第二章 他人になれた?
2-1 そこには先客として一人の女性がいる
とにかく暑い。
雲一つない青空。都心の気温もぐんぐん上がり、最高気温の予想は三十六度。
狩科が着ている黒いTシャツは汗に濡れている。はいているジーパンも汗を吸っている。
CG作成のための写真撮影が行われたのは八月に入ってすぐ。記憶の中での本人映像を作成するという理由で、前後左右と上から、つまり真下から見上げる視線以外の全ての方位から写真を撮影した。
近年のCG技術とAI技術は素晴らしい。当人の全身像を撮影すれば、衣服を変えた場合の出で立ちと関節の曲がり具合を自動で計算し、HD画質で映像を合成できる。とはいえ無許可で捏造した映像をネットで公開すれば、名誉毀損と肖像権の問題から取り締まりの対象になる。そのあたりの法律も近年整備された。今回の臨床試験においては、MECを使用する試験参加者のみに映像を見せるため、私的な作成と解釈され、法律の規制対象外だという。
まあ法律上はそうなのだろうけれど、本人の映像なんて本人の記憶に出てくるはずがない。いったい何のために撮影したのか。狩科はいまだに納得できないでいる。
そして最初の試験日に指定されたのは八月十日をすぎた最初の水曜日。
狩科はこれから週一回、水曜日に試験に参加するよう指示された。十三時三十分に待ち合わせ室に入り当日の試験の説明を受ける。MECを使用する試験は十四時からの三十分。そのあと、精神科医の診察の順番待ちを理由に三十分の空き時間があり、十五時から二十分間の問診を受けて、一回の試験は終了する。
その、まさに最初の水曜日になり、狩科は臨床試験が行われる大学附属病院に来ている。事前説明会の時に来た道だ。
駅から大学附属病院にたどり着くまで、とにかく暑い。
まだ二十歳の健康な青年だ。新陳代謝も高い。そして気温が上がればしっかり汗をかく。健康な証拠である。しかし彼の頭は、部屋に入ったら冷房で冷えそうだとか臭うのではないかとか、臨床試験に関係ないところに意識の一部を持っていかれる。
正面玄関から入って、スマホにダウンロードした地図を見ながら別の棟に渡り、三階に上がると、部屋が二つ占有されている。一つの部屋の扉に「待合室」、もう一つの部屋の扉に「試験室」と張り紙されている。二つの部屋の間には廊下に机が出されて椅子に男性が座っている。狩科はスマホで被験者専用ページを開き男性に見せる。
「番号五番、狩科恭伽です」
男性は狩科のスマホと自分の端末を見比べて、顔写真が一致していることを確認する。
「狩科さん、ようこそいらっしゃいました。試験開始まで待合室でお待ちください。事前にお伝えしましたが、狩科さんの試験はもう一人の被験者とペアで行います。実験への悪影響を避けるため、本名は呼ばず、狩科さんをBさん、もう一人の方をAさんとお呼びいたします。ご了承ください」
「分かりました」
狩科は男性に一礼すると待合室の扉を開ける。
そこには先客として一人の女性がいる。
狩科は息をのむ。
その女性に見覚えがある。
事前説明会で待合室前にて説明資料を手渡した受付嬢だ。
スタッフが被験者というのはおかしい。なにかの見間違いだと自分の目を疑う。
しかし、よく開いた意思を感じさせる目も、品良く細めの鼻も、桃色にわずかに朱をさした唇も、濡れたように黒く毛先が肩に掛かる髪も、あの日に見た瞬間に心が止まるかと思った、あの女性だ。今日は私服だろうか、白のブラウスに薄い青の丈の長いスカートをあわせた清楚な姿をしている。その身なりは整っており、顔の造作も含めて、彼女が美しいことには変わりがない。
女性は狩科が入室するのに気づいて、顔を扉に向ける。彼女は狩科が呆けて扉に手をかけたままであることを、なんとも思わないでいる。
「あなたが私とペアになる被験者ですか? これから数ヶ月、一緒に試験を受けさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」
女性の、やや高くよくとおり聞き取りやすい声。実に礼儀正しい。しかし可愛い子ぶるところはなく、むしろ自分にも相手にも甘えを許さない厳しさをわずかに狩科は感じる。
狩科はあわてて扉を閉める。
「あなたがAさんですか?」
「はい。わたしがAです。あなたがBさんですね?」
「はい……Bです…… 席に座りますね……」
狩科がおずおずと離れた席に座ると、女性は顔を正面に戻し自分のスマホに目を落とす。
狩科はひがむ。
女性の振る舞いは、他人が、特に男性が自分に見惚れることになれた人物のそれだ。男性がうろたえるところを幾度となく見てきたのだろう。生きる世界が違う。
狩科は右肩を持ち上げて自分のTシャツの匂いを嗅ぐ。わずかに汗の臭いがする。こんな汗だくの姿で美しい女性に会うことが恥ずかしい。
あの炎天下だ。女性だって道を歩けば汗をかいただろう。しかし彼女からは暑苦しさはまるで感じられない。やはり別世界にいる人物に見える。
狩科は女性をまじまじと見ないよう、女性に背を向けて座る。だが後ろの気配が気になり、スマホで時間をつぶすことも思いつかず、まんじりと時間が過ぎるのを待った。
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