1-3 一言でいえば So what?

 九里谷教授に代わって三十歳ぐらいだろう男性が演台に立つ。ノーフレームの眼鏡に白衣。ということは臨床試験の実作業を担当する医師だろうか。

 そういえばそうだ。プロジェクトの力関係で工学部が上でも、被験者のサポートには本物の医師が関わる。部外者を敷地内に招き入れる際の警備という面からも、臨床試験は大学附属病院で行う方が都合がいいのだ。それなら最初の説明会から病院で開く方が、被験者はあちらこちらに出向かなくてすむ。実験環境を整えるのは一筋縄ではいかないと狩科は理解した。

 演台に立った医師が資料を広げてから視線を志望者に向ける。

「お手元にある水色の表紙の資料の二ページ目をご覧ください。本試験では、まず皆様の健康状態を確認し、試験可能であると認められた方から実際の被験者を選んで試験を開始いたします。健康状態の確認は、健康診断と同程度の人間ドックに、脳へのMRI撮影、精神科医による問診、ならびにMECのトランスレータを仮に着用して接続に支障がないことの確認を行います。これらは順次行いますので、一番早い人で終了するのが七月中旬、遅い人だと九月初旬になります。そこで改めて被験者の選定を行い、実際の臨床試験が始まるのは九月末頃です。そこからMECを実際に着用する試験が、試験の内容に応じて三ヶ月から四ヶ月行われ、終了するのは早い人で十二月末、遅い人で来年一月末です。そこから、フォローアップとして精神科医の面談を六ヶ月間継続的に受けていただき健康状態を確認して、臨床試験は終了します。本臨床試験に皆様の費用負担はなく、試験期間に応じて謝礼をお支払いいたしますが、臨床試験に伴う仕事の休業などへの補償は行わないことをご了承願います。また、全員が臨床試験に参加できるものでないこともお断りいたします」

 これらスケジュールは事前にネットの応募要項に概要が掲載されていた。だから狩科も頭に入れていた。

 しかし、改めて人の口から説明されると、長い……

 前準備で三ヶ月。そこでふるい落とされるかもしれない。落ちなかったとして、それからMECを使用できるのが三、四ヶ月。そして後遺症がないことを確認するための期間が六ヶ月。

 今は四月なのに、長くなれば終了時には来年の夏である。

 気長に続けるしかないのだと狩科は理解する。

 その後も説明は続き、医師とポスドクの合計三人が臨床試験の概要とリスクを説明した。これでも足りず、細かい話は個別面談で行うという注釈までついた。実に大事だ。

 白衣を着ていないからポスドクだろう、演台に立って志望者に問いかける。

「ここまでで質問がある人はいらっしゃいませんか?」

 待合室の一番後ろから、許可を得る間もなく声が飛んだ。

「これやったら勉強しなくていいんすか?」

 弛緩しているが大きな声に、志願者がいっせいに後ろを見る。声の主は金髪に花ピアスの男性だった。

 演台のポスドクが戸惑う。

「勉強しなくていい、とはどういう意味でしょう?」

 後ろの男性は鼻で笑った。

「そんなこと、俺に聞くのかよ。これやったら、どんなテストでも答えられるんでしょ? だったらさあ、勉強しなくていいじゃん」

 演台のポスドクの目が泳いだ。待合室の窓際に並ぶスタッフを見て、「お前が答えろ」と目で合図されたのを見て取って、答えを絞り出す。

「本試験では、MECを皆様にお貸しすることはできません。あくまで臨床試験の会場にて一時的につけていただくことに限定しています。皆様の生活場面でMECを使用することはできません」

 男性の目がつり上がる。前にある人が座っていないパイプ椅子を左足で蹴り飛ばして周囲を威圧する。

「はぁ? 貸さねぇって? なんだよそれ! じゃあなんのためにやるんだよ!」

 荒事に慣れていないポスドクが冷や汗をかきながら答える。

「本試験は、あくまで、技術の有効性の確認……ええっと、きちんと動くかどうかを確かめるために力を貸していただける人を募集しています。皆様に装置を売ろうとか、そういうつもりで行ってはいません」

