第4話 転校生からはじまる異世界入門 4
月曜の朝。ホームルームを終えると、翔太はいつものふたりと連れだってPCルームに向かった。教室を出たとたん、長谷川がトイレに行きたいと言いだし、そのあいだ、のこされた翔太と中島は廊下の壁に寄りかかって手持ち無沙汰な時間を過ごしていた。
となりの教室の扉に視線を向けたのはまったくの偶然である。三組の担任―――たしか松浦という男の国語教師だ―――が、廊下へ出てくるのをなにげなく眺めていたのだが、次の瞬間、目に飛び込んできた光景に、翔太は愕然とした。その現実を理解できずに、一度はスルーしてしまったほどだ。声をあげたのは、二度見のあとだった。
「ええッ!」だったのか、「うわあぁッ!」だったのか、はたまた「ぎゃーッ!」だったのかはさだかではない。とにかく翔太は廊下に響き渡るほどの奇声を発し、さらに、おどろく中島の肩を乱暴にゆすりながらこう訴えた。
「どうしよう、中島! あいつや、あいつ! なあ、どうしよう、中島ってば!」
そう、松浦のあとを追うようにして教室から出てきたのは、まちがいなく走歩大会の日に出会ったあのおさげ女だった。
中島がポカンと口を開けて固まったのは仕方のないことだろう。
廊下の先を焦れたように指さす翔太だったが、きょとんとこちらを見つめる松浦と目があってしまい、あわてて言いなおした。
「じゃなくて! 先生じゃなくて、そのおさげ女!」
松浦と中島はしばし困惑の表情で見つめ合ったあと、翔太に視線を戻した。
「浅野のこと言ってんのか?」
そう言っておさげ女を呼びよせると、松浦はふたりに紹介した。
「今日うちのクラスに転校してきた浅野イヨさん」
紹介されたおさげ女が松浦のとなりに寄り添うように立った。
「どうも、三組に転校してきた浅野イヨと申します。よろしくお願いします」
おさげ女は会釈してから、翔太に視線を向けた。
突然の眩暈に襲われたのは、その射すくめるような目を見たときだった。
翔太は壁に手をついて、目を閉じた。心配する先生や中島の声はすぐに遠のき、走馬灯のような幻影が脳裏を駆けめぐった。
崇神天皇離宮跡で常軌を逸した光景に遭遇したり、狛犬がしゃべりだしたり、かと思ったら変な女に付きまとわれたり……妄想と現実との境界なくフラッシュバックする映像に、つかの間身動きが取れなくなってしまった。パニック状態と言って差し支えないだろう。
「おい、秋山?」
心配げな様子で中島が手を差し伸べると、翔太はハッとしたようにその手をふり払った。そしてきびすを返すと、一目散に逃げだした。
「ぅわあああッ!」
廊下に響き渡る声が自分の声だということすら理解していなかった。なんで走っているのかもわからないまま、翔太は教室のまえを駆け抜けていた。
「おい、どこ行くねん、授業は⁉」
背後で叫ぶ中島の声が聞こえた気がしたが、それでも足を止めることはできなかった。
無我夢中で階段を二段とばしで駆け下りる。途中二度ほどすべって転びそうになったが、そこは自慢の運動神経で持ちこたえた。
一階までくると、三年の教室のまえを端から端まで走り抜け、渡り廊下に出た。ドアを閉じてふり返る。おさげ女のすがたがどこにもないことを確認してから、やっと足をとめた。
なんの考えもなく、目的もなかった。おまけに呼吸ははげしく乱れていて、頭はしばらく働きだしそうもない。
とにかくいったん落ち着かなければ。
翔太はひと気のない渡り廊下を右往左往しながら呼吸を整えた。そうこうしているうちに、足は吸いこまれるように自動販売機に向かっていった。
百円玉を取りだし、投入する。紙パックを手にしたとたんがっくりと肩を落としたのは、出てきたのがコーヒー牛乳ではなく、いちごミルクだったからだ。どうやらボタンを押し間違えたらしい。
仕方なくいちごミルクで喉を潤しつつ、翔太は座れる場所をもとめてうろついた。
どのみちチャイムはとうに鳴っている。動揺が収まるまで、しばらくどこかに腰を据えて頭を整理しようと考えたのだ。
翔太はすぐに体育館の扉が一センチほど開いていることに気がつき、指を入れて力を加えてみた。
案の定、鉄の扉は簡単に開いた。鍵を閉め忘れたのは、朝練をしたバスケ部の一年である可能性が高い。
「
犯人を断定しつつ、翔太は中に入っていった。両手できっちりと扉を閉めた瞬間、背後で声がした。おさげ女の声である。
