第八章 記憶の責任
8-1 MECに起動して欲しくなかった
水曜日の朝。狩科は少し胃に重たさを感じる。何も食べていないのに。それもそうだと自嘲する。先週MECに見せられたのは別れ話だった。今日はいったい何を見せられるのか。悪いものしか予想できない。
最寄り駅から大学附属病院に向かう道のりも、もう慣れた気がする。自分は昔を知らないが、年寄りは最近の夏は長くなったと嘆息する。狩科にとって九月はまだ夏だ。アスファルトからの熱気が少しだけ弱くなった気もするが、襟付き半袖シャツが汗に濡れるのは変わらない。妙なものに慣れた。狩科は慣れた自分に嘆息する。
MEC臨床試験の待合室に入るといつものように深津が先に来ていた。スマホも見ず、何やら物思いにふけっていた。扉が開いたのに気づいて顔を上げる。
「いらしたんですね」
深津の笑顔は作り笑いに見えた。
「一応、来ました」
狩科はおとなしく答えた。そして深津の左隣に座った。
深津は狩科との間を空けたまま顔を正面に向けたままで独りごちる。
「先週とは違う意味で、今日、何を見るんでしょうね?」
その独り言は問いかけなのだと見てとった狩科は迷いを打ち明けるように答える。
「きっと、楽しくはないでしょうね。そう、思っていた方が、なにかいいことがあったときに、楽かもしれませんよ」
深津は狩科を見ないでつぶやく。
「いいこと、ありますかね」
狩科も深津を見ないでつぶやく。
「期待しちゃ、駄目なんだと思います」
二人ともお互いを見ないが、離れようともしなかった。無言のまま開始時間を待つ。
試験官が二人、待合室の扉を開ける。
「被験者のお二人様、時間になりましたので試験を始めさせていただきます。試験室にお越しください」
いつもの呼びかけに、狩科と深津は無言で立ち上がり部屋を出る。
試験室は、元ある部屋がマジックミラーで仕切られて縦長になっている。中央に天板が木目のカフェテラスを思わせる丸テーブルと、テーブルに色調を合わせた木製椅子が二つ。その上には十cm四方の黒いスピーカ。そしてMECが二つ。
いつも通り深津が奥に座る。深津には女性の試験官がつき、狩科には男性の試験官がつき、後頭部にMECを装着する。ほとんど言葉を交わすことなく事が進む。皆がもう慣れている。しかし、この先に何が起きるのか、狩科には読めない。
マジックミラーの反対側、試験官控え室には一人の試験官が待っていて、そこにMEC装着を手伝った二人が戻ってくる。
各々が椅子に座って試験を始めようとしたとき、関係者用の扉が開いて、一人の男性が口の前に人差し指を立てた格好で入ってきた。
九里谷教授だった。
静かに、という教授の意図をくんだ試験官は、何も言わず椅子から立ち上がり、九里谷教授にその椅子に座るよう腕だけで促す。九里谷教授は当然のこととして椅子に座る。
九里谷教授の目の前には、マジックミラーの向こうに、深津と狩科が座っている。神妙な面持ちをしているのが見える。それを見る九里谷教授の顔は笑みを浮かべている。試験官にはそう見えた。
狩科と深津の脳裏にMECの起動シーケンスの音声が流れる。
「Memory Extended by Computerトランスレータ、脳との接続を試行………………接続を確認、ベースシステムとの接続を開始………………接続終了。システムは正常に起動しました」
狩科はMECに起動して欲しくなかった。しかし抗うことはできなかった。
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