5-3 ワインはただのアルコール水溶液だった
その日の午後の最終である四コマ目講義を受けているとき、いつもメールを受けたときのようにスマホは震えていた。講義が終わって廊下を歩きながら歩きスマホで通知を見ると、メッセージアプリからの通知に「深津瑠璃」とあった。
狩科の心臓が跳ねた。
狩科は立ち止まり、思わず周囲の人が見ていないかを確認してしまう。誰も見ていなさそうだと確信して通知をタップした。
こちらでは初めまして
急な話なのですが、
九里谷教授が狩科さんと話をしたいとおっしゃっています。
教授はお忙しいので
今日の二十一時以降しか空いていません
それで、変な話ですが
お酒はまったく飲めない人ですか?
最後の一文が気になって、深津に問い返すメッセージを送る。廊下で立ち止まって待っていると四分後に返事が来た。
九里谷教授が狩科に会いたいのは本当らしい。今日の二十一時以降しか空いていないのも。
ただ、これは非公式な会であり、かつ、実にくだけた会であり。
少し酒が入ったところで本音を聞きたいという。
なぜ自分が呼び出されたのか、狩科には今ひとつ分からない。不穏、という言葉が当てはまるのかもしれない。
狩科は自分の予定を確認した。予定があれば逃げる口実ができると思った。
しかし、暇な学生である狩科に、何の予定もなかった。
今から来海と遊ぶ約束、それこそ飲みの約束を入れるか?
そう思って逡巡して、深津に悪いような気がしたから、実行に移さなかった。
行かせていただきます。
そう返答して、狩科の精神は警戒モードに入った。
二十一時十五分に工学部キャンパスの最寄り駅の前で待ち合わせると、まだ暑い季節だ、ネクタイをしていないワイシャツとスラックスだけの九里谷教授と、こちらは身なりを整えた薄い緑のワンピースを着た深津が揃って現れた。
九里谷教授は気楽ながらも堂々と真正面に狩科を見据えており、左隣の深津は伏し目がちで狩科に目を合わせない。
女性が男性に全てを任せきっている姿。
狩科はそう理解した。その相手が自分でないことに、嫉妬も覚えたが、格の違いを感じて情けなくなったのが本心だった。
深津が狩科を見たのは、彼を九里谷教授に紹介するためだった。
「狩科さん、遅くなりましたね。教授、彼が狩科さんです」
九里谷教授は挨拶も握手もせず、ただ笑顔を作った。
「被験者の資料で見たよ。なかなかどうして。写真より男前じゃないか」
「どういたしまして……」
狩科は無難にやり過ごすことしかできなかった。
MEC臨床試験の応募資料の顔写真はスマホで自撮りしたもの。あまりに写りが悪く、被験者選考に落ちるのではないかと思ったほどだ。それよりまともだと言われたのは素直に受け取る。
言葉の終わりを是と取った九里谷教授は踵を返す。
「まあ、早く落ち着けるところに行こう。ついてきなさい」
歩き始める九里谷教授の後ろを遅れることなくついていく深津。近すぎず遠すぎず、ちょうどいいところに付随していく。敬意があるからだろうか? それとも慣れているのだろうか? 狩科はそんな二人を少し後ろで見つめながらついていくことにした。
工学部キャンパスの最寄り駅前は、大通りは学生相手の居酒屋チェーン店が並ぶが、奥に入るとそこそこ格がある店が点在している。狩科には縁がないと思われた、まさにその路地を九里谷教授は進んでいく。
しばらく言ったところで、暖色LEDに照らされた木の扉が見えた。窓から見える内壁も色の濃い木で調度されている。
「悪いが、ここにさせてもらうよ」
九里谷教授は後ろの二人を見ずに謝り、木の扉を開ける。大きな呼び声は聞こえてこない。店員は静かに「いらっしゃいませ」と三人を迎えた。
狩科から見て店主であろう人物に九里谷教授が声をかける。
「三人なのだけれど、奥のテーブルでいいかな?」
「どうぞ」
店主であろう人物は短く答える。九里谷教授は奥の四人席に歩いて行き、深津は黙ってついていく。狩科は従うことにした。
壁際の四人席で、奥の壁際に九里谷教授が座り、隣に深津が座る。すると狩科は向かいに座ることになる。深津の向かいに座るのは、なにやらいやらしい。気後れするが、九里谷教授の向かいに座った。
何も言わなくても店員がやってきてメニューを見せる。九里谷教授は慣れた手つきでメニューを手に取る。
「ワインのボトルを一本と、コースではなくオードブルを少々つまもう。その分はサービスだ。けれど、それ以上飲む場合は自分で払ってもらうからね」
そして狩科が知らない名前のワインとオードブルを頼むと、メニューを狩科に回した。狩科は「すみません」と一言だけ答えた。
