4-6 私たち、解離性健忘にかかったのでしょうか?

 日曜日まで、狩科は気が気でなかった。

 女性とテーマパークに行くなんて初めてだ。モテない男子はつらい。

 それだけでなく、MECで思い出した記憶とは季節が違う。MECの記憶では梅雨入り直前の六月で過ごしやすい日だったが、今は八月のお盆。残暑どころでなく極めて暑い。

 自分たちがMECの中の彼らと違うことを確認するには好条件なのだが、女性に失礼がないようにするには大変な季節だ。

 土曜日に必要な買い物をすませ、日曜日の朝にシャワーを浴びた。

 二人とも、観覧車に乗ったとき夜景が見えたと答えたことは覚えていた。二人が遊ぶのはあくまでもMECの記憶にあった三点のアトラクションのみ。すると時間はかからないから、午後のやや遅い時間に落ち合うことにしていた。

 狩科は荷物が多くなったので背中に小さなリュックを背負っている。予定の二十分前に来てテーマパークの正門で待っていると、深津は予定の五分前に現れた。

 彼女はブラウスとスカートを水色で統一している。夏らしく、そして派手すぎず、落ち着いて見ていられる出で立ちだ。しかし帽子をつけていない。

 狩科が不安に思っていると、深津は日傘を差した。

「では、行きましょうか」

 狩科は両手で深津を制する。

「ちょっと待ってください。人で混んでるテーマパークの中で日傘なんか差したら、人に当たって危ないですよ」

 やっぱり、という気持ちが狩科の心の底にあった。深津もあまり遊んだ子のように見えない。テーマパークに来た経験も少ないのだろう。そのことは想定内だった。

 深津も、他人に迷惑がかかると聞くと素直に自分の不見識を認める。しかし日差しが強いのは女性には大敵だ。

「それは失礼しました。でも、直射日光が厳しいので……」

 狩科は背中のリュックサックからタオルを取り出す。まだ販売時の箱に入っているタオルだ。

「日よけにタオルを持ってきました。頭と首にかけるといいです。深津さんの分はおろしたてですから安心してください。ゴミはこちらに」

「ありがとうございます」

 深津は二枚のタオルを受け取るとゴミになった箱を狩科に手渡し、頭と首にタオルをかけた。

「まるで夏の甲子園みたいですね」

「そうですね。ちょうど今、高校野球をやってますしね」

 たしかにタオルを頭にかけた姿は、高校野球のテレビ中継で観客席のカメラが応援団を撮影したときの、観客の姿に似ている。深津の、首から下のコーディネートが半ば台無し。ごめんなさい。心の中で狩科は謝った。

 アトラクションは順番に、ジェットコースター、銃を使うアトラクション、観覧車。

 まずはジェットコースターに向かう。

 列に並んでいるときから深津は無口だ。

 仕方がない。別に好きでもない男性と一緒にいるのだから。

 つまらないのは狩科にも納得できた。

 順番が回ってきて、席に座って安全レバーを胴体にかけられる。

「深津さん、つまらないですか?」

 深津は狩科の問いかけに答えない。

 ジェットコースターは動き出し、ゆっくりと頂上に向かう。周囲がキャアキャアと騒ぐ中、深津は何も言わない。つまらない男でごめんと狩科が情けなく思っているとき、車体は頂上を越えて、急転落下する。

 狩科は暴力的な加速度に上下左右に振り回される中で、深津の声を聞いた。心の底からの恐怖に満ちた叫び声を……

 コースターが終点について、乗客を支えた安全レバーが外された後、深津はふらつきながら車体を降りる。

「深津さん……怖かったですか?」

 狩科は、答えを聞くのが怖かった。

 深津は強がる。

「あんなもののどこが面白いんですか?」

「苦手だったんですね?」

 深津は素直に力なく首を縦に振って同意した。

 不本意ではあるけれど、深津瑠璃と佐上優希が別人であることを証明する意味ではよかったと、狩科は強引に納得した。

 深津が落ち着くまでしばらく時間をおいて、次の課題である銃を使うアトラクションに向かう。

 ここでも深津は無口だ。

 係員から説明を受け、VRゴーグルをつけて銃を手に取る間も何も言わない。

「深津さん、怖いですか?」

 狩科がおそるおそるたずねる。

「勝負で真剣にならなくてどうするんですか?」

 深津の声は厳しかった。

 そうだった。MECをつけていたときも、自分の成績が低かったことをふがいなく思っていた深津だ。これは、本気だ。

 アトラクションが始まると、深津は無言で銃を撃つ。両手で銃を構え、両脇をしっかり固め、無言のままガシガシ引き金を引く。狩科は鬼気迫る深津に気圧される。

 怪物より隣の美女が怖いアトラクションが終わった。

「どうにかAをとれました。狩科さんはどうでした?」

 うまくいっても満足の笑みは見せない深津に、狩科は力なく答える。

「Cでした……」

「狩科さんはどんくさかったんですね」

 この言葉、どこかで聞いたような、聞かなかったような。

 今は覚えていないけど、深津瑠璃が佐上優希とは別人であるのはたしかな気がする……。

 日が落ちて、周囲のビルの灯りが宝石のようにきらめく頃、観覧車は三十分待ちの行列ができていた。いろいろあった一日も終わりに近づき、狩科は肩の荷が下りるのを感じる。

 そう。楽しかったのではない。気が張っていたのだ。

 二人の順番が回ってきて、ゴンドラに乗り込んだところで扉が閉められる。二人を乗せたゴンドラはゆっくりと上がっていく。

 美しい夜景が見える中、深津はポツリと言った。

「私たち、解離性健忘にかかったのでしょうか?」

「解離性健忘?」

 意外なキーワードに、狩科はオウム返ししかできない。

 記憶が欠落しているという点では深津の指摘の通りだ。しかし一般的な「記憶喪失」と言わず精神医学の正確な用語を選んだ意図がありそうで、しかし深層を読み取れない。狩科には深く追求できない。

 それ以上話す気がないのを見てとった深津は自分の思いを語り始める。

「MECを装着して佐上優希と千波伊里弥の記憶を思い出しているとき、それはたしかに私たちの記憶でした。しかしMECがない今、『あのときは楽しかった』と話をしたことは覚えていても、楽しかったことそのものを思い出せないんです。私たちはMECの中の二人とは違うことを確かめたくてここに来ました。でも、比べようにも、昔のことを思い出せないんです」

 それは狩科も薄々感じていた。自分たちがあの二人と違うことを確かめようとしたのに、二人がどんな人間だったのか、ほんのわずかな手がかりしか覚えていない。

 狩科はどうにか頭を絞って、一つの結論にたどり着く。

「思い出せないのは、他人の記憶だからじゃないでしょうか。他人の記憶を直接見ることなんて、道理から外れているのかもしれません。だから、思い出せなくて当然なんでしょう」

 深津は悲しげだ。

「MECは道理から外れていますか?」

 狩科は自分の失敗にようやく気づいた。MECに希望を持っている深津に、MECを否定する発言をしてはいけなかった。

「必ずしも、そうではない、と思います……」

 あわてて否定するしかなかった。

 気まずい雰囲気が少し流れた後、深津が前を向いた。

「せっかく来たんですから、外を眺めませんか?」

 それから二人で外を見ながら「あれは何?」と会話をした。佐上優希と千波伊里弥がゴンドラの中で何を話したのか、はっきりと思い出せない。だから、その場で勝手にしゃべるしかなかった。

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