第7話 幼馴染の法則 3
一年二組の教室の、窓際まえかから三番目の席に、ピリピリとした空気をまとった翔太がいた。小刻みに足を揺らし、指先で机をトントンと叩きつづけている。
長谷川と中島が連れだって教室に入ってきたのはそんな状態がおよそ十分もつづいたあとだった。
ふたりを見るなり、翔太は勢いよく立ちあがった。
「おまえら遅いな!」
「いや、おれらいつもの電車やけど……」
困惑顏を浮かべたふたりだったが、ハッとしたように顔を見合わせると、すぐに翔太に駆けよった。
「もしかしてエアルについてなんかわかったんか?」
エアルの正体が知り合いかもしれないと疑いはじめたのは先週の火曜日。翔太が行動を開始したのはその直後だった。
長谷川たちの協力を得て、中島、イヨをふくむ四人でグループチャットをつくると、バンビーノの話題を持ちだした。
《チケットが二枚手に入ってんけど、だれか行けへん?》。
そのメッセージに《行きたい》と答えたのはイヨひとりだった。
長谷川と中島が空気を読んだのか、あるいはほんとうに行きたくなかっただけなのかは微妙なところだが、とにかく作戦は成功だった。
そして日曜日、翔太の『イヨとお近づきになってエアルの正体を突き止めよう作戦』は決行された。
舞台となったジェイ・ティ―アリーナは桜井市のおとなり橿原市にある。がんばれば自転車でも行ける距離だが、昨日はなんとなく電車を乗り継いで行った。
家を出てから三十分ほどでたどり着くと、いつもは閑散とした体育館が賑わっていた。
おさげ女―――もとい、浅野イヨは選手たちの顔写真がプリントされたのぼりの下に立っていた。翔太のすがたを見つけるなり、その顔に満面の笑みを浮かべた。
「わたしバスケットボールなんか見るのはじめて、楽しみ~。でもほんとうにチケット代タダでいいの?」
どこまでが事実でどこからが演技なのか? このことをエアルは知っているのだろうか? 知っているとすれば、どういうつもりでイヨを送りだしたのか? そもそもエアルはなんで自分を特定できたのだろう?
知りたいことは山ほどあるが、ひとまずそれらを頭から追い出し、翔太は答えた。
「まあ、どうせ貰いもんやし。ほかに誘うヤツおらんかったし……」
ぎこちない挨拶を済ませてから、ふたりは屋内へ入った。
それが昨日の話である。
長谷川と中島が椅子に腰かけるのを待って、翔太は切りだした。
「もしかしてエアルってな―――」
「エアルって……?」
ゴクリ、と生唾を呑みこむ音がいまにも聞こえてきそうな、神妙な顔でふたりがうなずく。
「成瀬かもしれへん」
翔太が言ったとき、長谷川の顔は驚きで輝き、かたや中島は眉根をひそめた。彼らが浮かべた表情は両極端と言っていいだろう。
「まじか⁉ 成瀬って、おまえとオナ中でバスケ部の、あの成瀬のことやんな!」
身を乗り出す長谷川を「まあ、待て」とたしなめ、中島が言葉をついだ。
「成瀬が名乗ったわけじゃないんやろ?」
「まあ、ちがうけど……」
こんどは翔太がゴクリと喉を鳴らす番だった。中島に見つめられると心が揺らぎそうになるのは例の講評のせいだ。この男を納得させるだけの根拠を示せるかどうか、その点が常に頭の片隅を支配している。
「じゃあなんでそう思ったん? 会場で成瀬に出会ったとはSNSで見たけど―――あの《バスケ馬鹿ふたりに出会った》って藤崎と成瀬のことやろ? そこでなんかあったってことか?」
「そうやねん、じつはな……」翔太は言葉を選びつつ、慎重に話を再開した。「会場でいきなり春人に名前呼ばれてな―――」
それはバンビーノカラー一色に染まった客席に腰を下ろして間もなくのことだった。
「翔太来てたんや、珍しいな」
声に顔を向けると、いっしょに成瀬もいた。
この日の練習は午前中だけで、部活が終わりしだい電車に飛び乗ったのだとふたりは言った。道理でジャージすがたなわけだ。
ともあれ春人の視線がイヨに向いた瞬間、翔太は焦った。こんなところで知り合いに見られる可能性はない、とたかをくくっていたのだ。
