第9話 幼馴染の法則 5

「今日は歩いて来たんやろ」別れぎわ、春人が成瀬に尋ねた。「だいぶ暗なってきたけど、大丈夫? ウチの親に送ってもらう?」

「大丈夫、大丈夫」

 成瀬が顏のまえで手をふって遠慮すると、ここぞとばかりに翔太が口をはんさんだ。

「おれ送るわ」

「えっ?」

 春人と成瀬は奇妙な表情を浮かべ、おどろきの声を同時に発した。翔太が率先してそのようなことを言い出したのがよほど珍しかったらしい。失礼な話だ。

「なんやねんその顏、おまえらええ加減にせえよ。このまえかって送ったったやんけ」

「そうやったな、じゃあよろしく」

 春人が取り繕うように言うと、成瀬もしぶしぶ同意した。

「ああ、じゃあ……ありがとう」

「なんやねん、その態度―――」

 さらなる罵詈雑言を口にしかけたが、これから謝罪しなければならないことを鑑み、思いとどまった。

 翔太は、すこし前を行く成瀬の背中を見ながら歩いていた。

 昼間の日差しはもう春のそれだが、日が暮れるとやはり空気は冷たく、風が吹くと自転車を押す手が凍えそうだった。

 しかし、見上げる空の、昼と夜とのグラデーションは切ないほど透きとおっていて、翔太はふと胸が締め付けられるような気分になった。周囲にあるのは田畑だけ、ここから見える空はとても広い。

「日、長くなったなあ」

 声に目をやると、成瀬も空を見上げていた。

「もうすぐ四月やからな……」

 翔太は視線を進行方向に戻した。

 徒歩十分ほどの道程をすでに半分ちかく無為に過ごしている。謝らなければと思いながらも、いざ口を開こうとすると、どう切りだしたらいいかわからないのだ。

「あッ!」成瀬が突然声を上げたのは、薄闇の先に煌々と輝くコンビニの光が見えてきたときだった。「流れ星!」

「え、どこ?」翔太は思わず空を見上げたが、そこには目を凝らさなければわからないほどの小さな星が静かにきらめいているだけで、当たり前かもしれないが流れ星は見えなかった。「まじで流れ星やったんか?」

 翔太が半信半疑の目をやると、成瀬は立ちどまり、顏のまえで手を合わせていた。

 どうやら流れ星を見たというのはほんとうらしい。ヘッドライトが照らし出した横顔は真剣で、とてもちゃかせるような雰囲気ではなく、翔太はだまって待つほかなかった。

「な、なに?」

 顔を上げると、成瀬はあわてたようすで言った。

 言われて翔太はハッとした。べつに見とれていたわけではないのだが、ぼんやりと成瀬のことを見つめていたのは事実だった。

 そのことを悟られまいと、口から出まかせで繕った。

「いや、流れ星にそこまで本気で願い事するヤツ初めて見たなって……」

「いいやんべつに!」

「まあ、べつにいいけど……おまえ結構かわいいとこあるねんな」

「はあ⁉ 何なんいきなり、キモチ悪ッ!」

 成瀬は言いながら、翔太の二の腕をパンチした。

「痛ッ! 人が褒めてんのにグーで殴るってどういうことやねん⁉ ほんま凶暴な女やな。しかも春人よりパンチ力あるんちゃう?」

 痛みに悶える―――半分は本気で半分は演技だが―――翔太を置き去りにして成瀬はすたすたと歩きだした。

「もうここで大丈夫やから、送ってくれてありがとう」

「おい、待てよ!」ふり向きもせずに去っていくその背中に、翔太はあわてて言った。「このまえのこと、態度わるかったの謝っとくわ」

「なんでわたしが怒ってたかほんまにわかったてんの?」 

 足をとめはしたが、成瀬はふり返らなかった。

「だから、おれ機嫌悪いとき周りに迷惑かけてるって長谷川とかに言われて、それで……」

「やっぱり全然わかってないな」そのつぶやきはとても小さく、翔太の耳には届かなかったが、成瀬は聞き返そうとする翔太を遮って言った。「でも、許したるわ! 今日はちょっとだけむかしの秋山見れたし」

