ラストシーン -君と紡ぐ物語-
植木田亜子
第1話 転校生からはじまる異世界入門 1
いま自分は何番手くらいを走っているのだろう。
ふとそんな疑問がよぎったのは、佐倉井高校恒例マラソン大会の全工程の三分の一を過ぎたあたりだった。
肩を大きく揺らし、息を切らしながら、それでもひたすら走りつづけてきたのは、この三輪山一周マラソンをやり遂げないと進級できないというわが校の忌まわしい伝統のためだ。
とはいえ、要所要所で監視している教師の目も同級生の目もないとなれば、足は自然に、そして次第に走るから歩くへと変化していった。
ついに翔太の足が止まったのは三輪山の麓だった。
奈良盆地東端の山麓を走る古道『山の辺の道』の起点で、ハイキングコースとしても人気の場所である。
しかし、いま目のまえにひろがっているのは、開発途中のむき出しの土地とショベルカー、民家のベランダではためく洗濯物くらいのものだった。どんよりと曇った二月の空が殺風景に拍車をかけている。
もう一度あたりを確認してから、翔太はコースを離れた。
道の左ななめに向かって、Y字に入っていく石階段が目に入った瞬間、休憩がてら、うしろの集団を待つことに決めたのだ。
階段をのぼりきったとたん、別世界に入ったような静寂が翔太を包んだ。
敷地には鳥居もあるし狛犬もいるが、賽銭箱はなく鈴も吊るされてはいなかった。石碑に書かれているのは、『
建物の白い壁の大部分は格子状になっていて、屋根の棟木は瓦の重みに耐えかねて真ん中が沈み込んでいた。上に枯れ葉を積もらせているが、背後から覆いかぶさるように伸びる枝は常緑樹ばかりだった。
枯れ葉はどこからやってきたのだろう。そして、何対かの形の違う石灯籠が境内の片隅に無造作に置かれているのはいったいどんなわけだろう。
行きたいか―――。
声が聞こえた気がしたのは風のせいだ。突然吹き荒れた突風に、木々がざんざんと大きく波打っている。
打ちつける小石や砂に耐えながら風がやむのをじっと待った。が、つぎの瞬間、かざした腕の下からかいま見えた光景に、思わず自分の目をうたがった。
格子窓の隙間から枯れ葉が一枚風に乗って飛びだし、蝶のように舞い上がったのだ。風は本殿の中から外へ向かって吹きつけていた。
風と戯れながら、枯れ葉が景色の向こうへと消えていったあと、まるで蛍光灯を消したかのように、突然あたりが闇につつまれた。
石灯籠がふっと明かりを灯したのはそのときである。
ほの明るい灯がぼうっと浮かび上がらせる庭は、まるで下界から切り離された結界の中のようだった。
風に揺れる葉音がピタリと静止したかと思うと、重たい石を引きずるような音が聞こえた。すぐに狛犬がこちらをふり返った音だと気がつく。
ひと呼吸の沈黙のあと、二体の狛犬は同時にしゃべった。
「行きたいか?」
「行くってどこに……?」
なんの疑いもなく、そう訊きかえしていた。なぜ狛犬がしゃべれるのか、などとは微塵も思わない。
狛犬はひと言、「異世界に」と答えた―――。
翔太がぼんやりと思い起こしていたのは、お気に入りのラノベ作品、『邪馬台国論争に俺が決着を着けることになってしまったんだが』の冒頭だった。
平凡な人生を歩んでいた高校生が弥生時代を模した異世界へと入っていき、ヒロインのために勇者となってヤマト王権のいしずえを築いていくというファンタジーである。
この場所はまさしく異世界への入り口として描かれた場所だった。すぐ近くには、古事記や日本書紀に登場し、日本最古の神社として名高い大神神社がある。
翔太は頭をゆすって妄想を脳から追い出すと、石段の端っこに座りこんだ。両手をうしろに伸ばしてもたれかかり、足を投げ出す。
背後で人の気配がしたのは、ほっとため息をついたときだった。
翔太はすくみ上り、声にならない悲鳴を口から漏らした。
恐る恐るふり返ったとたん目に入ったのは見知らぬ少女である。
紺のダッフルコートに黒っぽいスカート。素足に白いハイソックス。いまどき珍しく、長いおさげ髪を両肩に垂らしていた。学生っぽい身なりだが、見覚えはない。
「きみ、異世界に興味ある?」
それが少女の第一声だった。
翔太は背後をふり返ってみた。
おおかたの予想どおり、だれもいない。人影はおろか、車一台通らない裏さびしい光景がひろがるばかりである。
いったいだれに話しかけているのだろう。本人にしか見えないなにかに話しかけているのか、もしくは変質者という可能性もある。だが、関わるべきではないという点においては同じこと、早々に立ち去るのが上策である。
翔太は視線を合わせないよう、うつむき加減に顔を正面にもどした。にもかかわらず、目があってしまったのは、音も立てずに至近距離に忍び寄られ、顔をのぞきこまれていたからだ。
「ねえ、異世界に興味ある?」
ふたたび問われて息を呑んだ。
