第20話 選手交代 3
ジャージすがたの子供たちがわっと両脇を通りすぎた。
ふり返った翔太の目に映ったのは、そのなかのひとりがレイアップシュートを決めているところだ。
薄暗い照明、傷だらけの床、カビっぽい匂い、その年季の入り方からして、小学校のころに所属していたミニバスチーム桜井クラブの本拠地、桜井市民体育館にちがいなかった。
それと同時に気づいたのは、シュートを決めたのが小学生のころの自分だということだった。身につけているのは試合用ユニフォームで、対戦相手の胸にはYAMATO B・Cの文字が見てとれる。どうやら過去の記憶を見せられているらしい。
パスミスによってボールがコートの外に出るとホイッスルが鳴った。
選手交代の合図とともに、おずおずとコートに入ってきたのは、いまにも泣き出しそうな表情の春人である。
ゲーム再開直後、ゴール下の春人にボールが渡った。
小6で一七〇センチ近い高身長から警戒されたのだろう。相手のディフェンスがさっと春人のまえに立ちはだかった。執拗にボールを狙っている。
春人がはじめて試合に出たときの練習試合だということに、翔太は気がついた。たしか春人はこの後、ドリブルやシュートはおろかパスすらできないまま、このディフェンスにボールを奪われるのだ。
記憶通り、ボールはすぐに相手チームに渡った。
敵チームに速攻を仕掛けられ、チャンスが突如としてピンチに変わった。急いでディフェンスに戻るも、二対三の不利な状況に持ち込まれて、あっさり二点を奪われてしまった。
「みんなごめん、おれのせい……」
コートを走りながら春人が言った。
「大丈夫やって」答えたのはキャプテンの優弥だ。「おれもはじめて試合出たときめっちゃ緊張したし。な、翔太」
と、優弥がとなりを走る小学生翔太に同意を求めた。
しかし、応じた小学生翔太が言い放ったのは、あろうことかこんなセリフだった。
「おれはべつに緊張せえへんかったけど。まあ、大丈夫っていうんはほんまや。おれがすぐに取り返すし」
いまの翔太がつい両手で顔を覆ってしまったのは、むろんその得意げな笑みを見ていられなかったからだ。
翔太はなんとか気持ちを切り替えて視線を上げた。が、子供たちのすがたはすでにどこにもなく、その代わりに薄汚れた白い壁が目のまえに立ちはだかっていた。
古いウォータークーラーとそのかたわらにぽつんと立つ銀杏の木、わずかに漏れ聞こえるボールのはじける音。それはまちがいなく佐倉井中学の体育館の外壁だった。
鉄の扉を開けると、汗だくになりながらシュート練習する春人のすがたが見えた。
壁に寄りかかってしゃがみ込んでいるのが自分である。なにやら、中学生翔太はコーヒー牛乳を片手にブツブツと口を動かしつづけていた。
なんでおれがおまえの練習に付き合わなあかんねん、もうええ加減にせえよ、練習はじまるまえにバテてどうすんねん―――はっきりとは聞き取れないが、だいたいそんなことをぼやいているようだ。
しばらくして春人が壁際に腰を下ろすと、中学生翔太が心底呆れたようすで切り出した。
「ほんま練習好きやな、おまえ」
「練習好きって言うか……」五○○ミリリットルのペットボトルに半分以上あったスポーツドリンクを飲み干してから、春人はつづけた。「こんくらいせんといつまでたっても翔太に追いつかれへんもん」
「はあ? なに、おまえおれに対抗心燃やしてんの?」
「っていうか、いつかはおれだってレギュラーなっていっしょに試合出たいやん。そのためには翔太くらい上手くならんとあかんやろ」
「……まあ、おれとしてはだれがセンターでも変わらんからどうでもいいけどな」
「それはつまりおれでもいいってことやんな」
「そら、まあ……べつにおれが決めることでもないしな……」
「よかった。じゃあおれ、もっとがんばるわ!」
嬉しげに言って立ちあがると、春人はふたたびコートへと戻っていった。
「おい、まだやんのか? もうみんな来んで」
その言葉には無反応だったが、数歩進んだ先で春人はなにかを思い出したようにふり返った。そして、言った。
「また副キャプテンに選ばれたな。おめでとう」
三年の先輩が引退試合を終えると主将と副主将が指名され、すぐに新チームが始動した。いま自分はその年の、つまり中二の夏休みを見ているらしい。
翔太の代のチームはそれなりには強かった。佐倉井中学バスケットボール部の歴史のなかでは最高のチームだと、古株の顧問も言っていたくらいだ。
とはいえ、それはあくまでこれまでの佐倉井中学のなかでは、という話で、県内で上位に食い込むようなチームではなかった。そして、そのことを翔太たちは十分に理解していた。
ぼんやりと春人たちの練習風景を眺める中学生翔太がぐにゃりとゆがんだ。油彩画のうえに大量の油を垂らしたみたいに、すべての境界線があいまいになっていく。
色と色が溶け合い、やがて視界が黒一色になると、目のまえに細い光があらわれた。まるで透明なドアでもあるかのように長方形をかたどっている。