「むかしの……おれ?」

「だから!」おうむ返しに聞き返すことしかできない翔太に、成瀬は焦れた。「ちょっとだけカッコよかったって言ってんの! なんでわからんねん、ほんっまに鈍いな!」

 言いながらふり返ったその頬は、暗がりのなかでもわかるほど紅潮していて、翔太が歩み寄ると、急に恥ずかしそうに顔を伏せた。

「成瀬……?」

 翔太は悩んだ。

 春人をはじめ、バスケ部時代を知る者はみな翔太がバスケ部に戻ることを望んでいるふしがある。いまの成瀬の発言もそれと同類のものと片づけてよいのだろうか。

 ―――いや、それはさすがに無理があるだろう。

 ふと見上げた空はすでに真っ暗で、露ほども胸を締め付けられることはなく、ほんの少し気が楽になった。大丈夫、雰囲気に流されることはない。

「流れ星……」と、翔太は出し抜けに言った。「さっきのほんまに流れ星やったん?」

「え?」成瀬は怪訝な表情を浮かべたが、すぐに力強く答えた。「流れ星やったよ絶対!」

 見上げる瞳が、まるで落っこちてきた星屑を閉じこめたかのように、キラキラと輝いて見えた。そしてその瞬間、鼓動が高鳴ったのを、翔太ははっきりと感じた。

 そうは言っても、成瀬の気持ちがもしもほんとうに自分にあったとしても、なにをするつもりもない。いまさら成瀬に恋愛感情を抱いたりはしない。おれと春人と成瀬、そんな三角関係なんて考えただけでもゾッとする。

「じゃあ、せっかくやからおれも願い事しとこ」

 翔太はそう言うと、唐突に両手を打ち合わせた。二拍手、そして深々と一礼すると、成瀬のツッコミが入った。

「いまさら遅すぎるし、神社じゃないんやからそれはおかしいやろ!」

「いや、いまのは一石二鳥を狙ったおれのファインプレーや」

「はあ⁉ なにわけわからんこと言ってんの?」

「ほら」と、翔太は北の空を指さした。「ちょうど向こうって三輪山の方角やろ、もし流れ星の有効期限が切れてたとしたら、おれの願い事は大神神社おおみわじんじゃに届くはずや」

「あんたそれまじで言ってんの? 願い事叶うどころか、罰当たるわ」成瀬は大仰にため息をついて見せると、「やっぱ前言撤回。ぜんぜんかっこよくない」

「え、前言ってなんのこと? そう言えばさっきおまえおれのことなんて言ったんやったっけ?」

「もう、うるさいな!」そのとき、成瀬はすこし悲しそうな顔を見せたが、すぐに笑顔を取り戻すとこう言った。「じゃあ、ほんまにここでいいわ、送ってくれてありがとう」

「ああ、うん。じゃあまたな、お疲れさん」

「お疲れ」

 笑顔のまま踵を返すと、成瀬は走りだした。その背中が闇のなかに消えると、翔太はひとりごちた。

「最低やな、おれ……」

 空気の読める成瀬なら、言葉の端々に込めた拒絶を察したにちがいない。

「波風立てず、ひたすら三年間を平穏に」

 翔太は家につくまで何度もくり返した。


 春人は、月曜日が来るたびに翔太を練習に誘った。

 そのたびあれやこれやと理由をつけて断っているのは、べつに成瀬と顔を合わせたくないからではない。ただ、練習を楽しみにしていると思われるのが嫌なだけだった。子供っぽいという自覚はあるが、思うものはどうしようもない。

 そんな理由もあって、翔太がつぎに練習に顔を出したのは、春休みに入ってからだった。

 その日の午後、翔太はふと思い立って家を出た。

 今日、行くとの連絡はしていなかったが、家に着くと裏のほうからボールの音が聞こえてきた。やはり、バスケ馬鹿は練習を欠かさない。

 しかし、いつもの場所に見知らぬ自転車が数台止まっていることに気がつき、ふと胸に不安がよぎった。

 藤崎家の子供は春人だけでほかにはいない。この家の客が自転車で訪ねてくるのは不自然な気がする。

塀の角を曲がったとたん、翔太は嫌な予感が的中したことを覚った。

いつもの場所にいたのは、いつものメンバーだけではなかった。春人を含めて男が三人、成瀬を含めて女が三人。佐倉井高校バスケ部の面々が、和気あいあいとバスケに興じていたのだ。

