第5話 幼馴染の法則 1
翔太はいったん春人と別れて家に帰った。
部屋着と化した上下セットのジャージを着込んでそのうえからダウンジャケットを羽織ると、スマホだけを握りしめてふたたび家を出る。
自転車にまたがって、市街地とは逆方向に走ること五分。畑のなかに、こんもりとした丘が見えてきた。
その丘を背に建つ立派な瓦屋根の家が春人の自宅である。ひときわ目を引く重厚なブロック塀は、翔太の家を四軒ぶん並べても足りないのではないかというほどの幅と奥行きがあった。
だが、特筆すべきは、家の裏のだだっ広い敷地にバスケットゴールが備わっているという点だ。
買って置くだけの簡易ゴールとあなどるなかれ、自宅でバスケができる環境というのは、すべてのバスケ少年の憧れといっても過言ではないのだ。
翔太も小学校のころからこの家の設備にはさんざん世話になってきた。
とはいえ、あの頃はバスケをやめてまで練習につき合わされることになるとは思いもしなかったが。
塀をぐるりと回りこんで私有地に入ると、一定のリズムでボールが弾ける音が聞こえてきた。
翔太は自転車を適当なところで止め、音のする方へと向かって歩きだした。ここに来るのは中学のとき以来である。
角を曲がると、ちょうど春人が成瀬にパスを出すところだった。
成瀬がゴールに向かって走る春人にリターン・パスを出し、それを受けたところで春人がレイアップシュート。
基礎の練習メニューであるにも関わらず、ボールはリングの上をくるりとなぞり、はじき返されて地面に落ちてしまった。
翔太はため息を漏らしたが、それは成瀬も同様らしかった。
「フリーでレイアップ外すかあ?」
「成瀬だってさっき外してたやん」
軽口を言いあいながらも、その声はどこかウキウキと弾んでいた。
翔太が思わず足を止めてしまったのは、ふたりの世界を邪魔してはいけないような気がしたからだ。
「なあ、おれ帰っていい?」
いつまでたっても自分の存在に気づかないふたりに業を煮やし、翔太は声を張りあげた。
「あ、翔太!」
「秋山、遅いわ!」
同時にふり返ったふたりに、「帰りたなってきてんけど」と、もう一度言ってみた。声音と表情でこれでもかと不服をアピールしたつもりだったが、春人にはなんの効果もなかった。
「おれらもうアップ終わったけど、翔太どうする?」
言いながら、春人がボールを投げて寄越した。と、その瞬間、翔太はハッとした。
構えてなかったということもあるが、パスのボールスピードがむかしとは数段上がっていたのだ。なんとかボールをキャッチできたときには内心ほっとした。ふたりの前でただのパスをとり損なうなどというミスはおかしたくない。
「なあ、アップは……?」
無言でボールを見つめる翔太に、春人が怪訝な表情を向ける。
「いらん! いま全力でチャリこいできたとこや」
「ケガするで~」
成瀬が口をはさむ。
「あほか。ケガするほど本気でやるわけないやろ。おれは筋肉痛なんや」
「え、走歩大会から三日も経ってるのにまだ筋肉痛なん?」
「いや、そういうわけじゃないねんけど……」
走歩大会での筋肉痛など一日でおさまっている。いま感じている違和感はまちがいなく今朝の出来事のせいだ。
ほんの十数秒の、しかも身動きひとつとれなかった1ON1で全身の緊張がピークに達し、背中や首筋に強張りがのこっていた。
「だっさ~。それでも元佐倉井中学のバスケ部副キャプテンなん……」
成瀬は言いかけた口をハッとしたようにつぐむと、バツのわるそうな視線を翔太に向けた。
たしかにバスケ部時代のことはあまり話したくない。普段からその話題を避けているふたりの気遣いにも気がついている。
だが、いまのは逆効果だった。台詞よりも、むしろ腫れ物を扱うかのような行動が、翔太の心をかき乱した。