しかしここでイヨが動じなかったのはせめてもの救いだった。
「こんにちは、三組に転校してきた浅野です。たまたま連れてきてもらいました」
「あ、おれは六組の藤崎春人……」
春人は手短に自己紹介を済ませ、背後を見やった。
うしろから顔を出した成瀬が、「どうも、一組の成瀬です」と、そっけなく答える。
気まずい空気がそこはかとなく流れはじめたときだった。
「もしよかったら、一緒に観る?」
困ったような笑みを浮かべつつ、春人がそう言った。
イヨにいろいろと聞き出したいことがある身としては不本意な展開だったが、断わる理由が思い浮かばない以上、提案を受け入れるしかなかった。
しぶしぶながらふたりと合流することになり、四人はならんで座った。右から春人、成瀬、ひとつとばして翔太、イヨの順である。
他愛のない会話がひと段落つくと、ちょうど選手入場曲が流れはじめた。開演のアナウンスとブザーの音が緊張感を生み出す。
午後二時。試合はティップ・オフのホイッスルとともにはじまった。
試合は序盤からロースコアゲームが予想される展開で、第一クォーター終了の時点で十五対十八。第二クォーターに入っても互いに点の入らない時間がつづいた。
やるのも観るのも点の取り合いが好きな翔太にとっては、いささか物足りないゲームになりそうな雰囲気だった。
「なんとなくチームがかみ合ってないっていうかんじやったな。新しく入った外国人選手がさあ―――」
「いや、試合経過とかいらんから」
試合評がはじまると、長谷川がさえぎった。
「それでなんで成瀬がエアルって話になんの?」
「あ、そうそう、ほんでな」中島に促され、話を戻す。「べつにそこではなにもなかってん、ふつうにバスケ観て、帰ってきてんけどな―――」
問題が起こったのは桜井駅にたどり着いてからだった。
一行がホームに降り立ったときにはすでにあたりは真っ暗で、親と連絡がつかない成瀬を、翔太が家まで送っていくことになった。
ここで、「浅野さんは、藤崎が送っていったん?」と、長谷川が口をはさみ、またもや話が脱線した。
「いや、あいつん家は三輪らしいから」
「へえ、浅野さんって三輪なんや。電車通学? それとも自転車とか?」
「いや、そういえば聞かへんかったな……」
翔太と長谷川が考え込むと、ふたたび中島が話を戻した。
「成瀬を送っていって、そのあとなにがあったん?」
翔太はひとつ頷いてから、それでな、とつづけた。
交差点で立ちどまったときだった。翔太がなにげなくとなりに目をやると、成瀬はにらみつけるような視線をこちらに向けていて、目が合いそうになった瞬間、ぷいと顔をそむけたのだ。成瀬は明らかになにかに怒っているらしかった。
「おまえがなんか怒らせるようなことしたんやろ」
楽しくてしょうがない、と言わんばかりに長谷川がちゃかした。
「どうやろ……」翔太はしばし考えた。思い当たる節はないが、ひとつだけ気になることが浮かんだ。「おれ、昨日ちょっとむかしのこと思い出しててさあ……」
「むかしのことって?」
「あのジェイ・ティーアリーナってな、中学の総体の会場やった場所でな……」
「総体って、おまえがバスケやめるきっかけになった試合のこと?」
副キャプテンとして出場した中三の夏の総体。敗退した三回戦の試合が原因で翔太は六年つづけたバスケをやめたのだ。
出会った当初、部活の話題が出たときになにげなく漏らしたことだが、それ以上のことは話していない。
「ああ、まあ……」
といったかんじで翔太が言葉を濁すと、長谷川が言葉を継いだ。
「詳しいことはわからんけど、昨日おまえが機嫌悪かったってことだけはわかった」
「まあ、そうかも……」
「やっぱりな」腕組みした長谷川が大きく首肯する。「じゃあ、それは十中八九おまえが悪い、でまちがいないやろ。感じ悪い態度とってたんちゃう」
「たしかに。秋山って機嫌悪いのわかりやすいし。このまえも―――ほら、朝から体調悪いって言ってた日も、ずっとめっちゃ愛想悪かったしな」
中島が補足説明を終えると、ふたりは顔を見合わせてうなずき合った。
「あ、えっと、それは……ごめん」
