6-5 オブジェに光を当てて作った影絵のような
「あの男は、別れ際に笑みを見せていたんです。自分がいかがわしいことをしたはずの少女に向かって笑みを見せる、そのとち狂った精神が、いまだに信じられないのです」
あれから成長して、男性の目を引いてやまない美しい女性となった深津瑠璃は憎悪とともに言葉を絞り出した。
陰惨な話だ。
狩科は思った。
陰惨な話だ、表面だけ見れば。
彼の胸中に、ある一つのストーリーが浮かんでいた。
それは、オブジェに光を当てて作った影絵のような。
いや、深津が語った物語が影絵で、その元を形作るオブジェのような。
まるで鏡に映った逆さまの世界がもう一つあるように見えた。
そこにたどり着くには、深津を一度地獄にたたき落とさなければならない。
でも、その先には平坦な日の当たる野原が広がっている。
地獄にたたき落とす役を引き受けることに、彼は決めた。
「深津さん。つらかった話を打ち明けること自体もつらかったでしょう。でも、僕はあなたに同意しません。もっと苦しんでもらいたいです。僕の話を、聞いてもらえますか?」
深津は放心した。まったく肩透かしだったから。過去の悲しい思い出を共有するために目の前の彼が来ているように思ったのに、裏切るようなことを言うから。
「私が、もっと苦しめばいいと?」
狩科はうなずいた。
「はい。僕の話を聞くと苦しむと思います。それでも、深津さんに伝えるべきだと考えています」
深津の顔に怒りの色が表れる。
「苦しむって、どこをどうしたら私がもっと苦しむんですか?」
「それは聞けば分かります」
「じゃあ話してご覧なさい!」
深津は狩科を突き放した。彼女には絶対の自信があるように見えた。
だが、その自信は狩科にとっての足がかりだった。話すきっかけを得られたのだから。
「では話します。その男性は、おそらく、間違いなく、深津さんにいかがわしいことをしていません。行方不明になっていた深津さんを保護した善意の大人です」
「なぜそう言えるんです!」
遮る深津にかまわず狩科は告げる。
「深津さんはお婆さんが亡くなったことのショックで、その男性に会う前に解離性健忘を発症し遁走していたんです」
深津の口が、なにかを言いかけたまま止まった。深津は黙ったまま、ゆっくりと肩を上下させる。狩科は、それを、少なくとも話すことにかけては是だと受け取った。
「そこで黙るということは、深津さんに心当たりがあるんだと思います。深津さんはお婆さんが好きだった。愛していたと言っていい。そのお婆さんが亡くなり、全てが戻らない過去になったとき、深津さんの心は一回崩れたんです。いかがわしいことをした男性が、自ら被害者を警察に届けるでしょうか? 深津さんの身を案じ、自身も潔白だったからこそ、深津さんを警察に届け、無事保護されたことに安堵したんです。そして、犯罪の可能性について嫌疑不十分で不起訴になったということは、物証があって無実が証明されたんです。善意の大人が正しい処遇を得たんです」
深津の肩が震える。彼女は、吠えた。
「そんな結末だったらどんなによかったことか。なぜ私たち家族がそう思っていないのだとお思いですか?」
被害者の懸命な訴えだ。しかし狩科は鏡写しの世界を伝える。
「深津さんを救った恩人に、十数年にわたって、心の中で冤罪を着せてきたことに、自分たちの心が耐えられないからです」
深津は黙って浅く息をする。この隙に狩科はたたみかける。
「ご両親にとっても深津さんはかわいい娘さんのはずです。娘が行方不明で一時的に記憶喪失。それだけでも悲しいのに、保護したのが見知らぬ男性だった。理不尽に対する怒りをぶつけるのに十分な相手だったんです。自分たちがこんなひどい目に遭うはずがない。貶めた人間がいるはずだと。そして怒りをぶつけた。何年も、十年以上も怒りをぶつけて、後戻りできなくなった。だからこだわるんです。そう思う気持ちを、僕は理解します。知っているから、それでも抜け出すべきだと信じるから、最初にもっと苦しむべきだと言ったんです」
