第21話 選手交代 4
ふたりは薄暗く、長い廊下を歩いていた。
「試合はいま第三クォーターが終わったところで、ウチは二〇点差で負けてる」中学生春人は淡々と語った。「まあ、第一クォーターですでに二〇点差つけられてたにしてはぎりぎりで持ちこたえてるって考えてもいんかな……」
「第三クォーターで二〇点差? 三〇点差のまちがいやろ?」
翔太は訂正した。いくら忘れようとしても、試合経過は記憶に焼き付いている。
春人は足を止めて、翔太をふり返った。中学生とはいっても身長は一七五、六センチもあり、どうしても見下ろされるかたちになってしまう。
「……もしかして中三のときの総体のこと言ってる?」
「え、ほかになにがあんねん……?」
「いま翔太に見て欲しいのは、そんな試合じゃないで」
言われて、翔太はあたりを見渡したが、やはりジェイ・ティ―アリーナであることはまちがいなかった。そして、これほどの規模の体育館で行われる中学の試合など、総体のほかにはないはずだった。
悩む翔太に背をむけ、春人は歩きだした。客席につづく階段を素通りしてひたすら廊下をまっすぐすすむ。
春人がふたたびふり向いたのは、コートへつづく扉のまえだった。
促されて扉を押し開いた瞬間、目がくらむほどの光が視界に飛び込んできた。
ボールがリングに当たる音が、フロアとバッシュがこすれる摩擦音が、ホイッスルやブザーの音が、そして熱を帯びる声援と飛び交う指示が混然となって押し寄せる。ドキドキと高鳴る心音がそこに混じりだすのに時間はかからなかった。
知らず知らずのうちに、翔太は佐倉井中学のメンバーを探していた。
それらしきユニフォームが見当たらず、得点板に目を転じたとき、思わず「あっ」と声を漏らした。
そこにあったのは、佐倉井高校の文字である。つまり、いまここで行われているのは、中学総体ではなく、高校インハイ予選だったのだ。
しかし、翔太がほんとうに息を呑んだのは次の瞬間、対戦校を確認したときだった。
「北大和高校……」
春人がいつか体育館で言っていた、樫原中学の市原駿が入学した高校である。
ベンチのなかに、たしかにそのすがたがあった。そして、スコアは四六対六六。さっき中学生春人が二〇点差で負けているといったのはこのことだったのだ。
最終クォーター開始の合図とともに、選手たちが立ちあがった。
三年のキャプテン、副キャプテン、もうひとりの三年生、唯一の一年生である井川がコートに入っていくと、春人がそのあとにつづいた。
「あいつ試合出るんや……」
翔太は、第四クォーター、二〇点ビハインドという状況でコートに入っていく春人のすがたを感慨深げに眺めていた。
そんな思いを知ってか知らずか、中学生春人がしずかに切り出す。
「なあ、いつかおれに言ったよな。出てなかったやつにおれの気持ちなんかわかるかって。たしかにそのとおりかもしれへん。でもな、どんなに努力しても試合にさえ出られへんやつの気持ちは、翔太にはわからんやろ」
「……ごめん」
「いまさら責めるつもりはないねん。ただ、あれから二年、おれは市原を倒すつもりで努力してきた。できればいっしょに倒したかったけど、せめて観ててほしいねん」
「……わかった」
ゲーム再開後、最初のオフェンスで春人はシュートを決めた。ラインに片足がかかっていて、惜しくもスリーポイントにはならなかったものの、迷いのないきれいなシュートだった。狙っていたのはまちがいない。
翔太には、安藤監督の思惑が手にとるようにわかった。残り十分で格上の北大和相手に二〇点差をひっくり返すには、リスクを覚悟のうえで思いきった手を打つしかない。つまり、佐倉井高校は春人のスリーポイントに賭けたのだ。