「まえも言ったけど、ああいうのちょっと気をつけたほうがいいで」
長谷川がそう言って締めると、中島が「ほんで?」とつづきを促す。長年の付き合いだけあってふたりのコンビネーションはさすがだと言わざるを得ない。
少々のダメージを精神に受けた翔太だったが、気をとり直して話しはじめた。
「言い訳するつもりじゃないねんけど」と、前置きした。「でもそういう感じでもなかった気すんねんな……」
「というと?」
「なに怒ってんねんっておれが聞いたら、あいつ、鈍感やなって言うてん」
「鈍感? どういう意味?」
むろん、長谷川とおなじ疑問を翔太も抱いた。「ほんっま鈍感やな!」と言って横断歩道を早足で渡りはじめる成瀬を追いつつ、「どういう意味やねん⁉」と尋ねたのだ。
成瀬は翔太の言葉にふり向きもしなかったが、渡った先の信号の下で突然立ち止まった。
ぶつかりそうになる体をすんでで躱し、文句のひとつも言ってやろうと思ったとき、成瀬が口を開いた。
「もういい。こっからひとりで帰れるし。送ってくれてありがとう」
「うわ、なんやそれ。それが人に礼言う態度か、まじで可愛ないな」
翔太は言ってすぐにハッとした。顔を上げた成瀬の表情に驚いたのだ。こっちをにらみつけているのには変わりないが、その目には涙が溢れそうになっていた。
「うっさいわ、ボケ! 自分こそ、中学のときはもうちょっとかっこよかったのに!」
ひと目を憚らない大声でそれだけ言うと、成瀬は走りさったのだった。
「で、そのまま別れたん?」
話が終わったとみた長谷川が尋ねた。
「まあ、あいつん家もうすぐそこやったし、追いかけるまでもないかなって……」
「でも泣いてる女子をそのまま放置って、おまえ意外と鬼畜やな」
「いや、べつに泣きそうやっただけで泣いてはないし、だいたいいまの話のどこに泣く要素があんねん、おれのせいちゃうやろ」
「で、おれらになにを聞きたいわけ?」
長谷川は急に鼻白んだ様子で言った。さっきまであれほどノリノリだったくせにともどかしくなりながら、翔太は応えた。
「昨日あそこで出会ったのもただの偶然にしては出来すぎやと思わへん? 成瀬がエアルで、浅野に話聞いたって考えたほうが自然やろ。あいつはエアルの条件にも合っているし、しかもあの台詞や」
「あの台詞って?」
「だから!」両手で机をバンッと叩いて身を乗りだす。「鈍感やなって、つまりあいつがエアルってことに気づかんことに怒ってたってことちゃうんか⁉」
「いや、その鈍感はそういう意味じゃないんじゃ……」
「じゃあほかにどんな意味があるって言うねん!」
「いや、それはわからんけど……」
口ごもる長谷川から中島に目を転じ、尋ねる。
「なあおまえはどう思う?」
中島は少し考える素振りを見せてから、慎重に口を開いた。
「中学時代の女子バスケ部員っていう線で考えるんやったら、ほかにも候補おるんちゃうん?」
考えたこともなかったが、言われてみれば中学時代、仲のよかった女バス部員はほかにもいた。卒業後、翔太が意図的に距離を置いたということもあり、いまだに連絡を取り合っているのは、おなじ高校にきた春人と成瀬ぐらいになってしまった。だが、改めて考えてみると心当たりがないこともない。
「バンビーノファンの元バスケ部の知り合いなんて成瀬だけじゃないやろ」中島が言い添える。「いまんとこ第一候補くらいに思っといたほうがいいんちゃう?」
「やっぱそうかな……」翔太は脱力したようにすとんと椅子に腰を落とした。「でも、それやったら、あの鈍感ってどういう意味なんやろ……?」
「いつから機嫌悪なったか思い出してみろ」
中島のアドバイスに従い、翔太はしばし記憶を探った。
「そう言えば、試合後半にはすでにちょっとおかしかったような……」
抜きつ抜かれつを繰り返していた試合の流れが変わったのは最終クォーターだった。
フリースローを得たのをきっかけに流れをつかんだバンビーノは、相次いでスリーポイント・シュートを決め、スコアを六○対五一とした。
