6-6 人の悩みって、他人から見たら、たったそんなこと、なんですね
「いろいろありましたけど、その子のことは心底好きでした。今でも、その子が元気になっていてくれればいいなと思います。引きずっちゃう恋愛って、あるんですよ」
狩科は思いの残りを吐き出すように、ふぅとため息をついた。
気づけば向かいの深津が険しい顔をしている。
「言わせてもらいますけど、ひどい思い込みですね」
狩科は口が開いて、閉じられなかった。口をパクパクさせて、ようやく落ち着いた。
「思い込みって……」
深津は放心しかかった狩科に説くような態度で臨む。
「その女の子は現実を見ようとしていません。逃避しています。狩科さんの言うとおりだとすると、同級生も、家族も、カウンセラーも、彼女を助けることはできないでしょう。現実から逃げている人は、現実を見ようと心を決めない限り、誰も手助けできません。それは精神医学を学ばなくても分かる、この世の現実じゃないですか」
深津は一段語気を強める。
「その子が直す気がないものを、狩科さんが背負うことはできないんです」
狩科はうなだれる。
「それは……分かってるんですけど……」
「引きずっているのは、知っているだけで分かっていないからです」
深津にたしなめられ、狩科は顔を上げられない。
そのまま少し時が流れた。
沈黙を破ったのは深津だった。
「あなたが女性は全員そういう人間だと見ているのとしたら心外です」
その言葉には拒否の念が含まれているように狩科には思えた。彼は弁解したかった。
「そんな目って……」
すがる狩科を、深津は、落ち着いて、けれど厳しく切る。
「あなたの目に、女性がみんなそんなに壊れかかっていて男性が守らなければいけないものだと映っているのなら、それは女性を馬鹿にしています。女性はもっと落ち着いて強いものです。他人に救われなくても、一人で生きていける存在です。私がそんな弱い存在だと見られるのは腹立たしいです」
深津の言葉は正しかった。まったく正しかった。
でも、狩科はその言葉にほころびを見つけた。
「そうは言っても、深津さんも十年間他人を恨んだまま苦しんで壊れかけていたじゃないですか」
深津の、なにかを言おうとした口が止まった。
そのまま言葉を飲みこみ、下を向く。
二人の間にBGMと他の客の会話が流れる。何も言えない二人の間の空白を洒落たBGMが埋めてくれることを二人は願う。
その空白を埋めきれなくなる。
沈黙を破ったのは、また深津だった。
「人の悩みって、他人から見たら、たったそんなこと、なんですね。言われれば簡単なことなのに、自分の中でずーっと、ずーっと重しになって、思い続けていた時間だけ、人をしばりつける。そういう人は、自分だけじゃないんですね」
和解。狩科は深津の言葉にそのメッセージを見た。
だから深津に同意できる。
「本当に、言ってしまえば終わることが、言えずにいつまでも続くこともあるんだなって、分かりました」
狩科は右手の五本の指を揃えて深津の前に置かれたカップを指した。
「飲みませんか? 時間も時間ですし」
深津は左手でカップを手に取った。
「そうします」
深津が飲み物に口をつけたところで狩科も右手でカップを持ってコーヒーを飲んだ。
とっくに冷めていて、なんというか、過去に忘れられた何か、になっていた。
もう味わう必要もない。そう思ってさっさと飲んだ。
一つ、狩科には気にかかることがあった。
「深津さん、一つ聞いてもいいですか? MECを装着しているとき、自分では思い出そうとしていないのに、勝手に記憶が再生されますよね。人間の記憶は、思い出そうとしないと出てこないことの方が多いと思います。MECだと強制的に思い出させられるのはどうしてですか?」
深津は飲んでいたカップを置いた。
「MECを開発する際、ある意思決定がなされました。MECはその人が持っていない記憶を与えるものですが、もともと持っていない記憶なので、本人が能動的に記憶を探そうとすると、MECに収められた記憶の存在に気づかず思い出せません。MECはそこにパラドックスがあります。そこで、MECから働きかけて記憶を使用者の意識に上らせる能力を持たせることにしたんです。人間の意識に侵襲する懸念はありました。でも、その機能を持たなければMECは当初の目的を達成しないと考え、今ある形に実装されました……」
深津にはためらいがあった。狩科は、深津のためらいが、実際に体験した人間だからこそ知る悔恨なのだと分かった。だから臆することなく深津に問える。
「思い出したくない記憶を強制的に思い出させられることが、こんなに苦痛だとは分からなかった。あるいは能力を高めるために無視した、と」
「はい……」
深津の力ない返事に、狩科は同意されたと感じた。
「深津さんと僕は、これからもMECを装着するわけですが、なにを見せられるかは実験スタッフが完全に制御しているのですよね。実験を続ける限り、被験者に選択権はありません」
そして、一番気にかけていることを聞く。
「深津さん、実験の継続を拒否しませんか?」
深津はふるえながら、首を横に振った。
「やめられません…… 最後までやるんです…… 私はMECの将来性をまだあきらめきれません」
深津は顔を上げて狩科と正対する。
「今のMECに不備はあります。でも、MECの将来性をあきらめていません。課題を発見し解決するために実験するんです。狩科さん、協力願えませんか?」
狩科は、目線は逸らさなかったが、心が宙に浮いた。
これから実験を続ければ、なにを見るのか分からない。正直、怖い。
でも目の前の深津が、力なくとも希望を求める人間に見える。
力がない人間が夢を抱くことを笑う人も世の中のかなりを占めるだろう。しかし、狩科は、自分が笑われる側だと自覚している。そして、同じように笑われる人が好きだと、今、自覚した。
「はい。続けます」
これで逃げられないな。狩科はそう思った。
目の前の深津の顔が少しほころんだ気がした。それを見て、大見得を切った価値があったと思った。
狩科と深津がコーヒーショップを出ると、まだ外は明るく、夕暮れの赤みもない、当たり前の夏の昼だった。車道を車が行き交う。歩道を人がいつものように歩いている。通り過ぎる自転車のかごには布バッグの中にスーパーで買ったらしきものを詰め込んだのかゴツゴツと膨らんだ凹凸があるのが見える。特別なことなどなにもない、いつもの日常が目の前にある。
あれ? まだあるのか?
狩科は正直疑問に感じた。まだ時間が残されていることが。
過去のつらい記憶を打ち明けても、まだ人生が残っていることが。
自分たちの古傷を分かち合った後も、MEC臨床試験は続くことが。
まだ終わっていない。これからも続きがある。
その事実に、ゴールを見失ったような気がして、少し放心してしまう。
「まだ日が落ちないんですね」
狩科の呆けていると深津は軽く突っ込む。
「まだ八月です。日は長いです」
「そうですけど……」
その先の言葉を継げない。深津が同様の放心を感じているのか、狩科には分からない。
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