第11話 恋とバスケと異世界と 2
教室を出るとふたりは無言で歩いた。
改まって話したいこととはいったいなんだろう。翔太はあれやこれやと思案を巡らせたが、これといって思い当たることはなかった。
階段を下り、渡り廊下に出る。
自動販売機のまえで立ち止まると、春人はポケットから財布を取り出した。
「なんか飲む?」
翔太が迷いなくコーヒー牛乳を選ぶと、春人はくすっと吹き出した。
「翔太って、むかしからそればっかり飲んでるよな」
「なんや、文句でもあんのか?」
横目でにらむと、春人はあわてて言った。
「ごめん、べつにないよ。ただ、変わってないなと思っただけ」
「はあ⁉ どういう意味やねんそれ。ガキって言いたいんか⁉」
春人は肯定も否定もせず、ただ笑ってごまかすだけだった。
体育館のまえまでくると、春人は当たり前のようにカギを取り出し、扉を開けた。
「おまえ、それどうしてん?」
「バスケ部の顧問に練習したいからって言って、最近ちょくちょく借りてんねん」
「うわ、まじで? ホンマもんのバスケ馬鹿やな……」
そのとき翔太は、なんやかんやと理由をつけてまた練習の相手をさせられるのかと考えた。正直を言うと、まんざらでもなかったのだが、その予想はすぐに裏切られた。
いったんはボールを手にしたものの、春人はすぐに壁にもたれて座りこんだ。本当になにか言いたいことがあるらしい。
翔太と春人はならんで座った。ふたりを隔てる微妙な距離はそのまま心の距離だった。
「めっちゃ上手い一年入ってきてさ」春人がおずおずと語りはじめたのは、やはりバスケの話だった。「
「そうなんや。まあよかったやん」
ちゅうちゅうストローを吸いながら、翔太は答えた。
とりあえず当たり障りのない返事をしただけで、感情はこもっていない。そのことを察したのだろう、「うん」と言った春人の声は弱々しかった。
「それで、おまえのスリーポイントは? ちょっとは成功率上がったんか?」
翔太が話題を引き継いだのは話に興味を持ったわけではなく、多少の罪悪感を抱いたからだ。
「うん、だいぶ入るようになってきたで。このまえなんか、キャプテンにも褒められたし。今年中に
「へえ、凄いやん」
「でさあ、ここに翔太のPGが入ったら相当強いチームになると思うねん。もしかしたら来年にはインハイの県予選で決勝リーグに出られるかも……」
やはりそうきたか、と翔太は深いため息を吐いた。そして、しばらくの沈黙のあと、腹の底から絞り出すように言った。
「おまえあのときの試合、忘れたわけじゃないよな?」
「それは……」
「おれを当てにしてるようじゃ、所詮そのレベルってことやろ。しかも今年からあいつも高校や。どこの高校行ったんか知らんけど―――」
「北大和高校」
と、春人は翔太の言葉を遮って言った。
思わず顔を上げ、春人の顏を見つめ返す。
「調べたんか?」
「うん。中学のときの友達とか後輩に聞きまくって探した。市原駿―――あのときのPGはいま北大和高校のバスケ部にいてる」
「……じゃあ、決勝リーグの前に北大和と当たらんように祈るしかないな。まあ、おれにはなんの関係もないけど……」
「それ、本心で言ってる? ほんまは悔しいと思ってんのに、恐がって逃げてるだけじゃない? だって翔太、子供のころからめっちゃ負けず嫌いやったやん、それやのになんで―――」
「おれはもう、むかしとはちがうねん。悔しくないわけじゃないけど、おれはもうあんな思いしたくないねん。あんな思いするくらいやったら、逃げたほうがましや。おまえにはわからんかも知れんけどな……」
「おれにはわからんって……」
めずらしく棘のある声だった。
失言に気づいた翔太が取り繕おうとしたとき、春人がおもむろに「わあッ」と、雄叫びを上げた。かと思うと、苛立った様子で自らのサラサラヘアーをぐしゃぐしゃに掻きむしり、勢いよく立ちあがった。
すたすたと数歩すすんで足を止めたとたん、振り返りざま、思いっきり翔太にむかってボールを投げつけた。しかも片手で!