「いえ」ブンブンと髪をふり乱しながら、翔太は首をふった。「いま学校のマラソン中なんで……」
後じさりつつそう言うと、翔太は踵を返して階段を駆け下りた。とてもじゃないがふり向いてみる気にはならない。
コースに戻ると、ぞわぞわする気持ちのまま、翔太は真面目に走りつづけた。
学校が見えはじめたのは、それから約一時間後のことだった。
校門を入ると人だかりができていた。一年生の人数は二百五十人ほど、その半数ちかくがすでに戻ってきているようだ。
昇降口まえの階段に座り込んでいる者たちもいれば、おそらく運動部の連中だろうが、やたらテンション高く騒いでいる者たちもいる。
彼らは一様に割り箸と使い捨ての白いお椀を手にしていた。育友会がおしるこを振る舞っているのだ。
甘い香りのするほうへと足を向けると、仮設テントの屋根の下に知っている顔を見つけた。藤崎春人。小学校のときからの友人である。
声をかけるまでもなく、春人はすぐに小走りに駆け寄ってきた。十キロも走歩した直後だというのにこの元気さは、さすがに現役バスケ部員といったところか。
だが、走り出したとたん、持っていた椀からおしるこの汁が飛び跳ねてジャージの腹に染みを作った。
「そらそうなるやろ、ほんまどん臭いな……」
翔太はついため息を漏らしたが、いつものことなので気にも留めない。
とはいえ、アイドルのような顔立ちとモデルのような体型、そして愛想の良さを持ち合わせ、小学校のときから女子には大いにモテる。
中学時代の春人は、部活中シュートを外してさえ、「きゃ~、藤崎カワイイ~」などと黄色い声援をもらえるほどの人気ぶりだった。しかし、かえってそれがチームメイトから、「イケメンって得やんな、ミスってカワイイとか言われんねんから」と、陰口の対象にされていたことを、同じバスケ部だった翔太は知っている。なんせそのとき「ほんまそれな」と相槌を打ったのは他ならぬ自分なのだから。
「ああ~」春人はジャージの染みを気にしながら、翔太に苦笑を向けた。
その苦笑いひとつにも、品の良さを感じさせる華が春人にはあった。向かい風になびいてツヤややかに輝く色素の薄い髪、白い肌にくっきりとした二重、百八十センチを超えるほっそりとした体形。天真爛漫な笑顔で駆け寄ってくる様は、どこか飼い主を見つけたゴールデンレトリバーを彷彿とさせた。
翔太の前で足をとめると、春人は照れ笑いを浮かべながら言った。
「ごめん、ちょっとこぼれたけど……」
差し出されたおしるこを見つめながら、翔太が尋ねる。
「自分のぶんは?」
「おれはもう食べた」
「あっそ……」
気のない返事を返してお椀を受け取ると、翔太は冷めかけたおしるこを黙々とすすった。
春人はその間ずっとジャージについた染みを気にしていた。
「藤崎」と、呼びかけられたのは、翔太が最後の白玉を口に入れたときだった。
声の主は成瀬夕夏。おなじ中学の女子バスケ部出身でいまもバスケ部に所属している、バスケ馬鹿という点において春人と同類の人種である。しっかり者で明るく、物おじしない性格で中学では副キャプテンを務めていた。
成瀬は、春人のジャージの染みに気がつくと、すぐにどこかへすがたを消した。ふたたび戻ったときには、手にふきんを握っていた。
「これ、借りてきたったで」
「ありがとうッ!」
成瀬から布巾を受けり、春人はこまめに染みをこすりはじめた。
なにかと気が合うらしく、成瀬はむかしから姉のように春人の世話を焼いていた。ふたりがつき合うのも時間の問題だと思っていたが、自分が知る限りそういった気配はまだない。
ジャージを拭き終わった春人が切り出した。
「月曜、シュート練習つき合ってくれる約束、忘れてないよな」
「え~。あれホンマにやんの? 今日十キロも走ったのに?」
「それとこれとはぜんぜん関係ないやん!」
「まあべつにいいけど……」
翔太が答えると、つづいて成瀬が会話に入ってきた。
「シュート練、私も参加したい」
「は? なんで成瀬が来んの?」
露骨に嫌そうな声を出す翔太に、成瀬が仏頂面を向ける。
「女子も月曜練習ないから、私も練習したいし……」
「部活ないってことは休めっていうことちゃうんか」
抵抗を試みたものの、成瀬はあっさり翔太を見限ると、春人に視線を向けた。
「なあ、いいやろ藤崎。私リバンドしたるで」
「ほんまに? それ助かるわ~」
結局、ふたりの間で話はまとまってしまった。
熱血バスケ馬鹿ふたりと自主練とは、考えただけで疲れてくる。翔太は人知れずそっとため息を吐いた。
「翔太、戻ろう」
声に顔をあげると、春人と成瀬が怪訝な表情でこちらをうかがっていた。
いつの間にかすべての生徒が学校に戻ったらしく、教師たちが、「教室に戻れ」と声を張り上げていた。
三人はのそのそと自分たちの教室に向かって歩き出した。
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