4-3 軽く見ていたのはたしかだと思います
ここは四m四方ほどの部屋。
壁の一面は全て本棚で、棚を埋め尽くす本の七割ほどが背表紙に英語タイトルを見せている。現代において、これほど本を集めるのは、知的活動の広さと懐古趣味とが混ざり合っている。反対側の壁には机があり、上にPCのキーボードとモニタが載っている。机の椅子に四十代の男性が座り、扉に近いところに二十そこそこの女性が立っている。
部屋の奥にある窓のブラインドの向こうは暗い。今は夜だ。
「深津君、試験に参加して、今一番に思っていることは何かね?」
九里谷教授は深津にたずねた。
ここは東城大学の九里谷教授の教授室。
深津がスマホに九里谷教授からのメッセージを受けたのは、臨床試験の精神科医の面談が終わって二十分後だった。MEC臨床試験でMECを二回着用して、最初に感じたことを率直に話して欲しい、悪いが予定が立て込んでいるので今日の夜でもいいか、という趣旨だった。深津は疑うことなく応じた。
深津は神妙な面持ちで立っている。狩科に見せた活発な様子とは違う、なにか尊い物を敬うような視線。よく通る声をしている彼女が「静かな」と形容したくなる細い声で答えた。
「自分の経験でない出来事が、まるで自分の過去のように思い出されると、なんというか、その記憶の中に現れた人に特別な感情を抱いてしまう気がして、なんだか、こわいです」
「特別な感情、とは、何かい?」
九里谷教授は好奇心ありげに問い返す。
部屋の扉は閉められていて、今、二人の会話を聞く人は他にいない。
大学で男性教官が女性学生と教授室で会う際に部屋の扉を閉めるのは、許されるのか、許されないのか。教官によっては是非の判断が分かれる。深津はそういうものだと教えられていたので疑問に思わない。
深津は、目の前の九里谷教授に打ち明けてよいのか逡巡した。しかし、指導教官としての信頼の方が上回った。
「MECで挿入された記憶は、仲のよい男女の日常ですよね? あれは九里谷教授が意図して選んだプログラムですか? 記憶の中の二人はその……とても仲がよい、というか、それ以上に思われて…… それを自分の記憶として思い出すと、記憶の中の男性と同じ姿の男性を、まるで自分の恋……以前から知ってる人のように思えてきて……。不思議なんです。実際にはその男性のことを何も知らないのに、かなり深い親近感を覚えてしまって…… なんだか変な気分なんです」
九里谷教授はうなずいた。
「変な気分、か。君は、記憶が感情に与える影響を考えていなかったのかい?」
つまり、臨床試験に臨むにあたって心構えができていなかったということ。深津は自分の至らなさを指摘されたのだと解した。
「軽く見ていたのはたしかだと思います。事実として現れたのですから。これからも試験を続けます」
九里谷教授は再びうなずいた。
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