第七章 あのときの彼はどこにいる?
7-1 それはぬるま湯だったのかもしれない
最近、キョンタンが他の女性を見ている。
来海にはそう見える。女の勘がそう言っている。
ずっとそばにいたのは自分なのに、どうしてパッと現れた女性に目が向くのか。どうしてこうなったのか。
来海はキョンタンとの出会いを思い出す。
大学デビューという言葉の意味は人によって違うのだろうけれど、遊びメインの軽いサークルに入ることがそれに当たると、多くの人が同意するだろう。
そんな、とあるサークルの新歓コンパに来たのがまずかった。
当然だが、大学新入生は酒を飲めない。歓迎されるはずの新入生がソフトドリンクを飲み、迎える側の先輩が酒を飲んで盛り上がっている。
そこまではまだ良かったのだが……
「女の子に注いでもらえるとうれしいなぁ!」
半分できあがった男子学生が羽目を外してそう言ったとき、これは末期症状だ、と来海は思った。
とまどう新入女子学生。これはしかたない。
「私が注ぎます!」
来海は手を上げて宣言した。先輩は喜び、新入女子学生は安堵する。これでいい。ああいう輩は、表面だけ合わせておけば満足するのだ。
すると一人の若い男子が手を上げた。新入生だろう。顔は悪くないが、髪型のまとめ方がなっておらず、身なりにかまう気がないのが間が抜けて見える。
「それだと女性の先輩が不公平なので、僕も注ぎます」
女子学生がどっと笑う。そこで笑うんだ。人をこき使ってなにが面白いのかねぇ。来海は先輩方に言えない感想を抱いた。そして男子学生に対して、奇特なお人好しだと思った。
それから来海は先輩方に酒を注いで、自分が飲み食いする時間を見つけるのが難しかった。それと同時に、女子学生に酒を注いでいる男子学生を見ていた。注いでばっかりで自分が食べてない。社会で生きていけるのか不安になるくらいのお人好しだ。でも、気になった。
酒を注いで回っていた男子学生が頭を下げた。
「すみません。お手洗いに行かせてください」
女子学生からいいよと言われて、その男子学生は店のトイレに向かう。
これはチャンスかな。
来海は男子学生に従順そうに伝える。
「ちょっと席を外していいですか?」
「どうして?」
無神経な男子学生に内心いら立ちながらも顔には出さず。
「皆まで言わせないでください」
「ああ、分かった」
理解ある振りをする男子学生(本当に理解があったらお酌なんてさせない!)を尻目に来海はトイレに向かった。
トイレの前で待っていると、小だったのだろう、すぐに男子学生は出てきた。来海は、そのこの前に立つ。そして声をかける。
「君、見てたけど親切そうな子だね。よかったら、アドレス交換しない?」
男子学生は鳩が豆鉄砲を食ったように驚いた。落ち着くのに少し時間がかかった。
「そんな、よく分かっていない相手とアドレス交換していいの?」
こういう輩は突かれると弱いポイントがある。
「君は、そんな他人を裏切るような人じゃないよね?」
信義を重んじる人は自分が不義理な人間だと思われることを嫌う。ほら、現に目の前の彼は戸惑っている。
しばらく迷った彼はスマホを取り出した。
「信用してもらえてうれしいです。これが僕のアドレスです」
来海もスマホを取り出し、アドレス交換した。
来海のスマホの画面に「狩科恭伽」と出た。読みは後で聞けばいい。
男子学生は先輩方を待たせていることを申し訳なさそうに席に戻る。律儀な子だ。
来海はもらったアドレスに早速メッセージを打った。
この後、二人で話をしたいです
店の前のコンビニで待っています
虚飾に満ちた新歓コンパが終わった後、来海は店の前のコンビニで待った。彼が来るか来ないかは分からない。五分待ったとき、スマホにメッセージが届いた。
今、メッセージを読みました
これからそちらに向かいます
それから三分後に彼は現れた。ここまで遅れたということは、帰りかけていたのだろう。まあ気づいてもらえてよかった。
彼は頭を下げる。
「すみません。メッセージに気がつかなくて」
来海は軽く笑う。
「いいよいいよ。これから飲み物買って、公園で話そう! ……期待外れだった? いいことできると思った?」
軽くからかうと、彼はばつが悪そうな顔をする。そうか、ここで言い訳しないのか。人に対して基本的に受けだな。来海は彼の従順さに、呆れるを通り越して感心した。これはなかったことにしなければ。
「いいよいいよ。誤解されることを狙って書いたのは私だし。君に飲み物一本おごらせて。君、他人に注いでばっかりで自分が注いでもらってないじゃん。だから私が注ぐ」
来海が強引に提案すると彼はうろたえる。
「そんな、会ってすぐの人にそこまでしなくても」
来海は言葉のジャブを打つ。
「それってずるいね。他人に貸しを作るのが嫌なのって、自分が有利な立場じゃなきゃ嫌なんでしょ?」
さあ、どう来る?