 その瞬間、足は足は止まり、根を生やしたように動かなかった。舌打ちを吐き捨てると、翔太はすぐに立ち去った。


 胸のうちに生まれた醜い感情は、夜になっても消えなかった。

 翔太はぼんやりと眺めていたスマホを投げ出すと、這うようにしてベッドにもぐりこんだ。

 頭に浮かぶのは、昼間の出来事である。いつもにも増してはしゃぐ春人と成瀬を思い出すたび、言い知れないドロドロとした感情がこみ上げてくるのだ。

 部に戻る気持ちにはまだならないが、それでも、ふたりと練習をしているうちにバスケの楽しさを思い出したのは事実だった。そんな想いを土足で踏みにじられた気がした。

 羨ましいなら、バスケ部に戻ればいい。やる気にさえなれば、すぐにでもあのなかに戻れるのだ。

 そんなことは自分でもわかっている。わかっているからこそ、それができない苦しみに苛まれているのだ。

 しばらく布団のなかで悶えていたが、やがて上体を起こすと、翔太はベッド下をのぞきこんだ。

 おもむろに収納ケースをひっぱり出し、直径三十センチほどのバスケットボールを模した色紙を手に取った。

 中学の引退試合後、後輩が自分たちに送ってくれたものだが、まともに読むことすらできないままここにしまい込んで、それきりだった。

 最初に目に入ったのは、翔太たちの次の世代でキャプテンになった田辺の《二回戦のときのブザービーター、メチャメチャかっこよかったです!》というメッセージだった。

 つい顔がほころんでしまうのは、そのブザービーターが秋山翔太というなんの変哲もないちっぽけな人間が、人生で主役になれた最初で最後の瞬間だったからだ。

 あのとき、佐倉井中学は残り時間十秒を切って一点差を追っていた。

 ブザービーターを狙っていたわけではなかった。ただひたすらゴールを目指してシュートを放っただけだ。

 ボールが手から離れたと同時に試合終了を告げるブザーが鳴り、翔太はとっさに審判をふり返った。

 人差し指と中指を立てる審判の手が目に入った。二点の得点を認めるというサインである。つまり、そのシュートが入れば二回戦突破ということを意味していた。

 翔太は祈るような思いでふたたびボールに視線を戻した。

 ボールがリングに吸い込まれた瞬間の歓声は忘れない。ベンチが総立ちになったのはもちろん、試合を終えた他校の生徒たちまでがどよめいたのがわかった。

 中学県予選など注目している人間はいない。学校の同級生だって知らなかったはずだ。それでも、数百名のバスケ部員たちが集う体育館で、あのとき翔太は確かに主人公だった。

 だが、人生が小説(フィクション)のようにはうまくいかないということを翔太はその直後に知ることになった。

 つづく三回戦、佐倉井中は七二対三五の大敗を喫したのだ。調子に乗ったぶんだけ敗退のショックは大きかった。

 チームとして見るなら互いのレベルに大した差はなかった。しかし、相手のPGは桁外れで、当時まだ二年だったその選手に三○点もの得点をあげられてしまった。相手PGの得点、つまりは翔太が許した三○点でもある。

 それは四十分間の地獄だったといっていい。オフェンスでもディフェンスでもマッチアップを余儀なくされた翔太は、ひと試合で精も根も使い果たし、自信という自身を根こそぎ奪われてしまったのだ。

 試合後、チームメイトが翔太に向けた眼差しは、あんな相手に敵うわけない、しょうがないよ、という同情だった。

 小説や映画といった空想の世界にいれば、どんなに恐ろしい展開になろうとも、傷つき打ちのめされるのは想像上の人物であり、自分ではない。引退後、試合の悪夢に苛まれる翔太はそんな安全地帯に逃げ込んだのだ。

 春人がいまだにバスケをつづけていられるのは、あのときベンチにいて試合に出ていなかったからだ。翔太はそう思っている。

 寄せ書きのなかでほとんどの後輩がブザービーターに触れているが、だれも最後の試合には触れていなかった。後輩たちのなかでもあの試合には触れられない空気が漂っていたのだろう。

 翔太は色紙をふとんの上に放り出して寝転んだ。

 不快な感情が頭と胸をチクチクと苛む。いままでちゃんと色紙の内容を読めなかったのは、こうなることがわかっていたからだ。

 いっそのことすべてを忘れて眠ってしまいたかった。しかし、どんなに布団にくるまっていようが、睡魔はいっこうにやってこなかった。 

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