顔は固いが、春人は落ち着いていた。開始直後、キャプテンが春人に声をかけていたが、それが功を奏したらしい。
「おまえのスリーポイントなんかどうせ期待してないんやから気楽にいけ」
あのキャプテンがどう言ったかはわからないが、自分ならきっとこんな感じだろう。
なんとか三〇秒を耐えぬき、一八点差のままふたたび佐倉井高校のオフェンスがはじまった。
三年生トリオがパスでディフェンスをかき乱し、インサイドへ走りこんだ井川に回す。
相手の選手が井川に意識を向けた瞬間、井川から春人へ絶妙なパスが通った。
ブロックは間に合わない。放たれたボールはきれいな弧を描いてリングに吸いこまれていった。こんどこそ、スコアボードに三点が加算された。
佐倉井高校のオフェンスは、いつか水飲み場で部員たちが話していたパターンそのものだった。
ディフェンスがなかに集中すれば、外から春人がシュートを放ち、ディフェンスの意識が外へ向けば、井川がなかへ切り込んで得点する。あれから練習を積み、かたちにしたということなのだろう。シンプルな作戦だが、それだけに破るのは難しい。
そのあとも春人は一本のスリーポイントを入れたが、つづくチャンスは目の色を変えた相手ディフェンスによって阻止された。
しかし、それがバスケットカウントとなり、オフェンス側に三本のフリースローが与えられた。そのうち二本を決めると、春人の得点は一〇点となった。
先輩たちとハイタッチを交わす春人を見つめながら、翔太は舌打ちを漏らした。
「おれが上手くなりすぎて悔しい?」
中学生春人がからかうように言った。
「ていうか、まじでムカついてる」翔太が考えていたのは、いつか練習でした1ON1のことだった。あのとき春人はスリーポイントを打てるチャンスを何度も見送った。自信がないからだと思っていたが、いまの様子を見るかぎりそうではなかったらしい。「あいつ、おれに手加減してたんや……」
「え……?」
中学生春人は怪訝な顔をむけてきたが、翔太は無視した。この春人に言っても仕方ない。いまの春人に問いたださなければ、とうてい怒りは収まりそうになかった。
佐倉井高校がその点差を一〇点にしたとき、ついに北大和高校のベンチが動いた。メンバーチェンジである。市原駿が出てくるのはまちがいない。先ほどから背番号十三をつけた市原がベンチ裏でアップしていることに、翔太は気がついていた。
「第一クォーターで五分出場したあとはもう出てけえへんかったけど……」
「あいつ……やっぱり強なってんの?」
春人はちらっとこちらに顏を向け、すぐコートに視線を戻した。
「自分の目で確かめてみて」
ゲームは北大和の攻撃から再開した。
ボールは六番から七番、そしてセンターラインを越えたあたりで十三番の市原へと回った。マークは当然井川である。唯一市原と対等にやり合える可能性があるとしたら、佐倉井高校バスケ部のなかで井川をおいてほかにないだろう。
「一年対決やな……」
翔太のつぶやきに、春人が解説を加える。
「いまのところ井川は市原をよく止めてるけど、市原にディフェンスされたら井川の得点も止まるねん」
「ディフェンスも上手いってことか……」
コートに視線を戻すと、鋭いドライブで切りこんでいく市原の背中が目に入った。
すかさずペイントエリアに二人のディフェンスが立ちはだかる。
「うまい!」
翔太は思わず拳をにぎりしめた。井川が抜かれたと思ったのは囮で、市原はまんまとインサイドへと誘導されたのだ。
一対一では勝てないと踏んで、二対一の有利な状況で叩き潰す。それが佐倉井高校の立てた作戦にちがいない。
市原投入後、最初の攻撃を防ぎきれれば、追い上げムードの雰囲気を持続させることができる。ここは大きい。
行け、叩き潰せ―――!