試合は残り三分。このまま九点差を死守し、逃げ切れるかと思った矢先、仙台の猛追がはじまった。
わずか二分のあいだに八点もの得点を仙台に許し、残り時間一分で、ついに相手
その後、必死で逆転を狙うも時間は無情に過ぎていき、「あらら、なんかヤバそうだね」などと、イヨが呑気な感想を述べたときには、のこり一・七秒を残すのみだった。
あきらめムードが客席にただようなか、奈良が最後のタイムアウトをとった。
「いくらなんでも一秒じゃ逆転は無理だよね?」
「まあ、ふつうは……」
イヨの質問に翔太が答えかけたとき、成瀬が口を開いた。
「でも、残り一秒からブザービーター決まることもあるやん」
またもや翔太が話を中断したのは、長谷川が「あッ」と声を漏らしたからだった。
「おれそれ知ってる」と、得意げに言った。「ブザービーターって、のこり時間がゼロでも得点になるっていうアレやろ?」
長谷川の言うとおり、ブザービーターとはシュートされたボールが空中にあるあいだにクォーター終了のブザーが鳴ったとしても、そのシュートが入れば得点として認められるというルールである。
点差が三点以内の試合の場合、終了間際にボールを持った選手がとにかくシュートを打つ(到底シュートが届く場所でなかったとしても)のは、それによって結果が左右される可能性があるからだ。言うまでもなく、ブザービーターが決まったときの盛り上がりはひとしおで、バスケットボールにおいて印象的なシーンのひとつでもあった。
「そう、それ。おまえが知ってるとは驚きやわ」
「やろ、そんなタイトルの漫画読んだことあるからな」
「それで結局試合はどうなったん?」
尋ねたのは中島だった。話を聞いているうちに多少は試合に興味を持ったのか、それともこの話題が終わらなければ話が進まないとあきらめただけなのかはわからなかった。
「勝ったよ」
と、翔太は答えた。
「え、まじ⁉ まさかほんまにブザービーター……?」
「そう、びっくりやろ」
タイムアウトが終わると、奈良ボールからゲームは再開した。
残り一・七秒、スコアは六○対五一、スローインは7番のPG。
ボールが
ボールを受けたそのSGがレイアップを決めたとき、カウンター表示は○だった。まさしくブザービーターが決まった瞬間である。
会場を揺るがす歓声。ベンチを含む一階客は総立ちだった。
成瀬と春人も立ち上がって嬌声をあげていたが、翔太はそんな彼らを後目にうわの空だった。
頭を支配していたのは、自らブザービーターを成し遂げた中学総体での二回戦。そして、バスケをやめるきっかけとなった同三回戦だ。
MVPの発表や選手インタビューのあいだじゅう、翔太の心は過去に奪われたままだった。
「だからな―――」翔太は眉間にしわを寄せながら言った。「たしかに態度悪かったって言われたらそうかもしれんけど、わからんのは鈍感の意味やねん……」
「そう?」と言ったのは中島だった。「おれいまの話でなんとなくわかったけど……」
「え、まじ……?」
「つまり成瀬はおまえがいつまでも過去の試合にこだわってることにイラついてんねやろ」中島はため息を吐きだし、さらにこう言った。「でもな、この話で重要なんってそこじゃなくない?」
「え?」翔太の視線が揺れる。「どういう意味?」
「おまえ、それまじで言ってる? それとも気づかんふりしてるだけ?」
「気づかんふり……?」
翔太はしばし見つめ返したが、中島がそれ以上口を開くことはなかった。
仕方なく顔を向けると、長谷川が切り出した。
「だからな、秋山……」この男にしては珍しく歯切れの悪い口調だった。「成瀬はおまえのことが……」
「やめとけって、こいつまじでエアルのことしか見えてないみたいやし、なんか切なくなってくる」
「そっか……まあ、それもそうやな」
そうして、ふたりはふたりだけのあいだでなにやら納得すると、勝手に話を切り上げてしまった。むろん問い詰めようとしたのだが、予鈴に邪魔をされ、話はとりあえずお預けとなった。
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