6-3 そんな優しさで、他人の汚点に踏み込めるんですか?
狩科はMECを外して三十分ほど待ってから精神科の診察室に向かう。それまでに返事はなかった。
「一緒に臨床試験を受けている女性が、MECとの接続が終了した途端、なんというか、狂乱状態になったんです。『思い出せない』って。それって、なにかあったんでしょうか」
狩科は精神科医に問うた。しかし答えは期待していない。
精神科医の口は堅い。前の患者の様子は絶対に教えてもらえない。
狩科は戸惑いを言葉にできればそれでよかった。
精神科医は営業スマイルを浮かべたままだ。
「人がうろたえるときは、その人に固有の事情が背景にあることが多いですから、本人に聞かないと分からないですよ。臨床試験で会っているだけだと聞く機会もないでしょうから、あなたはあなた自身の無事を考える方がいいと思います」
「そうですか……」
狩科は助言を受け取ったように答えた。深津に理由を聞ける自分の立場を精神科医には打ち明けなかった。
面談が終わってスマホを見ると、「深津瑠璃」からのメッセージが届いていた。
私の愚痴につきあってもらえませんか
狩科は返した。
いいですよ
その後に確認すると、深津は大学附属病院を出てすぐにあるコーヒーショップで待っているとのことだった。スマホで経路を確認して向かう。急いでいる、つもりなのだが、狩科本人も精神的疲労がたまっていてあまり速く歩けない。
コーヒーショップにたどり着いたとき、気持ちとしては、どうにかしてたどり着いた、と思った。カウンターで注文もせずずかずかと店内に入り客席を見渡すと、入り口から右奥の窓のない壁際二人席に深津の姿があった。もう時間が経っているのか、カップは半分ほど空。深津は手に持ったスマホに目を落としている。これだけ見ると普段の待ち合わせのようだ。夢中になっていて気づかないようだから、これは呼びかけた方がいいのだろう。
「深津さん、遅くなりました」
狩科が呼びかけると深津は顔を上げて狩科を見た。
「狩科さん、来たんですね」
深津の声はそこそこ明るい。一時間ほど前に取り乱していたのが、半分嘘のように思える。これは大丈夫だろう。狩科は安心した。
「じゃあ、僕は自分の分を買ってきますね」
軽く言い残すとカウンターに向かって、ホットコーヒーのトールサイズを注文する。そんなに時間もかからず出てきた。トレイを持って深津の席に向かい、テーブルにトレイを置いて通路側の椅子に座り深津を見る。
今日会うよう呼びかけたのは狩科の方だ。これは自分から話を切り出すのが筋だろうと狩科は思った。
「急に呼び出してすみません。さっき、深津さんが大変だったように見えましたから。でも、無理に話してとは言いません。落ち着いて、気が向いたら、教えてください」
深津は穏やかに言う。
「狩科さん、優しいんですね」
そして数拍空けて、言い切った。
「そんな優しさで、他人の汚点に踏み込めるんですか?」
その言葉に、底冷えがした。
これは試されている。そのことは分かった。
狩科は、これに自分が耐えられるのか疑問に思う。
今まで、こういうときにどうした?
ずっと千波伊里弥のことを思っていた。彼ならどうするか。それが指針だった。
しかし、先のMEC臨床試験で千波伊里弥は佐上優希と別れた。
佐上優希でもある深津瑠璃に対して、千波伊里弥として望むのは、馬鹿にしている。
頼れるものはなんだろう?
わずかに迷って、結論が出た。
ここにいる狩科恭伽しか頼れないのだ。
自分はどこまでできるのか?
ぶっつけ本番、表舞台に立つしかない。
狩科はぐっとこらえた。
「分かりました。そう言われれば考えがあります。深津さんに話してもらうまで、僕は帰りません」
深津が勝手に帰ったらどうする?というツッコミは封じて、退かない態度を深津に見せる。彼女の顔を真正面から見つめる。
深津は狩科を見たかと思うと視線を落とす。後ろ暗いところがありそうに見える。
それでも退くわけには行かない。狩科は動かず深津に向かう。
テーブルの上のコーヒーが冷え切っていくのなんてかまわない。
店内のBGMはただの雑音だ。
二人の間で無言の時間が続く。
狩科は分からなかったが、客観的には十一分経ったところで深津が言葉を口にした。
「さっきのMEC臨床試験で、佐上優希と千波伊里弥が別れ話をしましたよね。試験の間だけでしたけれども、私は佐上優希でもありました。前二回はそうでもなかったんですが、佐上優希は私のもう一つの姿にもなっていたんです。その佐上優希が別れ話をして、それは重大な事でした。だから、いったい何があったのか、自分でよく考えようと思ったんです。ですけど、MECによって再生された記憶ですから、MECが停止すると思い出せなくなりました。あれだけ大事だったはずの記憶が、MECが接続されているかどうかで欠落してしまう。そのことが、とても怖くなりました」
深津は目を落としたままで、声は細かった。
記憶が欠落する。それは怖いことだ。誰だって怖いと言う。
けれど。
狩科には、先の深津の錯乱が、もっと深いものに思えた。
なぜか。自分が同じ経験をして、でも深く傷ついていないからだ。
そこまで怯えたのはなぜか。
踏み込まなければ、解決しない。
「僕も千波伊里弥の記憶を無くしましたが、そこまで怯えてません。あれ? おかしいな? というくらいです。深津さん、記憶を無くすのが怖いのは、どうしてですか? 何かありましたか?」
最後の一言にカマをかけた。このくらい突っ込まないと核心には迫れない。
その最後の一言に深津は驚いた顔を見せた。虚を突かれて、狩科をまじまじと見た。
狩科は視線を逸らさなかった。
深津が視線を右下に落とした。
「私、解離性健忘にかかったことがあるんです。小学四年生の時に」
解離性健忘。記憶の一部が欠落するトラブル。原因は分かっていないので「病気」ではなく「障害」つまりトラブルとして扱われるが、精神科医つまり医師が治療を行う点では身体の「病気」と変わらない。
しばしば記憶喪失が話題になる。それまでの自分の人生を全て思い出せなくなった人は時折ネット配信動画などに出る。でも世の中には、数時間、数日、あるいは数ヶ月にわたる記憶だけが欠落し、前後はきちんと覚えていて、記憶が欠落した期間に起きたことが闇の中へと消える人がもっと大勢いる。
狩科は自分が精神科にかかっていたときに一通り入門書を読んだ。だから精神障害の大まかな知識は頭に入っていた。
解離性健忘は、原因ははっきりしないのだけれど、仮説はある。自分が何者であるのか、こそばゆい言葉で言えばアイデンティティが崩壊するほどの危機において、そのアイデンティティを保護するために不都合な記憶を消す。その仮説は広く信じられている。
深津のアイデンティティは、壊れかけたのだろうか。
狩科は聞いたことを後悔……しかけた。
しかし聞き出そうとしたのは自分だ。これは最後まで聞く責任がある。
「何があったか、話せますか? 聞くまで帰りませんよ」
深津は顔を上げない。そのまま語り始める。
「その事件の四日前に、父方の祖母が亡くなったんです。祖母は本当に私をかわいがってくれて、亡くなったときはとてもつらかったです。祖母の葬式が終わって、ようやく日常に戻ったはずというときに、私は見知らぬ男性に誘拐され、家から十キロほど離れた交番で保護されました。誘拐されたという公式の記録はありません。被疑者は嫌疑不十分で不起訴となりました。でも、あの状況から考えて、私が誘拐されたこと、そして……解離性健忘に繋がる重大な事件があったこと……それは確実なんです」
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