しかし、翔太の言葉は喉元でかき消えた。次の瞬間、市原のダンクが、二人のディフェンスのうえから炸裂したのだ。
奇妙なほどの静寂がいっとき体育館を支配し、それはやがて怒号のような歓声へと変化した。
北大和高校のベンチがコートへと飛び出さんばかりに湧きあがる。
観客席のどよめきは、佐倉井高校の攻撃がはじまってもしばらく止むことはなかった。
「あのやろう……」
翔太は無意識のうちに漏らしていた。市原の超高校級プレイに対する嫉妬が抑えきれなかったのだ。
その感情は、スノオのような強者と対峙したときのような畏敬や、ドラゴンに乗って上空に舞い上がったときのような感動や、あるいは巨大虎に立ち向かっていったときのような緊張をともなって身体のなかをのたうちまわった。震えるほどの興奮が、こんなにも近くにあったとは―――。
翔太は腹の底から湧き上がる激情にしばし身もだえた。
ダンクの興奮冷めやらぬなか再開したゲームは、のこり五分を切って点の取り合いへともつれ込んだ。
淡々と得点を重ねる市原に対し、佐倉井高校は春人、井川のコンビネーションでなんとかくらいついていく。
―――が、それも長くはつづかなかった。時間の経過とともに、井川が市原に押されはじめたのだ。
とはいえ、井川を責めることなどできない。市原の得点をトータルで一五点に押さえたディフェンス力は称賛に値するし、すでに二〇点もの得点をひとりで上げている。さらに春人へのアシストとなれば、当然、体力の消耗は並大抵のことではない。
つまり、攻撃、守備ともに井川ひとりにかかる負担が大きすぎるのだ。しかも、温存されていた市原に対し、井川はこの試合フル出場である。
限界を超えつつあったのだろう。つづく市原のカットインに井川はまったくついていけず、あっさりと得点を許してしまった。
残り五分弱でスコアは五十六対七十。佐倉井高校は最後のタイムアウトをとるしかなかった。
「井川をさげたいとこやな。二分休憩させて、のこり三分で勝負」
「たしかにそのとおりけやど、市原を温存する余裕のある北大和とちがって、ウチには井川の代わりになる選手なんかおらんからなあ……」
中学生らしからぬ大人びた自嘲を浮かべる春人がなんとなく可笑しく、翔太はおもわず笑ってしまった。
「そらそうやな、あんなやつがもうひとりおったら全国大会に行けるやろうな」
なかば冗談で言ったつもりだったが、中学生春人は笑わなかった。
「井川くらい器用な選手がもうひとりいたらって、こういうときほんまに思うわ。ドリブルもボール回しも上手くて自分で得点もできる。それで、いつも前向きでチームを盛り上げてくれるような選手……」
となりを見やると春人もこっちを見ていて、目が合った。その射すくめるような視線に、翔太はハッと息を呑んだ。
「なあ、翔太、もうわかってるよな」
「え……?」
聞き返したとき、翔太は自分が佐倉井高校のユニフォームに身を包んでいることに気がついた。信じられないような言葉が耳に飛びこんできたのはその直後だ。
「選手交代、秋山」
ふり返ると、不自然にこちらを向く選手たちが目に入った。
春人も井川も、監督や北大和の選手たちまでもがこっちを見つめていた。
タイムアウト終了のホイッスルが鳴ってもゲームは再開されず、井川はベンチに座ったままいっこうに立ち上がる気配を見せなかった。
彼らは待っているのだ。自分がコートに入っていくのを―――。
ふらり、と足を踏み出したのはそのときだった。
けっしてやる気になったわけではない。それでも、翔太はまた一歩を踏み出した。
さらに二歩、三歩とコートに向かって歩いていく。なぜこんなことをしているのか、自分で自分の行動がわからなかった。それどころか、考えれば考えるほど、ネガティブなイメージがどんどん膨らんでいった。
どんなパターンを想定してみても、自分が市原を倒すところなど想像できないのだ。井川ほどもやれる自信はなく、点差はもっと開いていくにちがいなかった。
だが、一歩一歩と足を踏み出すたび、翔太はふしぎと光の方へと向かって歩いている気分になっていた。
サイドラインを越え、ついにコートに入ろうというとき、ほんとうに周囲が輝いていることに気がついた。気のせいではない。目を開けていられないほどのまばゆさである。思わず目を閉じて光が行きすぎるのを待った。
そして、数秒経って目を開けたとき、翔太は自分が崇神天皇離宮跡にいることに気がついた。
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