「動くかどうかって、動かねえのかよ!?」

「動くと考えています。しかし百パーセントの保証はできません」

「そんなもの客に使わせるの?」

 客という言葉に色々言い返したいところをポスドクは飲みこんで、議論を切る。

「とにかく、MECを試験外にお貸しすることはできません!」

 後ろの男性は立ち上がって、長テーブルの脚を左足で強く蹴った。大きな音が講義室に響く。

「話分かんねえ奴の言うことなんか聞いてらんねえ。俺、帰るわ」

 男性は周囲をねめつけると待合室から出ていった。彼は自分が正当で優位だと信じているだろう。しかし講義室に分からず屋たちは嵐が去ってよかったと正直安堵した。

 演台のポスドクは気を取り直して志望者に呼びかける。

「他にも質問がございましたらお気軽にお申し出ください」

 その後にも質問はいくつも出た。

 質問は技術安全性に集中した。

 電子回路と脳神経を接続する技術は、電動義手・義足で実用化されている、実績のある技術だ。危険性も医療行為で認められるレベルだ。

 しかし精神との相互作用については、これまでにない分野に踏み込んでいる。

 安全性に万全を期すが、完全な保証はできない。

 説明者はお定まりの文句を繰り返した後、万が一の際には医療面でもサポートを行うと付け加えた。

「なにかあってからでは困るんですよ!」

 質問者の一人はそう言った。志望者の多くが同意した。

 狩科は、その喧噪を、雑踏の騒音のように遠くに感じている。

 一言でいえば So what?

 それがどうした?

 人の前で口にすれば人格を疑われることは分かっているから言わない。でも、本心では、MECの安全性なんてどうでもいい。

 精神が壊れる? だったら壊れればいい。

 今の自分なんて、どうにでもなればいい。

 その諦めと嘲笑が表情に出ないように、じっと心理的低姿勢を続けて騒ぎが過ぎるのを待った。

「それではここで質問時間を終了させていただきます。これより、資料の中にある誓約書を回収いたします。今はまだ記入しないでください。各人の返答が見えないよう、十分後から一人ずつ順次別室に案内いたしますので、呼ばれましたら誓約書の用紙を含めて資料一式を持って前に出てください。参加、不参加、いずれかの返答をしたら、本日の事前説明会は終了です」

 質問が打ち切られると、各志望者は緊張を解き、資料をパラパラめくったり伸びをしたりと思い思いに振る舞う。狩科はじっと誓約書を見る。

 狩科が呼ばれたのは八番目。入ってきたときとは違う男性学生に隣の部屋へと案内された。おそらく普段は診察室だろう。狭い部屋には机と椅子が二つ。机の前に白衣を着た大人の男性が座っていて、手前の椅子が客のために空いている。

「お名前をどうぞ」

 医師に問われた狩科は一言。

「狩科恭伽です」

 医師は狩科をチラ見しただけで、手元の名簿に目を落とした。

「狩科恭伽さんですね。どうぞおかけください」

「失礼します」

 狩科は、診察室なら患者が座る、手前の椅子に座った。彼が席に座ったのを確認したところで医師は顔を上げた。

「狩科さん。先ほどおおまかな説明を受けられましたが、人に聞かれたくない微妙な質問があると思います。ここでの会話は秘密にいたします。お好きなことをお聞きください」

 だから守秘義務がある医師が聞くのだ、という思いが言外に出ている事務口調で医師は問いかけた。

 問われた狩科は気負っていない。全くなにも。

「なにも質問ありません」

 そっけない態度に医師の方が不安を抱く。

「いいのですか? 重大な事柄なのですよ」

「いいんです。臨床試験に参加します」

 気後れせず答える狩科に、医師は、目の前の青年はなにも考えていないのではないかと思ったのだろう。再び誘い水を向ける。

「自分がこれから何を受諾するか分かっているのですか?」

「誓約書を書きます。ペンはどこですか?」

 狩科は、あえて、質問に質問で返す無礼を働いた。もう問答する気はない。

 医師は目の前の青年が翻意することはないと見て取ったのだろう。黙ってボールペンを差し出した。

 狩科は誓約書に署名をして、両手で医師に手渡した。医師が片手で受け取ると、狩科は立ち上がって深くお辞儀をし「失礼します」と言い残して診察室を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る