ここまで、深津を地獄に落とすために詰問口調で告げざるを得なかった。でも、次の一言は穏やかに伝えなければならない。今までの憤りを狩科は殺した。
「でも、こだわっても楽にはなれません。ここでいったん終わらせて、元からあったもっと幸せな世界に戻るべきです」
狩科の念頭にはMECがある。深津が同様に考えていないはずがない。だから言葉を足す。
「MECが開発された以上、脳内の記憶の再生も研究が進むでしょう。十年あるいは二十年経つと、解離性健忘の記憶を再生できる技術が開発されるかもしれません。そのとき、やはり過去に犯罪があったのだと露見することもあるでしょう。しかし、そこまで待つ必要はないと思います。今引き返して、十年後二十年後のことはそのときの自分に任せればいいと思います」
そして、もう一つ付け加えることがあった。
「深津さんがMECに関心を抱いたのは、人の記憶に関心があった、いや、関心を外すことができなくなっていたからでしょう。もしかしたら過去の記憶を取り戻す研究への道も考えたかもしれない。でも、それは、他人に役立てるだけにとどめて、過去の罪を暴く方向に使わない方がいいです」
深津の目からしずくがこぼれた。アニメのような滝のごとくの涙は流れない。ただ少し目が潤んで、顔はくしゃくしゃ。せっかくの美人が台無しで、隙だらけなところが人間くさい。彼女は自分に涙に気づいて右手の甲で目を拭う。
「今から引き返せると思いますか?」
狩科はそっと押すように答える。
「その男性を名誉毀損などで貶めたりしていなければ、なかったことにできると思います」
深津はハンカチを取り出して目を拭った。
「今すぐに答えが出ると思わないでください。十年悩み続けたんですから」
深津は目を拭い続けた。しばらくするとティッシュペーパーを取り出して鼻をかんだ。一人の女性がグズグズに泣き崩れる。
そのとき狩科は左斜め前の男性が新聞越しにこちらを見ていることに気づいた。後ろを見ると右後ろの女性もこちらを見ていて、狩科と目が合うと彼女はそっぽを向いた。周囲の視線が深津と狩科に集中していた。それに気づかないほど目の前の深津をあやすのにいっぱいいっぱいだったのだ。
よく乗り切ったもんだ。自分で自分を褒めたいとはこういうときに使う言葉なのかと、先人の気持ちが少し分かった気がした。
深津は十分以上泣き続け、テーブルの上に鼻をかんだティッシュペーパーが四つ並んだ。深津が顔を上げたので狩科は安心して声をかける。
「もう、いいですよね」
「ずるいです」
「えっ?」
深津は泣き崩れた後で今もちょっと隙があるのだが、狩科への態度が何やら恨みがましい。
「なんで、ずるいんでしょう?」
予想外の反応に狩科は間が抜けてしまった。その隙を深津が攻める。
「狩科さんも重たい過去があるんじゃないんですか? 他人になりたいなんて、平凡な人生を送っていたら言うはずないじゃないですか!」
狩科は右手で口を覆った。真正面の深津を見られず、首と視線を左右に動かして逃げ場を探す。そんな狩科に深津が顔を近づける。
「私の痛い話を聞いたんですから、狩科さんも自分の痛い話をなされたらどうですか? それでおあいこじゃないんですか!?」
狩科は両手で深津を制する。
「分かりました。僕の痛い話をしますから、そんな、にじり寄るのはやめてください」
深津が身を退いたところで狩科はゴクリと唾を飲みこむ。そして咳払いを一つ。
彼は、自分がかっこよくないことを自覚して、過去を打ち明け始める。
「僕の話は高校生の時なんです。あまりモテない僕ですけど、二年生の時、彼女がいたんです。深津さんとはタイプが違って、本当に少女らしいかわいさがあって。今でも、彼女とうまくいっていたときのことは楽しい思い出です。でも、うまくいかなくなり始めてから、彼女が、僕の記憶にないことを周囲に公言するようになったんです」
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