上方からの不意打ちに翔太はたまげたが、しかし目を逸らすことはなかった。
頭をかばおうとして出した両手がつぎの瞬間にはボールをキャッチしていた。ふたりは口論していたことも忘れて顏を見合わせていた。
「すごいな……」口走ったあと、春人はハッとわれに返り、頬をふくらませてこう言い直した。「なんでそこでキャッチすんねん、ほんまハラタツ反射神経やな!」
「おまえなあ、ちょっとは感謝せえよ。キャッチしてなかったらヤバかったでいまの……」
「翔太の目ェ、覚まさせるにはあれくらいでちょうどいいねん!」さらに、「もう! ほんまに宝の持ち腐れやねんから!」、「その運動神経おれも欲しいわ!」
春人は言い募った。が、それはほんの序章にすぎなかった。堰を切ったかのように、長年の鬱積が怒涛のごとくあふれはじめた。
曰く、「男に言わせたらおれは見た目で得してんねんて。でもそのつぎの瞬間にはその見た目でこの運動神経はないわとか言い出すねん。あれ、ほんまはらたつ! 顏と運動神経なんの関係があるっちゅうねん! そうやろ、翔太⁉ まあ、そんなん言われるおれの気持ちなんか、翔太には一生わからんやろうなけどな!」
曰く、「女子は女子で勝手なことばっかり言うしな。たとえば、ほんのちょっと愛想悪くしただけで藤崎らしくないとか、あれ、ほんま何なん⁉ イケメンは三百六十五日元気で愛想ふりまいとかなあかんの⁉ おれだって疲れてるときもあんねん! それもこれも全部この顔のせいやん! そもそもちょっとくらい顏いいからって、モデルになれるわけじゃないし、得することなんか全然ないわ! ほんま翔太が羨ましい、いっつも自由気ままって感じでさあ!」
曰く、「先生も先生やし、親も親や。ふだんはおれのこと応援してるみたいな顔しといて、いざとなったら部活より勉強に力そそいだほうがいいみたいなことさらっと言うし、おれ勉強はちゃんとやってるやん! ひとの気も知らんで勝手なことばっかり言いやがって! なあ、そうやろ、翔太⁉」
春人はおよそ五分ものあいだ思うままにわめき散らし、そして最後にもう一度、「そうやろ、翔太⁉」と言って締めくくった。思いの丈をぶちまけ切った春人の顔は、一試合を終えた直後のように上気し、ひと筋の汗がこめかみを流れていた。
翔太はそんな春人をあっけにとられた思いで眺めた。小五からのつき合いで初めて見る友人の一面である。
「気ィ済んだか?」
息を切らしながらうろうろと落ち着きのない春人に、翔太は言った。
「まあ、ちょっとは……」
「じゃあ、とりあえず座れよ」
となりの空間を手で示すと、春人は素直にうなずいたが、座るなり、その口から大きなため息が漏れた。
ミント味の某清涼菓子のように、いつでもさわやかな春人の口からそんな濁った空気が出るものかと、翔太は変な関心をしてしまった。
「さっき、ごめん。怪我してない……よな?」
春人はうって変わってしおらし気に言った。抱えた膝のあいだに顏をうずめているのは、突如として込みあげてきた羞恥心のせいだろう。
「めっちゃ手のひら痛いけど」
「……ごめん」
「まあ、相手がおれでよかったな」励ますように言った。なぜ被害者である自分が気を使わねばならないのか、とはさすがに言わない。翔太は仕切り直し、話をもとに戻した。「それにしても、なんでそんなにおれにバスケやらせたいわけ? いつも楽しそうにやってるやん、新チームもいい感じなんやろ? それで十分ちゃうんか。なにが不満やねん」
「……でも、小学校のときから一緒にやってきたし、翔太がおったらもっと楽しいと思う……」
声が籠って聞こえるのは、ひざのあいだに顔をうずめたまましゃべっているからだ。
「そうか? いまでも十分楽しそうに見えたけど?」