メニューを見て狩科は肝を冷やした。ワインの注文のほとんどがボトル単位だ。グラスワインというのだっけ? 一杯ずつ頼めるワインも結構な価格。
これは最初の一杯をちびちび飲むことにしよう。
狩科は酒を楽しむことをあきらめた。
しかし九里谷教授は気楽に言う。
「少々お酒が入らないと口が回らないだろう。話は少し飲んでからにしようか」
店員が静かにワインとオードブルを机に運ぶ。九里谷教授は出されたワインとオードブルの各品々について柔らかく教え、深津はありがたそうに聞いている。
狩科はオードブルの味が分からなかった。
上品な味付けなのは分かる。上品なものは薄味になるのは分かる。
しかしだ。昼の惣菜パンは塩味がしたが、今おそるおそるつまむオードブルは何の味も感じない。
ワインをグラスの半分だけ口をつけたところで飲むのを我慢してじっと待って、店に入ってから三十分近く経ったところで九里谷教授がようやく本題を切り出した。思いもしない形で。
「狩科君、御来間から聞いたよ。どうしても臨床試験の被験者になりたくて、賄賂代わりに御来間に焼き肉をごちそうしたんだって。大手チェーン系列で大した店じゃなかったって御来間がぼやいてたよ」
「そんなことしたんですか?」
「聞いたんですか?」
二人同時に驚きの声を上げたが、深津の方が早かった。この時初めて深津が狩科を直視した。狩科は、深津の方に答えるべきだと思った。
「はい。なんとかして枠に入りたくて、御来間さんに僕を枠に入れてもらうようにお願いしたんです」
深津があきれ顔をする。
「狩科さん、妙なところで手を回すんですね。大した志望動機でもないのに。そんなに自分が嫌だったんですか?」
九里谷教授がニヤリと笑った。そんな気がした。別に表情に変化はないのに。
「自分が嫌だって? それがMEC臨床試験とどういう関係があるのかい?」
九里谷教授は深津の方を向いていた。だから深津が答える。
「狩科さんに以前に動機を聞いたんですけど、MECを使えば他人の人格になれるからMECを使いたかったって言うんです」
ここで九里谷教授は狩科を見た。
「他人の人格になりたいって、妙なことを言うね。記憶が増えても自分は自分じゃないのかい? どうしてそう思ったんだね?」
狩科には、九里谷教授が微笑みを浮かべている、その目が怖かった。笑っているのだ。笑っているのだ。けれども、怖いのだ。
そのとき狩科の脳裏に、MEC臨床試験で千波伊里弥として質問に答えているときの自分が思い浮かんだ。
MECで再生された記憶は今は思い出せないけど、記憶の中の千波伊里弥は実に堂々としている、そんな気がする。
千波さん、あなたにならせてもらいます。
狩科恭伽は千波伊里弥の力を借りて、それでも本人にはなりきれなかったけれど、どうにか情けないながらも返事する。
「MECはたしかに記憶に関わる技術ですが、精神に関わる技術として、自分を変えるというか、他人になれるんじゃないかと感じたんです。深津さんにも話したのですが、他の人ならたぶん今の自分よりまともだろうと言いました。他の人になる。それが僕の夢だったんです」
「ひどい話ですよね。今ここで会っている私たちは、そんなひどい人の相手をしているんだって、自分で言ってるんですから」
深津は、酒が入っていて、遠慮無くあきれてみせる。
九里谷教授は深津の言葉にうなずいたあと、狩科に問うた。
「他人になりたいって、MECに自分の人格を委ねる気かい?」
狩科は少し酔った頭で、気楽に答えた。
「それでも自分よりはまともかな。そう思えるんです」
九里谷教授が微笑んだ。
その目が、狩科の脳裏に、まさに記憶として刻まれた。
「大人として忠告するけど、その姿勢ではMECに人格を乗っ取られるよ。それはよくないね」
「は、はぁ」
狩科は気の抜けた返事をした、ように見せかけた。それが精一杯だった。
「まあ、いろいろ話はあるだろう。狩科君、グラスのワインの残りを飲まないかね。ボトルにグラス半分ほど残っている。君がグラスのワインを飲み干したら、ボトルの残りは君にあげよう」
酒を飲むことを勧められて、狩科は戸惑いながらもワインを一気にあおった。九里谷教授が空のグラスにワインを注いでくれた。
それから三人で他愛ない話をした。
楽しい会。外から見るとそうだろう。
しかし狩科には、オードブルは一切味がせず、ワインはただのアルコール水溶液だった。
そして九里谷教授の微笑みの中にある二つの目が記憶から離れなくなった。
言葉として変な例えなのだけれど、黒い光をその目の中に見た気がした。
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