第22話 選手交代 5

 なにがなんだかわからなかった。どこまでが現実でどこからが夢だったのか。

 わかっていることといえば、あたりが明るく、いまが昼間だということだ。しかし、それも何月何日の昼なのかはわからない。

 もしかしたら、走歩大会のときにここでイヨと出会ってからずっと夢を見せられていたのだろうか……? なかば本気でそんなことを考えて自分の体を確認してみたが、学校のジャージは着ていなかった。

 とはいえ、いつまでもここに立っていても仕方がない。

 翔太はなんの考えもなしに歩きだしたが、すぐにポケットのスマホが着信を告げていることに気づいて足を止めた。

 あわてて電源を入れると、数十件の母からの着信が表示された。突如として湧きあがる現実感に汗が吹き出す。到底ではないが電話する気になれず、とりあえずメールで連絡した。

 数秒で恐ろしいリアクションがきた。

《いますぐ帰ってきなさい!》

 たったそれだけの文面に激しい怒りが籠っている。一刻も早く帰らなければ。

 いったんはアプリを閉じようとしたものの、ふと春人からの着信が気になって翔太は手を止めた。

《さっきは変な感じになったけど……》メッセージはそんな前置きではじまっていた。《ほんまは五位~八位の決定戦に出ることになって、それを観に来てって言いたかってん。場所はジェイ・ティ―アリーナで明日の十一時半、相手は北大和高校。このメールを翔太が見るかはわからんけど、もしも見たら来てほしい》

 アプリを閉じて日付を確認すると、今がまさにその日、そのときだった。そして、そのことに気づいたとたん、なぜかこう思った。

 かのんが自分に見せたのは単なる夢ではなく、これから起こる試合内容だったのではないか、と。

 スマホで会場までの道順と距離を確認するなり、翔太は自転車に飛び乗った。

 いったん家に帰って車で送ってもらうという選択肢も浮かんだことは浮かんだが、すぐに却下した。説教時間を考えるとこっちのほうがはるかに早い。

 勝手知ったる裏道を抜けて国道に出ると、標識を確認しながら、国道165号線を西へとひた走った。ネットで確認した醍醐西の交差点を左折すれば、あとは目印の最寄り駅を見逃さないように気をつけながらすすむだけだ。

 目的地に着くと、翔太は自転車を適当にとめ、正面階段を駆け上がった。観客席に入るなり、紺にオレンジのラインが入ったユニフォームを探す。

 佐倉井高校は二面あるコートの手前で試合を行っていた。

 翔太は観客たちにまぎれて一番うしろの席に座った。

 のこり時間五分を切って、スコアは五六対七○。ちょうどタイムアウトが終わり、選手たちがコートへ出ていくところだった。

 井川に代わって出場するのは、むろん翔太ではなく三年生の選手だが、それ以外はすべてあの夢とおなじ状況だ。

 その後、ゲームはおおよそ想像したとおりの展開となった。

 はじめの三分で市原は十点をあげたが、その十点目が入った時点で、スコアは六一対八○となり、事実上の勝敗は決した。

 北大和は市原をさげ、佐倉井高校はもう井川を出さなかった。

 試合終了のホイッスルが鳴ったとき、五分前とくらべて点差は無残なほどに開いていた。

 井川の代わりに入った三年生はさぞ悔しかっただろう。だが、こうなることをわかったうえで立ち向かっていく気概だけをとっても、自分よりははるかに立派であることはまちがいない。

 翔太は整列する選手たちを見届け、足早に会場を出た。

 成瀬に出会ったのは、正面階段を下りたところだった。自転車のかたわらでぽつんとたたずんでいたのだ。

「来てたんや……」

 開口一番、成瀬は言った。終始うつむき加減で、ときおりチラチラとこちらを見上げてくる。

「まあちょっと気になって……」

 自転車を方向転換させながら、翔太が答えた。

「このまま帰んの?」

「そのつもりやけど……」

「慰めたらへんの?」

「慰める?」鼻で笑いつつ返した。「おれになにが言えんねん」

「そっか……」

「それにあいつは大丈夫やろ。生まれついての楽観主義者やからおれみたいにはならんわ……」

「たしかにそうやな」

 そのとき成瀬がはじめて笑みを浮かべた。久しぶりに見る成瀬の笑顔だった。

「親がマジギレしてるから行くわ」

 おどけて言うと、成瀬は声を出して笑った。

「ほんじゃ、またな」そう言って、いったんは足をペダルに置いた。だが、またすぐにふり返って尋ねた。「おまえ電車で帰んの?」

「ううん」成瀬が首を横にふる。「親が迎えに来てくれる」

「あっそ、んじゃ、お疲れ」

 こんどこそこぎ出そうとペダルを踏みこんだが、名前を呼ばれて翔太はふたたび首をまわした。

「秋山やったら勝てたかもって思った」

「は?」

「わたし、あのとき井川の代わりに秋山が出たら勝てるかもって思ってん」

「…………」

「ごめん怒った……?」

「いや……」怒ってはいなかった。ただ、どう反応しようかと迷っていただけだ。しばしの間のあとこう答えた。「おれもおんなじこと考えてたわ」


 家に戻るなり、夜叉のごとき表情の母に出迎えられた。

 むろん、翔太は全身全霊の謝罪をしたが、その怒りが収まりかけたとみるや、こんなことを言いはじめていた。

「帰ったばっかりで言いづらいねんけど、いまから春人の家に行くわ。あいつ試合に負けてヘコんでるから、どうしても行かなあかんねん」

 母が口を開く間を与えず、さらに言い募る。

「月曜からちゃんと学校行くし、期末テストはぜったいに勉強する。夕方までに帰ってけえへんかったスマホ没収してくれていいから!」

 四十五度のお辞儀をする翔太の頭上に大きなため息が降りそそぐ。母の口からこれが漏れればもう一押しだ。

「いま春人をひとりにしたら、あいつバスケやめてまうかも知れへんねん。それくらいショック受けてるから―――」むろん、口から出まかせである。翔太はいったん頭を上げると、勢いよくそれをふり下ろした。「だから、な! お願いします!」