「え? 見えたって?」
「あ、いや、べつに……」
あの日春人の家に行ったことはもちろん内緒だ。
曖昧に誤魔化す翔太の顔をしばしのぞき込んでいた春人だったが、やがて正面に顔を戻した。
体育館にわだかまる空気は蒸し暑く、窓から差し入る光はもう初夏の色だった。
ほのかに漂うカビた匂いも、舞い上がってきらめく塵も、それらを感じて鼻がむずむずしてくるところも、中学の体育館とまったくおなじだ。
つかの間の沈黙を破ったのは春人だった。
「じゃあもう練習も来たくない?」答えに詰まる翔太にかわって、春人はつづけた。「何回か来てくれたときは楽しそうにしてたから、また来てくれるかと思ってたけど……」
「…………」
「もしかして成瀬となんかあった?」
「あいつなんか言ってた?」
「なにも。でも、あんだけ一緒にいたらなんとなくはわかる。気マズいから来えへんのかも、とか言ってたし……」それから春人は、口を開いては閉じを数回繰り返したあと、意を決したように言った。「なあ、成瀬のことどう思ってんの?」
「べつに。ただの友達や」
翔太は即答した。いつかくるかもと、備えていた答えだった。
「ほんまにそれだけ?」
「心配すんなや、ほんまにそれだけやって」
「そっか……」
横目でチラリと盗み見た春人の顔は、どこからどう見ても安堵の表情だった。
やはり、あのときの勘はまちがいではなかったらしい。翔太は納得し、話をすすめた。
「だいたいな、この話に成瀬は関係ないねん。ほかにやりたいことあるからバスケやってる暇ないだけや」
「やりたいことって、もしかして小説のこと?」
一瞬、翔太は固まった。が、すぐに声を荒らげ、こう詰め寄った。
「なんでおまえが知ってんねん? だれに聞いてん⁉」
「え、おれは偶然知っただけやって……」春人があわてて反論する。「翔太が長谷川君たちとファミレスで喋ってるとき、たまたまうしろの席にいて、声聞こえてきたことあったから……」
翔太は脱力した。がっくりと肩を落とし、頭をかかえる。
「べつに隠すことないやん。いいやん、小説書けるのなんか凄いことやん」
春人は励ますように言ったが、翔太の機嫌は直らなかった。
「おまえになにがわかんねん」
「ぜんぜんわからんけど」
「じゃあ黙っとけ!」
「おれに当たらんといてえや、自分が悪いんやん!」
はあ、とふたりは同時に大きなため息を漏らした。そして、そのあとは予鈴が鳴るまで無言のときを過ごした。
春人がつぎに口を開いたのは、教室の前だった。
「こんどのゴールデンウィーク、ここで樫原高校と練習試合あんねんけど、観にけえへん?」
「はあ? たかが練習試合をなんでわざわざ観にこなあかんねん」
「じゃあ、公式試合やったら来てくれんの?」
「そういう意味じゃなくて!」
翔太は声をあららげたが、春人は引き下がらなかった。
「最後やから」と、捨てられたゴールデンレトリバーのような(そんな血統書付きの犬種がもしも捨てられていたとしたらだが)つぶらな瞳で翔太を見下ろしていた。「これで最後やから。ほかにやりたいことできたんやったら、もう練習にも誘わへんし。な、いいやろ?」
「……じゃあ今回だけな。それでもうおれのことはあきらめろよ」
「うん」
春人は満足げな笑みを浮かべたが、翔太にはその思惑がわからなかった。
試合を観れば心変わりするとでも思っているのだろうか。あり得ない。そんな簡単なことなら、とっくに戻っている。
自分の教室へと戻っていく春人の、ひょろっと背の高いうしろすがたを見送りながら、翔太はそんなことを考えていた。
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