「翔太」と、神妙な顔をして春人が近づいてきたのはつかの間の沈黙のあとだった。「なんやねん」と、翔太が不貞腐れた声を出す。
春人は目のまえまでくると、突然、翔太が小脇にかかえていたボールを力いっぱい叩きつけた。かと思うと、弾かれたボールを追って翔太の背後に回りこんだ。
あわててふり返ると、見せつけるようにしてボールをもてあそぶ春人と目があった。そして、得意げにこう言った。
「ナイスカット」
味方の選手が敵方からボールを奪取したときに称える言葉だ。
「ああッ⁉」
翔太は怒りをあらわにしながらも、無意識のうちに腰を落とし、ディフェンスの体勢をとっていた。
春人の口角がニヤリと上がる。
「しまったッ!」
完全にうかつだった。春人の身長は一八○センチ。対して自分は一七○センチ。腰を落とした状態ではパスは簡単に頭上を通過する。
「藤崎!」
背後で響く成瀬の声に、翔太は直感が正しかったことを覚った。成瀬はリングに体を向け、パスを要求しているにちがいない。
ジャンプとともに放たれた春人のパスは弧を描く軌道で翔太の頭上を通過した。
コースもタイミングもドンピシャ。ボールは走りだした成瀬の手のなかに一直線に向かっていった。
やはり相当うまくなっている。春人への評価を見直さなければならないのかもしれない。だがそれは、突如はじまったこの2対1のゲームを制したあとだ。
翔太は浮ついた心と体をただちに落ち着かせると、つぎの瞬間には走りだしていた。
弧を描いているぶんボールのスピードは遅くなるし、成瀬が女子だということを考慮して勢いは加減されているはずだ。
「追いつける!」
砂の地面に一歩目を取られはしたものの、五○メートル走タイム六・八秒の足は伊達ではなかった。スリーポイントライン上で難なく追いつくと、翔太は成瀬とリングの間に体を滑りこませた。
成瀬は、あッと驚いた表情を見せ、足をとめた。翔太とボールの間に自らの体を入れ、ドリブルをさらに低くする。
ポイントガードだけあってさすがにドリブルは上手い。とはいっても、女子に抜かれたりはしないという自信が翔太にはあった。……今朝の出来事は例外として。
視界の端にボールを確認しながら成瀬の呼吸をうかがう。しばし膠着状態がつづいたあと、ほんの一瞬成瀬が気を抜いた。
翔太はその隙を見逃さなかった。すかさずボールに手を伸ばす。あとほんの数センチ―――指先が触れようとした瞬間、ボールはするりと翔太の手を躱し、視界から消え失せた。
つぎにボールを捉えたのは、春人の手に収まろうとしていたときだ。
見失ったあと、ボールは成瀬の背面を右から左に横切り、そのまま春人へと向けて放たれたのだ。
「ビハインド・バック・パス⁉」
翔太は驚きとともにボールを追って走り出した。
ゴールと春人との対角線上に体を割りこませたのは、つぎのプレイがドリブルからのレイアップだと読んだためだ。―――が、春人はスリーポイントラインの手前で足を止めると、流れるような動作でシュート体勢に入った。
あわててブロックにいくが、それが無意味だということはわかっていた。この距離でシュート体勢に入られたら、もう止める手段はない。
「クソッ!」
口から舌打ちが漏れたのは、春人のつぎのプレイがレイアップだとした自分の読みの甘さに気がついたからだ。
春人は中学時代センターを務めていた。そのポジションは、攻守ともにゴール近辺での役割が主で、春人がスリーポイントシュートを打つすがたなど見たことがなかったのだ。
しかし、高校に入ってから余儀なくされたポジションチェンジによって、いまはシューティングガードを務めている。今日のシュート練習も、そのポジションチェンジのためのものだったはずだ。
とはいえ、スリーポイントシュートの成功率は、NBAのレベルですら、三五~四○パーセント程度。簡単にいくはずはなかった。
