うのですか?」
目の前の男性は、たしかに後悔の念を浮かべていて、それでいて意志は固い。
「あなたは今、佐上優希でもあり、僕は今、千波伊里弥でもあり、そして千波伊里弥が佐上優希を貶めたからです」
深津には、その言葉は感傷的に過ぎた。論理としてつながっていない気がした。なぜなら、自分は今、MECが再生した外部の記憶を見ていることを知っているから。
「これは、あくまでMECの再生結果です。今ここにいるあなたがしたことではないんです」
狩科はためらわなかった。
「他人の行動であっても、それをどのように思うかによって人格を問われるでしょう。他の人から責任を押しつけられて応じるつもりはありません。でも、あなたと僕は同じ記憶を共有しています。記憶を共有している限り、僕は過去の記憶にいかに振る舞うのか責任を負うんです。他の誰かになれれば誰だっていいだなんて思った僕が馬鹿でした。もっとひどい人は大勢いて、記憶の侵入を許せば自分の精神が地に落ちることもあるんだと知りました。始めにそれを受け入れた僕は結果に責任を負うんです」
そして彼は一言付け加えた。
「あなたがつらそうに見えるから、黙っていられません」
狩科の言葉を聞いた深津は、自分の内にある、黒い感情を自覚した。それは自分の中から湧き上がっていて、別人のものとは呼びづらい感情だった。
机の上のスピーカから声が流れる。
「お二人とも、私たちの質問に答えてください」
深津にとって試験官は外野だ。今は自分、佐上優希と、相手、千波伊里弥との大事な話がある。
深津は心を決めた。
狩科の目の前で、深津はきっぱりと言った。
「それでいいんですか?」
「はい」
狩科の応諾に、深津は黒い感情を自分の声に乗せた。
「あなた、最低ですね。今さら謝ったってどうなるんですか。自分がしでかしたことを理解しているとは思えませんね。とても信頼できませんよ。この人でなし!」
最後の一言を、狩科は当然の責めとして負った。
深津は、自分の言葉を受け止めた、目の前の男性を見た。自分の記憶に責任を負った、その男性に答えるべきだと思った。
深津が両手を差し出した。狩科は、自分が頬をはたかれでもするのではないか、そう思った。
しかし。深津の両手は穏やかに、狩科の頬に触れた。二人の肌が触れたのは初めてだった。
深津は一息吐いて、穏やかな顔を作った。
「そして、私は、他人を気遣うことができる、狩科恭伽を信用します」
女性の指のなめらかな感触に、狩科は自分が深津に感じる好意だけでなく、深津が狩科に好意を感じていると信じられた。
高校生の時に狩科恭伽が岸辺結とやり直せなかったことを、今、千波伊里弥と佐上優希が、つまり狩科恭伽と深津瑠璃がやり直したような気がした。
気づけば目に涙がにじんでいる。それは、過去が過去になったこと。
向かいの深津が笑みを浮かべている。今、自分は笑ってもいいのだと知った。
二人の脳裏に声が流れる。
「Memory Extended by Computerトランスレータ、ベースシステムとの接続を終了します…………ベースシステムとの接続を終了しました。これから脳との接続を終了します。以上を持ってシステムは終了します」
佐上優希と千波伊里弥は消えた。その場に深津瑠璃と狩科恭伽が残された。深津瑠璃は狩科恭伽の頬に手を伸ばし、狩科恭伽は触れさせるがままにしている。二人は笑みを浮かべる。
机の上のスピーカから声が流れる。
「いやあ、恋する若者は美しいね」
声の主は試験官ではない。九里谷教授だった。
狩科はマジックミラーを見た。その奥は見えないけれど、向かい合わずにはいられなかった。
「九里谷教授に対して千波伊里弥としての記憶の責任を取る気はありません」
その言葉への返答はなかったけれど、狩科には返答があるかどうかはどうでもいい。
「僕がMECを装着することを認めて、MECが強制的に記憶を再生する以上、僕は負けることしかできません。さっき言ったように、本当に馬鹿でした。深津さんと僕を組み合わせた理由をずっと考えていましたが、僕たちの試験内容は二人の男女を精神的に揺さぶるものでしょう? 学内関係者で固めれば倫理的に問題ある試験でも外部に漏れないと考えたからじゃないですか? 深津さんも僕も、九里谷教授にとっては配下の手駒でしかなかったんです。この話は美しくなんてない、全くの喜劇です。こんな喜劇が繰り返されないことを願っています」
机の上のスピーカから声が流れる。
「経験に学ぶのは愚か者の証拠だよ」
九里谷教授の声は冷笑を含んでいた。
深津がマジックミラーの向こうを見る。
「九里谷教授を、研究者として尊敬しています。MECは価値あるものだと信じています。でも彼に行った仕打ちを、人として疑わざるを得ません」
机の上のスピーカから流れる声にためらいはなかった。
「そんな感傷、技術開発では無力なんだよ」
試験官控え室で九里谷教授がにへらと笑った。深津と狩科には見えなかったし、思い出せなくなっていたけれど、千波伊里弥が浮かべた笑みに似ていた。
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