その枠のなかをくぐったとたん、翔太はまたべつの場所に立っていた。そこが、ジェイ・ティーアリーナの観客席だと気づくのに時間はかからなかった。中学の最後の、そして最大のトラウマを生むことになった舞台である。
この流れからいって中三の夏の記憶である可能性が高いような気がする。いったいなにがはじまるのかと、翔太の胸は早くもざわつきはじめていた。
このときのことは意識的に忘れようとしたせいか、記憶が曖昧になっている部分も多い。しかし、二回戦のあと、いつまでも外ではしゃいでいたことははっきりと覚えている。
コートと観客席をざっと見渡してから玄関口に向かうと、案の定、正面階段のところで佐倉井中学バスケ部の面々を見つけた。
彼らはそれぞれのバスケ人生の、おそらく最高であろうときを満喫しているのだ。ほんの数時間後に起こる悪夢も知らずに。
近寄る気になれず、翔太は階段のうえから彼らを眺めていた。
やがて彼らは顧問の先生に呼ばれてぞろぞろと観客席に引きかえしていった。ぼんやりと立ち尽くす翔太の両脇を懐かしい顔たちが通りすぎていく。
中学生春人が中学生翔太を呼び止めたのは、ふたりが階段をのぼりきったところだった。ほかのチームメイトたちが行きすぎるのを待ってから、ひと目をはばかるように切り出した。
「こんなん言いづらいねんけど、ちょっと浮かれ過ぎちゃう? このあと三回戦あるねんで」
この時点でこれほど的確な指摘を春人が口にしていたとは。翔太はその冷静さにおどろいたが、中学生翔太はちがった。まったく意に介さないようすでへらへらと答えた。
「つぎの試合までまだ一時間以上あるやん。大丈夫、大丈夫」
ついその頭をひっぱたいてやりたくなったが、むろんそんなことは不可能だ。
「おい、秋山、はよ来いよ」
チームメイトに呼ばれ、中学生翔太が駆け出した。
その背中を心配げに見送る春人の顔をながめているうちに、ふいに昨日の言葉がよみがえった。
『翔太のことが好きやから』
そんなことを言うからには、春人は
出会いは小学五年のとき。夏休みが明けた最初の日だった。
始業式が終わると、先生は春人をともなって教室に入ってきた。子役モデルのようなそのオーラが、室内をぱっと華やかにしたのを憶えている。
「藤崎春人くん。東京からお父さんの仕事の都合で転校してきました」
先生の言葉に、黄色いざわめきがおこった。
いや、ざわめきが黄色かったというのは、もしかしたら翔太の記憶の上書きかもしれない。しかし、春人が、その人懐っこい笑顔や愛想のよさですぐにクラスに溶け込み、ひと月も経つころには人気者グループの中心的メンバーにちゃっかりとおさまっていた、というのはまちがいなく事実である。
翔太は別グループだったし、とくに春人に興味を持たなかった(定かではないが、すくなくとも興味を持っていないふりをしていた)。向こうもおなじで、ほとんど会話もしなかったはずだ。
記憶にある初めての会話は数週間後、体育でバスケをやった日のことである。
それは、生徒を数チームに分けてのゲーム形式の授業で、単に相手のリングにボールを入れたら一点という適当なものだった。
クラスで唯一の経験者である翔太率いるチームが、無敗のまま授業を終えるにいたったのは言うまでもない。
それは翔太が学校でヒーローになった最初の瞬間だった。次は中学の球技大会まで待つことになるのだが、ともあれ、授業が終わると、春人が声をかけてきたのだ。
「すごいね、秋山君。おれ、何にもできなかったよ」
「ああ、おれミニバスチーム入ってるから」
じつのところまんざらでもなかったのだが、そんなことはおくびにも出さなかった。
「ミニバス……?」
「少年野球のチームとかサッカーチームとかあるやろ、あれのバスケ版」
「へえ、かっこいいね」
「そうか? 興味あるんやったら来たら? 藤崎、背ェ高いから向いてるで」
「そう、かな……」
そのあとどんな会話をしたのか、あるいはしなかったのか覚えていないが、何年も後になってからこのときのことをふり返って言った春人の言葉は憶えている。
「あのとき翔太にドリブルで抜かれてな、ふり返ったらレイアップ決められてて、なんていうか、びっくりしたって言うか、すごいなあって思ってん。あんなんおれもできたらいいなって」
春人が桜井クラブに入ったのは次の練習日だった。
それ以来、おれのバスケ人生の思い出のすべてに春人がいる。……片隅だけど。
しばしのあいだ、さらなる過去に思いを馳せていた翔太だったが、そのときふと名前を呼ばれて顔を上げた。中学生春人と目が合った気がしたのは勘違いではなかった。
「つぎの試合、いっしょに応援しよう」しっかりと自分に焦点を定め、春人は言った。「ぜったいに勝つから」
「いや、ぜったい勝つって……」
思わず苦笑してしまったが、この時点での春人は結果を知らないのだから仕方がない。それに、いくら気はすすまなくとも、ほかに目的がないのも事実だった。
「わかった」
覚悟を決め、翔太は答えた。
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