つぎの瞬間には、ボールはバックボードにはね返されて地面で弾んでいた。
肩を落とす春人を横目に見ながら、翔太はボールを拾いあげると、ゴール下からシュートを決め、「勝ち」と、勝利宣言した。
「セコッ。スポーツマンとは思えんな」
苦い表情を浮かべる成瀬に、翔太は余裕の笑みで応じた。
「いや、いまのはどう考えてもリバウンド取るとこやろ。ぼうっとしてるおまえらが悪い」
「はいはい、そうですね。プライドだけは一人前ですね」
「は? なに、文句あんの?」
「もう、いちいち突っかからない。楽しくやろうや、な?」
春人が割ってはいると、成瀬はそっぽを向いた。そのままドリンクを手にとって、ゴール横のパイプ椅子に腰かけた。
「わたしちょっと休憩」
成瀬が膝のうえに置いたトートバッグには、バンビーノのロゴがはいっていた。
Tシャツがチームカラーである深みのある赤、通称『バンビーノレッド』であることには気がついていたが、よく見ると、左手首のリストバンドも、椅子の背もたれにひっかけたパーカーも同じ色だった。下は紺に二本のラインが入ったノーブランドのジャージである。
「おれも休憩」
「ちょっと! 翔太はいま来たばっかりやろ!」
「うるさいなあ春人、おまえおれのおかんか!」
そんなやり取りをしながら地面にしゃがみこんだとき、ふと春人の足元に目がとまった。
「それ限定もの?」
初めて見るバッシュだった。黒地にブランドマークをかたどる鮮やかなオレンジ色。春人が好きそうなシャレたデザインである。小学校のときから全身をブランド物のウエアで固めていたが、それは相変わらずのようだった。
「たぶん限定ものやと思う。かっこいいやろ。へへッ」
いかにも能天気な春人の笑顔と、限定物のバッシュを気軽に外で使用できる神経が翔太の癇にさわった。
「おまえ人生ナメ過ぎ」
翔太は吐き捨てると、スポーツタオルを枕にして地面に寝転んだ。
風はなく、晴れわたった空とやわらかな日差しが気持ちのいい昼下がりである。三人が黙りこむと、耳に入るいちばん大きな音は野鳥の声だった。
翔太は目を閉じ、すずやかな鳥の鳴き声にしばし耳を傾けた。
数分後、ふいに視線を感じて目を開けると、うかがうような視線でのぞき込む春人と目があった。
春人はあわてたようすですぐに目を逸らしたが、しばらくするとためらいがちにこう切りだした。
「そういえば、なんか変なうわさ聞いてんけど……」
「わたしも聞いた」言いよどむ春人にかわって、成瀬がズバリと言った。「なんかカワイイ転校生といっしょにいきなり授業さぼって、担任に呼びだし食らったとか……どこまでほんまなん?」
「まじかあ……」
心配げな春人の視線と、好奇に満ちた成瀬の視線を一身に浴びながら、翔太は頭をかかえた。
うわさになっているとは聞いていたが、第三者の口から直接問いただされるとこたえるものがある。『波風立てず、ひたすら三年間を平穏に過ごす』がモットーの翔太にとって、悪目立ちするなど言語道断だった。
「なんかあったん?」
「ああ……うん、まあ……」
「大丈夫なん?」
「ああ……うん、まあ……」
自分の身にこれからなにが起こるのか、ほんとうに自分は大丈夫なのか、なにひとつ確かなことを言えない自分が情けなかった。
しかし、はっきりと断言できることもある。
「おまえら、これだけは言っとく」翔太は上体を起こして、順番にふたりを睨みすえた。「おれはあの女とつき合ってない。知り合いでもなければかわいくもない。こんどだれかに聞かれたら、そう答えとけ」
翔太の迫力にふたりは黙りこんだ。言外にただよう、「それ以上この話題に触れるな」という圧力に屈したかたちだ。
