6-4 最後に男性が見せたあの微笑みが忘れられない
瑠璃はおばあちゃん子だね、とずっと言われていた。
なにをしても優しく許してくれる祖母が、瑠璃は大好きだった。
母が「お義母さんは瑠璃を甘やかして困る。瑠璃がワガママに育ったらどうするのか」と瑠璃本人の前でぼやいていたけれども、瑠璃が祖母を慕う気持ちに変わりなかった。
瑠璃は祖母をいい人だと信じていた。
でも運はよくなかった。
癌が見つかった。
発見されたときには二カ所に転移しており、抗癌剤治療が行われたものの、目標は寛解(癌が消失して通常生活を送れるようになること)ではなく延命だった。
祖母が入院してから、瑠璃は祖母の病室を足しげく通った。
「来たよ」
瑠璃が病室に入ると、痩せた祖母は、以前と変わらぬ笑みをつくって瑠璃を出迎えた。
「瑠璃ちゃん、いつもありがとうね。でも、おばあちゃんのところばっかり来て、勉強は大丈夫?」
瑠璃には免罪符があった。
「大丈夫だよ」
鞄から取り出したのは百点の算数の答案。
瑠璃は子どもの頃から勉強机にかじりつかなくても試験では満点をとる子だった。
祖母は喜ぶ。
「あら~ 瑠璃ちゃん賢いねえ」
「勉強は大丈夫だから、ずっとおばあちゃんのところに来るよ」
祖母は瑠璃の頭をなでた。瑠璃は祖母が大好きだった。
しかし癌は進行し、集中治療室に入って面会謝絶となり、しばらくして……
天に召された。
お通夜と葬式には多くの大人が黒い服を着てやってきた。みんなが「いい人でした」と声をかけていた。
瑠璃も黒い服を着て、そして泣き続けた。人目もかまわず、泣き続けた。
母はこっそり「だからお義母さんは瑠璃を甘やかしすぎたのよ」と父に言ったが、瑠璃にそんなことはどうでもよかった。
葬式が終わり、祖母を知る大人たちも帰って、家が日常に戻った。
祖母が亡くなって四日後のこと。
その瞬間のことが、瑠璃にはあいまいである。
気づくと路上で手を引かれていた。
手を引いていたのは見知らぬ男性だった。
見知らぬ男性が手を引いているのを見て、瑠璃はおびえて手を引いた。
前を歩いていた男性が振り返った。
「気がついたかい? お嬢ちゃん、名前は?」
名前が個人情報として保護されることは小学四年生で勉強もよくできる瑠璃には十分分かっていた。
「言いません」
怒気を露わにしているつもりなのに、男性は微笑んだままだった。
「迷子だったんでしょ。交番に連れて行くよ」
「自分で行きます!」
瑠璃は男性に背を向けて逆方向に歩き始めた。
「そっちに行ったら家ばっかりで交番はないよ」
瑠璃の足が止まった。今、自分がどこにいるのか、分からなかった。
瑠璃が振り向くと男性はうなずいた。
「おじちゃんが交番まで連れて行くよ。誘拐の犯人を警察に差し出すつもりでついてくればいい」
あまりのほがらかさに瑠璃は毒気を抜かれて、男性の後ろをついて歩くことにした。
この人に着いていけばいい。
男性の背中がとても心強く感じられた。
たしかに男性は近くの交番に瑠璃を連れて行った。
交番には一人の男性巡査がいて、二人がやってくると公僕らしく挨拶をした。
「どうしましたか?」
「迷子になりました」
瑠璃の言葉を巡査はたしなめる。
「冗談はやめようね、お嬢ちゃん。ご家族の方がいらっしゃるじゃないですか」
男性は落ち着いて巡査に声をかけた。
「そういうことでいいんですよ。この子を保護してあげてください。私は見知らぬ人間です」
「え?」
男性は巡査に対して実に穏やかに応対した。瑠璃は、誠実さとはなにか、その実例を見た気がした。
巡査は一瞬あわてたが気を取り直し、瑠璃に問うた。
「お嬢ちゃん、名前は? どこから来たの?」
瑠璃は、後ろの男性になら名前を聞かれてもいいと思った。
「深津瑠璃っていいます」
それから巡査がどこか(多分本署だろう)に電話したり、パトカーがやってきたり、てんやわんやがあった。
男性は抵抗せず、警察官に連れられていった。
瑠璃が最後に見た男性の顔は、微笑んでいた。
自分を気遣ってくれた男性を、瑠璃は信頼した。
当時の記憶がないということで瑠璃は小児精神科にまわされ、数ヶ月診察を受けた。
その間に、男性が嫌疑不十分で不起訴となったことが父母に報告された。
こうして、瑠璃の失踪は事件にならず新聞にも載らず終わった。
だが、父母が男性をどうしても許さなかったことが瑠璃の心に残った。信頼すべき人を恨むのは筋違いに思えた。
それから月日が経ち、瑠璃は中学校に上がった。
身体が次第に大人びていく頃。瑠璃も胸の大きさを周囲の子と比べて自分が大きいと誇らしさより羞恥心を覚える、そんな年頃になった。
小さい頃から読書量が豊富だった瑠璃は、大人が読む本にも臆せず挑んだ。
ある日に手に取ったのは多重人格を扱った本だった。「多重人格」の言葉に惹かれて読み始めたのだが、精神医学の世界では「解離性同一性障害」と呼ぶことを知った。新しい知識が増えることに瑠璃は心が躍った。
読み進めると意外な記述があった。もっと軽い記憶喪失も同じグループの障害として扱われていて、それらは「解離性健忘」と呼ぶこと、
解離性健忘を含む解離性障害を引き起こす大きな原因の一つは性的な事件であること。
瑠璃の脳裏に過去の記憶が浮かんだ。正確には、記憶が欠落したから目が覚めた瞬間の記憶が。
あの頃の瑠璃は胸も膨らんでいないまったくの子どもだったけれど、世の中にはそういう子にしか性欲を抱けない大人がいることも知っていた。
瑠璃が記憶を無くして、何も無かったはずが無い。母はそう言い続けていた。
母がそう言い続けた意味が分かった。それがなにかを口にすることはできなかったけれど。
瑠璃は自分の身体を汚らわしいものに触られた気がした。
信頼できる大人を体現したかに思われた男性が、瑠璃になにをしたのか。
その記憶は無いが、記憶が無いことが証拠だった。
知識は真実を明らかにする。その言葉の意味を瑠璃は会得した。
あの男性は鬼畜だった。それは状況から見て揺るぎない事実だった。
そして瑠璃は、最後に男性が見せたあの微笑みが忘れられない。
あの鬼畜がなぜ微笑みを見せて瑠璃のもとを去ったのか。
瑠璃は忘れられないし許せない。いまだに。
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