だが、翔太はもうおどろかなかった。ここまできたらもはやテンプレと言っていい。謎の少女が転校してくることではじまる青春ラブコメ、チートスキルを授かって異世界で活躍するハイファンタジー、なんでもござれ、覚悟はできている。
ゆっくりとふり返り、翔太はおさげ女と対峙した。
女は、感情のない顔でじっとこっちを見つめていた。
体育館にふたりきり。ゴクリ、といちごミルク味の唾を呑みこむ音がやけに大きく響いた。
たっぷりと間をとってから、おさげ女はひとことこう言った。
「1ON1」
予想外の言葉だったが、翔太はすぐに納得した。ラブコメでもファンタジーでもなく、スポーツモノというわけだ。
「いいで。1ON1受けて立ったるわ」あっさりと承諾したのは自信があったからにほかならない。むしろ自信しかなかったと言っていい。だからこそ、翔太はこんな条件を申し出たのだ。「それでおれが勝ったら、二度とおれに付きまとわへんって約束しろ」
「いいよ」おさげ女はこともなげに言った。「ちょうどわたしも同じこと考えてたの。もしもわたしが勝ったら、こんどこそ話を聞いてもらう。いい?」
あらためて考えてみれば、この女の要求ははじめからそれだけだった。
内容については見当もつかないが、もっと普通に登場してくれれば、話くらい聞いてやったかもしれない。事がここまでこじれてしまったのは、常軌を逸したおさげ女の登場に原因がある。
とはいえ、いまさらそんなことはどうでもいい。
1ON1で勝ちさえすれば、すべてそれまでだ。そして、自分より二十センチちかくも背のひくい女子に負ける気は、万が一にもしなかった。断わる理由はない。
そうと決まれば次なる行動は早かった。倉庫からボールをひとつ持ち出すと、ドリブルしたり、シュートを打ってみたりしながら手の感覚をたしかめた。準備運動はさっきの全力疾走で十分だろう。
ドリブルの音は、おそらく外にも漏れているだろうが、ばれたらばれたときのことだ。いまはなにより、この件を片付けることが先決である。
「じゃあ、一時間目終わるまでにとっとと終わらせようや」
ボールを操る手をとめ、翔太がおさげ女を見やる。
女はボールをさわるでも、ストレッチするでもなく、ぼんやりとコートの真ん中にたたずんでいた。
「おまえのオフェンスからでいいで」
そう言ってパスを出すと、女は胸に抱え込むようにしてボールを受けとった。
予感はしていたが素人であることは明白だ。そもそも経験者であったならこの身長差で1ON1を挑んできたりはしないだろう。
スリーポイントラインのあたりで、翔太はゲームがはじまるのを待った。が、女は目のまえで足をとめると、唐突にこんなことを言い出した。
「もうこの世にはいなくて、バスケットボールがすごくうまい人ってだれ?」
「は?」
とっさに聞きかえしたが、女は黙ったままじっとその答えを待っていた。
しかたなく、翔太は答えた。
「ウィルト・チェンバレンとか……?」
いくらバスケ経験者と言っても、すでに死んでいるようなむかしの選手まで詳しいわけではない。ただひとり思いついたのが二十年近くまえに他界した、このアメリカのバスケ選手の名前だった。
多くのNBA記録を保持し、『史上最高の選手ランキング』では、いまなおその名前がランクインされるほどのアメリカバスケ界のレジェンドである。
「もしもその人と1ON1やったら絶対負ける?」
「当たりまえや! 瞬殺されて終わりに決まってるやろ」
「そう……うぃると・ちぇんばれん、ね……」
そう復唱して女は目を閉じた。直後、変化が起こった。
女がまとう空気がピリリと張りつめ、全身からスターのような神々しいオーラが漂いはじめた。なにかが起こりそうな気配がビンビンと伝わってくる。
翔太は身構え、女の一挙手一投足に刮目した。
放たれたオーラは徐々に空間を侵食していき、やがてコート上を支配した。
おさげ髪と制服のスカートがふわりとめくれ上がったのが見え、つぎに目を開いた女と目があった。
ぐわんッ、と脳が揺さぶられるような感覚に襲われ、刹那、翔太のまえを、女が疾風のごときドリブルで抜きさっていった。
体に触れられてさえいないのに、圧倒的な存在感と気魄に押され、気がついたときにはフロアに座りこんでいた。
