1-2 美しい人を見た喜びと自分の恥ずかしさがしばらく引かない
説明会が開かれたのはゴールデンウィーク明け。
場所は大学附属病院の外来棟。
狩科は工学部で開かれないことを半分恨みつつ、大学附属病院の最寄り駅まで電車に乗った。
病院の正門ではスーツを着た若い男性が胸の位置に「MEC臨床試験事前説明会 会場:南1号館201待合室」と書かれたプラカードを抱えている。狩科は、プラカードを持っているのはおそらく研究室の学生だろうと推測した。その男性に道順を聞こうとすると、A5サイズの地図を渡された。地図に従って歩くと、外来患者が受付をする正面ロビーではなく、離れの建物に直接出入りする扉へと案内された。病気で来ている一般患者に見られなかったのは気が楽だった。
部屋の名前が201とあるのは、三桁の数字をXYYと分解すれば、、Xがフロアの階を示す数字で、YYがその階で1番から順に付けられている番号になるのだろう。エレベーターで二階に上がるように案内されていた。
狩科がエレベーターを待たず階段で二階に上がると、廊下の遠い奥に「MEC臨床試験事前説明会」の看板が出ていた。
その前まで来たとき、狩科は心が止まった。
何があったという訳ではない。ただ女性が椅子に座ってテーブルに置かれた説明書類を渡しているだけだ。
その女性は、よく開いた目に品良く細めの鼻と桃色にわずかに朱をさした唇。濡れたように黒く毛先が肩に掛かる髪。フォーマルな場で紺色のスーツに身を包んだ彼女は、どこかのアイドルのように見えた。しかしアイドルのかわいらしさではなく、目には意思があり、胸に野球のボールより大きなものを二つ入れたような膨らみが男性をやましい気持ちにさせる。
九里谷研が研究成果を出しているのはスポンサーが多いのも一因だ。資金に余裕があるから説明会のために受付嬢を呼び寄せたのだろうか。やることがちがう。狩科は自分のみすぼらしさに嫌気がさす。
「どうしましたか?」
少し高くてダレたところが全くない凜とした声で問いかけられ、狩科は「いや、その……」と口ごもった。来た目的を忘れかかった彼は、ここに志願者としてきていることをようやく思い出し、肩掛け鞄からスマホを取り出しメモを見る。
「申込番号九番、狩科恭伽です」
受付嬢は、線がシャープな指で資料を持ち上げると、百点の笑顔を見せつつ狩科に差し出した。
「ようこそいらっしゃいました。これが本日の説明資料です。会場で席の指定はありません。ご自由におかけください」
狩科はスマホを鞄にしまい両手で説明資料を受け取ろうとする。
どさくさに紛れて受付嬢の指に触ろうか。
狩科の頭に不埒な考えが浮かんだ。
不埒な考えを振り払おうとして、狩科は資料を強引にひったくるように取った。
受付嬢の顔に怪訝な様子が浮かぶ。
その顔を見ていられなくて、狩科は頭を下げ、逃げるように待合室に入った。待合室に急ごしらえで置かれた長テーブルとパイプ椅子の席が並んでいる。狩科は椅子に座った後も、美しい人を見た喜びと自分の恥ずかしさがしばらく引かない。
会場となった待合室は、十数メートル四方の、病院なので壁が白い無機質な部屋。席の前方に仮設された演台とスクリーンがある。応募者の人数が少ないことを考えれば、席が埋まることはないから、ちょうどいい部屋を選んだのだと狩科は思った。現に狩科が入ったときは、首からスタッフ章を下ろしていない、すなわち試験志願者が五人しかいなかった。それから少しずつ人が入ってきて、予定時刻になったときに十四人。
応募要項で「健康な二十代・三十代の男女」とされていたから、若い人間が多い。ただ、狩科は自分のこともあるからとやかく言えないが、こんな実験に参加して生業の方は立ちゆかなくならないのだろうか。他人事ながら不安を覚える。一番後ろでは金髪に鼻ピアスをした二十歳になったかどうかの若い男性が、ふんぞり返って退屈そうにしている。彼は実験の内容と意義を理解しているのだろうか。
スタッフ章を下げた人間が数人いる。その半分ぐらいは白衣を着ていて、彼らが話し合い、もう少し待つことにしたのだろう。開始予定時刻を三分過ぎたところで一人の男性が演台に立つ。
「皆様、本日は当大学のMEC臨床試験事前説明会にお越しいただきありがとうございます。まず始めに、本プロジェクトの責任者である九里谷教授から挨拶をいたします」
前口上が終わると年の頃四十過ぎであろう男性が前に進む。平均より長身で細身。眼鏡はかけていないが裸眼かコンタクトレンズ着用かは見てとれない。表情は明るく、かつ締まりがあり、人好きと信頼感を覚える人が多いだろう。紺色の背広も崩れやよれがなく実に端正だった。
実に好感を持たせる男性が演台に立ち一礼する。
「わたくしが今回の臨床試験を主導する九里谷でございます。皆様には、一年以上にわたる試験に、お時間とは言わず、人生の一時期をお借りすることを、古い言葉でありますが誠にかたじけなく思っております。本試験は最先端の技術を用いますが、技術は最先端であること自体に意味はありません。皆様の生活に寄与すること、大きく言えば皆様に幸せをもたらしてこそ意味がございます。それに近づけるよう、関係者一同、微力でございますが全力を挙げて皆様をサポートする所存です。長い口上は不要と思いますので、これにて私からの挨拶とさせていただきます」
九里谷教授は再び一礼して演台を降りた。
狩科は、九里谷教授の挨拶を、悪く言えばよくできた消費者向け演説だと思った。
技術が常に社会生活に応用できるものであるとは限らない。数学に至っては応用範囲が見つからない研究も多い。それでも研究しなければ知見のストックができず応用も思うように進まなくなる。無駄に見えても単純には効率を上げられない事情があるのが科学だというのは、狩科も知っている。
それでも一般人を前にして、資金を浪費するとは言えない。皆様の生活に還元されるのですと言わなければ人は納得しない。ましてや試験に志願している人を目の前にしては。
建前をてらいなく言えること。それは重要なことだ。悪く言っているのではない。だからこそ研究環境を整備できるのだと、狩科は九里谷教授を高く評価した。
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