 そんな具合に翔太の謝罪とお願いは延々つづいた。

 不承不承とはいえ、それが母に受け入れられ、家を出たのはおよそ三〇分後のことだった。


 春人の家に着くと、翔太は門の脇にこれ見よがしに愛車を置いた。自分の存在を示すメッセージである。

 裏手へまわって、青いペールからボールをひとつ取り出し、アップをはじめる。その最中、春人のおばさんが顔を出し、すこし話し込んだが、あとはボールのうえに腰を下ろしてひたすら春人を待った。

 帰ってきたのはおよそ三〇分後。メッセージを受け取ったらしく、スポーツバッグを肩にさげたまま、春人は裏庭にやってきた。

「どうしたん? まさか来てると思わんかった……」

 翔太はボールから腰を上げると、心底おどろいたようすの春人をにらみつけた。そして、こう切り出した。

「さっき観てた」

「え、そうなんや、びっくり……。じゃあ、おれのこと慰めにきてくれたとか……?」

 春人がへらへらと笑ったが、翔太はにこりともせず、切り返した。

「おれは殴りに来たんや」

「は? ……え?」わけがわからないというふうに、しばらく目を泳がせていた春人だったが、やがてポンと手をたたいた。「もしかして昨日おれが言ったこと気にしてる? それやったらもう忘れてくれていいから―――」

「そんなんどうでもいいねん!」

 春人の言葉をかき消す声で、翔太は怒鳴った。

「……じゃあ、なんのこと?」

「おまえ、いままでおれに手加減してたやろ」

「え……?」

「さっきのプレイ観て確信したわ。このまえ1ON1したとき手ェ抜いて、わざとおれに勝たせたやろ」 

「それは誤解やって、おれはそんなつもり―――」

「ナメてんのかッ⁉」さらに声をあららげる。「殴られたくなかったら、いますぐおれと1ON1しろ!」

「え、いま……?」

「もしまた手ェ抜いたら一生おまえと口きかへんからな」

 翔太は言うなり、返事も聞かずにボールを投げつけた。それは、パスと呼ぶにはあまりにも乱暴な送球だった。

「痛ァ……」春人はキャッチした手をながめつつ、怨みのこもった声で言った。「ちょっと待ってって、聞いて、翔太。おれは手加減なんかしたつもりなくて―――」

「そっちからオフェンスでいいで。どうせ十分しか試合出てないんやから、体力あまってるやろ」

「ああ、もう!」そのとき、春人が負けじと声をあらげた。「ほんまひとの話聞けへんねんから! 手加減してないって言ってるやろ!」  

 言うがはやいか、野球の投手のように振りかぶり、思いっきりボールを投げ返してきた。

 高身長から繰り出される全力投球に、思わず身が縮こまったが、意地にかけてここは逃げるわけにはいかなかった。

「なに返してきてんねん、おまえのオフェンスや言うてるやろ!」 

 言いながら、さらにボールを投げつける。

 春人はそれをキャッチすると、大きなため息を吐きだした。

「だから、オフェンスゆずるって言ってんの!」 

 ひとつドリブルを入れると、助走をつけてボールを投げてきた。それはもはや、ドッジボールのアタックであり、翔太は思わず胸でボールを受け止めてしまった。理不尽な敗北感が胸のうちに湧きあがり、口から舌打ちがこぼれる。

「おまえなあ……!」お返しとばかりに翔太も渾身のサイドスローをお見舞いした。「ドッジボールやったら負けへんぞ!」

 ボールとともに繰り出すのは罵詈雑言だ。

「だいたい、おまえ悪趣味やねん! 女のふりして友達だますとか最低やぞ!」

「あ、あれは、その……」

 言い分も聞かず、翔太はさらに言い募った。

「しかも、告ってくるとか! いきなりそんなこと言われて、おれにどうしろって言うねん!」

「それはだから、忘れてくれていいから!」

「忘れられるか! このクソホモが!」

「はあ⁉ そこまで言うんやったらこっちも言わせてもらうけど、自分かってキモオタやん! しかも一回負けたくらいでバスケから逃げ出すヘタレ‼」

「ああ⁉ だれがヘタレや、コラァ!」

 そうして、ただボールと悪口をぶつけ合うという不毛な時間がながれた。

「ちょっともう、いったん落ち着こう」と、息を切らしながら翔太が言ったのは、互いに数十本もの全力投球を重ねたあとだった。「おれ、あんまり時間ないねん。こんなことでスマホ取り上げられたらまじでシャレならんわ」

「スマホ……? それどういう意味?」

「いや、まあそれはどうでもいいねんけど」汗を拭いつつ答える。「とにかく1ON1や。一回勝負、いいな?」

「……わかった」

 覚悟を決めたらしく、春人はもうなにも言わなかった。そして、こんどこそドリブルをはじめた。

 ふたりがボールを弾く音は、日が暮れるまで止むことはなかった。

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