翔太はかろうじて首だけをまわし、女のうしろすがたを目で追った。
その瞬間、はっきりと理解した。ウィルト・チェンバレン。いま、まさにダンクを決めようとしているのは、ネット動画で見たウィルト・チェンバレンにほかならなかった。
一五〇センチほどの人間がダンクをしようとするなら、垂直で何センチのジャンプが必要だろう? よくわからないが、リングの高さは三○五センチ。月並みな言葉で言えば、それは羽でも生えているかのような跳躍だった。もはやジャンプというより、飛んでいると言ったほうがちかい。
女は豪快なダンクを決めて着地すると、くるりとふり返って翔太を見おろした。
「まだやる?」
愕然と見あげる翔太のまえに、女は身長二一六センチ、体重一二五キロ級の選手として立ちはだかっていた。
その口調はあくまで穏やかだったが、すでに戦意は喪失していた。
翔太の無言を敗北宣言と受けとったのだろう。女はにっこりとほほ笑んで言った。
「わたしはイヨ。きみの異世界適性を調べるために、しばらく行動をともにします。これからよろしくね、秋山君」
そして、イヨと名乗った女は満足げな笑みを残し、踵を返して立ち去っていった。
翔太はただ無言でその背中を見送った。
リングはギシギシといつまでも揺れつづけ、落ちたボールはむなしくフロアで弾んでいた。
一時間目終了のチャイムが鳴るのを待ち、翔太は教室に戻った。
足を踏み入れたとたん、さざ波のようなざわめきが起こった。遠慮がちな視線がそそがれるなか、足早に自分の席へとむかう。着席するや、駆けよってきてくれるふたりの存在がありがたい。
長谷川がさっそく切り出した。
「なにがあってん、大丈夫か?」
「ちょっと、気分悪くて……」
翔太はとっさに答えた。が、それがまちがいだった。
好奇心という輝きに満ちた長谷川の表情に気づいたときには、すでに引っ込みがつかなくなっており、このときからはじまるふたりの質問攻めに、翔太は「気分が悪かった」の一点張りで押しとおす羽目になってしまったのだ。
べつに秘密にしたいわけではないが、ほんとうのことを言っても嘘だと思われるだけで、いまと状況が変わるとも思えない。
一日じゅう逃げ回ることになるかと、このとき翔太はげんなりした。だが、事態はそれだけで収まらず、さらに悪化することになった。
放課後、担任に呼びだされていた翔太が職員室を出ると、長谷川と中島が廊下で待ちうけていた。
翔太の顔を見るなり、長谷川は興奮したようすで切りだした。
「聞いたで! あの転校生も一時間目さぼってたらしいやん」
聞くところによると、学年中の噂になっているらしかった。
当然と言えば当然だろう。転校初日の一時間目を抜けだす高校生がどこの世界にいようか。どんなヤンキーでも、ヤンキー漫画でさえ聞いたことがない。
「あの転校生知ってるコなん?」、「もしかしてつき合ってんの?」、「ふたりで何してたん?」、「なんで隠すねん?」。
長谷川の好奇心はとまらなかった。
翔太の頭はフル回転で言葉を探していたが、いまさらうまい言い逃れが思いつくはずもなかった。
「とりあえず、いまからファミレスで洗いざらい話してもらうから覚悟しとけ」
長谷川の言葉に、翔太が観念しかけたちょうどそのときだった。正義の味方よろしく春人が割って入ってきた。
「今日はおれらと先約あんねん。ごめんな、また誘ったって」
いつから聞いていたのかわからないが、絶妙のタイミングだった。
春人よ、ナイスフォローだ。そんな言葉で翔太はかつてのチームメイトを内心称えた。
というのも、中島は春人のような社交的で人気者タイプが苦手で、その中島ほどではないにしろ、長谷川も一線を引いていたいと思っている節がある。
案の定、爽やかスマイルを向けられたとたん、長谷川は手のひらを返したようにこう言った。
「ぜんぜん大丈夫やで。おれらの用事なんか大したことちゃうし。じゃあな~、秋山君」
長谷川たちが立ち去ったのを見届けると、春人は翔太に顔を向けた。
「今日、シュート練習つき合ってくれる約束、忘れてないよな」
その笑顔には反論を許さぬ凄味さえあった。完全に忘れていた、ということを明かす必要はないと判断し、翔太は素直にうなずいた。
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