このふたりを黙らせるのは比較的簡単である。春人は言わずもがな、ひと睨みすれば黙りこむ小心者だし、成瀬もこう見えて空気を読める女だ。そうでなければ副キャプテンはつとまらない。
それより問題なのは明日、長谷川と中島をどう言いくるめるかだ。
ヤツらはけっして空気を読めないというわけではない。ただ、読んだ空気を平気でぶち壊せる(あくまで場合によってはだが)という点において、このふたりとは決定的にちがう人種の人間である。
寒さの穏やかな日よりとはいえ、さすがにじっとしていると凍えそうだった。
翔太が立ちあがると、春人がボールを持ってあとにつづいた。
それからみっちり二時間、空が暗くなるまで部活さながらの練習はつづいた。人数が少ないことを踏まえれば、もしかしたらそれ以上にハードだったかもしれない。
帰り際、親が車で迎えにきた成瀬を見送ったあと、自転車にまたがる翔太を春人が呼びとめた。そして爽やかに言った。
「じゃあ、今日はありがとう。久々にバスケして楽しかったやろ。毎週月曜に練習やることにしたから、いつでも来て」
髪は乱れ、体もTシャツもパンツも汗でべとついているくせにどこからそんな清涼感が出てくるのかと翔太は腹が立った。
しかし怒りをあらわすどころか、「二度と来るか!」と突っ込む気力すら残ってはいなかった。「ああ」とも「うん」ともつかない返事を残して、翔太は自転車をこぎ出した。
今日も朝からハードな一日だった。わが家が見えるころには、へとへとに疲れ果てていた。
家に戻るなり、母は顔をしかめた。
「なにそれ、めっちゃ汚いやん。先に風呂入ってき」
空腹は限界だったが、そう言われればあきらめるしかない。
翔太はすごすごとリビングから退散し、風呂場へと向かった。
汗と土埃を洗い流して戻ると、父が帰宅していた。すでに食事を済ませたらしく、海獣のような流線型のフォルムをリビングのソファにうずめてテレビを眺めていた。
ローテーブルにころがるビール缶といい、お約束の光景である。
翔太は父を素通りして、ダイニングテーブルについた。話すことがないだけで、とくべつ仲が悪いというわけではない。いつものごとく無言で食事を済ませて自室に引きこもろうとしたとき、父がめずらしく声をかけてきた。
「バスケのチケット貰ったから、行きたかったら行ってもいいで」
ありがたいことに父の勤め先は、バンビーノのスポンサー企業のひとつで、チームがBリーグ参入を果たして以降、ワンシーズンに一回か二回は、こうして翔太のもとまでチケットが回ってくるようになったのだ。
「試合いつなん?」
「さあ」
「チケットは?」
「そこ」
父が顎でしゃくったのは、ダイニングの壁に備え付けられた神棚だった。
飾られた三輪明神の神符やワンカップに並んで見覚えのない青と白の封筒が恭しく飾られている。中には二枚のチケットが入っていた。
B2リーグ
バンビーノ奈良VS仙台99ERS(ナインティナイナーズ)
ジェイ・ティーアリーナ奈良
「……次の日曜か」
つぶやきながら、カレンダーに目を移した。あと一週間もない。
翔太はチケットを神棚に戻し、パンパンと大きく二拍手、そして深々と一礼した。
現在、関西地区6チーム中5位という苦戦を強いられているバンビーノの勝利を祈願してから、リビングをあとにした。
―――さて、誰を誘うか。
自室に戻ると、翔太はベッドに寝転んで頭を悩ませはじめた。
さっき母がよこから、「春人君誘って行けば? どうせ暇やろ」と、口を出してきたが、暇なのは自分だけで春人には部活がある。
バスケに興味がある友人には部活があり、日曜に暇をしている友人たちはバスケに興味がない。悩ましい問題だった。
答えが出ないままぼんやりSNSを眺めていたが、いつの間にか寝入っていた。
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