彼はしおらしくなる。
「分かりました。いただきます」
ここでも言い訳しないのか……
だけど、これは行きがかり上、来海が強引に押しつけた形になる。どっちに貸しがあるのか分からない。
受けもここまでくるとかえって怖いな。来海は観念した。
「じゃあ、中身は私が好きなのでいい? 買ってくるから」
「はい」
彼が答えたのを確認すると、来海はダイエットコーラを二本買った。
コンビニの近くに小さな公園がある。そこには背もたれがない底冷えするようなコンクリート製ベンチがある。そのそばに街路灯があり、夜の公園はそこだけ明るい。二人はそこに並んで座る。
来海はダイエットコーラを一口飲みこんだ後、彼に尋ねる。
「あの名前、なんて読むの?」
「かりしな、きょうが」
「私の名前は、きまち、かがね。名前の方が読みにくいんだよね」
来海はもう一口飲んで、彼の横顔を見る。
「君、ああいう場所に不向きだね。来なければよかったのに」
狩科君はうつむいてダイエットコーラを見る。
「大学に入って友達を作ろうと思ったんですけど、やっぱり僕には無理でした。来海……さんは自分から輪の中に入れて、立派ですね」
狩科君には面従腹背は伝わってなかった。来海は誤解を解くべく打ち明ける。
「ポーズだけだよ。私も新入学生の中で浮いてて、お高くとまってるって思われたから、普通に人と遊ぶんだよって証拠を作るために参加したんだけど、駄目だったなぁ。君と話している方が楽しいよ」
狩科君はその言葉を理解しかねた様子だ。
「僕と話してて楽しいですか?」
あちゃあ。これは本格的に自己評価が低いなぁ。支えて、なおかつ思い上がらないようにしよう。
「先輩にお酒を注いでまわるよりはね」
狩科君はなにも言わなかった。
どうしようかなぁ。来海はしばらく考えて、心に決めた。
「キョンタン。今日から君はキョンタン」
「はぁ」
来海の一言に狩科君は気の抜けたような声を出した。でもいい。自分がリードすると来海は決めた。
「だって恭伽(きょうが)だからキョンタン。よろしくね、キョンタン」
「そんな、よろしくって言われても……」
「これからだよ、これから」
狩科君改めキョンタンは成り行きに振り落とされかかっているけれども、きっと突いてくるだろう。
こうして来海は大学に入って最初の友達を得た。
最初の期待通り、狩科は来海にとって信頼できる友達になった。
狩科は自己評価が低いけれども、人との応対に特段の問題はない。何があったのかは知らないけれど、踏み込んでみればつきあいやすい相手で、いい人と仲良くなれたと思った。
ずっと楽しかった。
でも、それはぬるま湯だったのかもしれない。
胸を焦がすなにかはなかったのかもしれない。
それがあの女と自分の違いなんだろうか。
来海は、自分は間違えたのだろうかと思った。
月曜日午前後半の講義が終わって、来海はタブレットを鞄にしまう狩科に声をかける。意を決して。
「キョンタン、あの人工ツンデレとは、今、どんな感じ?」
キョンタン、うろたえるだろうな。
来海の予想は、半ば外れた。
「つきあっているとかじゃないけど、嫌われてはいないかな。いろいろと話もできてるし。ケンカになったりしなくてよかったよ」
キョンタンは淡々と答える。
彼が今までにない確信を持っているのが、来海には悔しい。だから言葉のジャブを打つ。
「キョンタンがあの人に興味を持ってるのって、面食いだからじゃないの?」
キョンタンはばつの悪そうな顔をして答える。
「そうかもしれない……」
いつもの通り受けのキョンタン。でも、そこに目標がある。来海には悲しい。
「キョンタン! そこは普通言い訳するもんだよ。自分がキョンタンに悪い印象を持つことを分かってて言ってるでしょ。それって、私の言うことを聞いてるようで、私を大事にしてないよ」
キョンタンは自分の無礼を感じているようで、なにも言わない。
つまり、なにも否定しない。
ここで感情的になっちゃ駄目。それは分かっているのに、来海は言わずにいられない。
「あの人が美人だとか、不安定だから支えてあげなきゃいけないとか考えてるんだったら、それってキョンタンが損するだけだから。キョンタンは誰かを救うことに存在意義を見いださなくていい。自分が救われていい。私だったら、キョンタンに余計な心配はさせないよ」
キョンタンは申し訳なさそうな顔をするが、言葉には確信がある。
「他人を救うつもりはないけど、深津さんから離れたいとは、思わないんだ」
今まで自分に向けてくれなかったものを、どうしてあの女に向けるのか。
来海の心の堤防が決壊した。
「キョンタンの卑怯者!」
叫んだ来待に向かって、キョンタンは申し訳なさそうに「ごめん」と言った。
キョンタンの嘘つき。あの女と別れる気なんてないくせに。
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