第22話

 不意に、ヴァレリーの目尻から涙が溢れた。目尻がつり上がり、こめかみに青筋を立てたその表情は憤怒と悲哀が混じり合い、いまにも崩れそうに危うかった。

「いっそこの手であんたを殺そうって……俺が一度も考えなかったと思うわけ?」

 ヴァレリーは低い声を、軋る歯の間から押し出すように続けた。

「何度考えたか知れない。俺はそんなこと考え付かないと思ってたか? それとも、あんたが許可しない限り実行に移さないと? そう思うなら、あんたはやっぱり分かってない」

 流れる涙が白い顎を伝って胸に落ちる。

「やろうと思えばできたんだ。だってそうだろ、あんたはいつもすぐそこにいたんだから。実際、何度かやりかけたよ。でも、朝起きて隣に死体が転がってたら俺がやったってすぐに知れ渡っちまうだろうし」

 頬を歪め、からかうように笑った顔がすぐにまた暗いものになる。浮かんだ笑みは既に消え、諦念だけが目元に滲んだ。

「──俺にはできない。あんたの死体を目にするくらいなら、この先二度と会えないほうがずっといい」

 涙で潤んだ目と視線が絡んだ瞬間に、腹の底で何かが弾けた。

 カエンを失うのが怖いから、先に死にたいというヴァレリー。カエンの下で身をくねらせ、喉を晒して喘ぐヴァレリー。表情一つ変えずに敵兵の内蔵を引き摺り出して踏みつけるヴァレリー。馬の背で揺られながら、仲間の冗談に笑うヴァレリー。

 様々な彼の顔がいっしょくたに目の前に浮かび、霧散した。

 力ずくで引き寄せた身体を押し潰すように圧し掛かる。抗議の声も出せずに目を瞠るヴァレリーの顔に、怯んだような表情が一瞬浮かんだ。

「お前に正式な名を告げる。我はカエン・オル・スレン・アーハザード、カルグーン騎馬王国四宰相家の一、アーハザードの次男」

 ヴァレリーの顔を正面から見つめ、カエンは久しく口にしていなかった正式な名前を口にした。カーダン語で言った後、同じことをカルグーン語で繰り返す。同じ綴りをカルグーン語で発音すると、カエンはカイエーン、アーハザードはアーンハッザールド、と聞こえるらしい。かつて二つの音の違いに感じた違和感は既になく、今はどちらも紛うことなき己の名だ。

「……四宰相家? カルグーンの──あのアーハザード……」

 ヴァレリーはぽかんと口を開けてカエンを見た。

「そうだ。カルグーン一の武勇を誇る氏族にして、西方では特に悪名高い野蛮なアーンハッザールドだ。カルグーン黒狼王、西方では蛮族の王として知られる彼はアーンハッザールドの者。我らの氏族名、もっとも偉大な父祖たちの名、そして上天の神に懸けて誓う」

「誓う? 何を──」

「ヴァレリー・ユーレフ、お前を殺す」

 ヴァレリーが口を開けて何か言いかけ、喉をつまらせたような音を立てた。


 月が雲間に隠れたのか、部屋が一時闇に沈んだ。

 ヴァレリーのシャツが僅かな光を映してぼんやりと浮き上がる。カエンは乱暴にそれに手を掛け、布を縦に引き裂いた。ロザリーヌが用意してくれた高価な布地が意外に甲高い音を立てて千切れる。手の中に残ったその切れ端を、呆気に取られて身動きしないヴァレリーの手首に巻き付けた。

「──!!」

 傭兵としての感覚が蘇ったか、ヴァレリーが膝を振り上げてカエンの急所を狙ったが、膝が身体に食い込む前にヴァレリーの腹に拳を叩きこんだ。咳き込むヴァレリーの手を無理矢理頭上に引き上げて、引き裂いたシャツの布地で縛り上げた。

 顎を上げさせ後頭部を壁につけさせると、ヴァレリーは酷く下品な悪態を吐いた。

 カエンはベルトに挟んである短剣を素早く取り出し、鞘を払って床に投げ捨てた。月光が戻り短剣の刃が光る。ヴァレリーの目が見開かれ、カエンが押さえつける手首が石のように強張った。

 短剣の先でヴァレリーの首筋をなぞる。ヴァレリーは瞬きせず、混乱とごく僅かな怯えを滲ませた瞳でカエンを凝視した。無残にも裂けた布地を刃の先で避け、鼓動を産み出すその場所へと冷たい鋼を滑らせた。

「カエン」

 ヴァレリーの囁きは平板で、唇は震えているのに声は強く澄んでいた。カエンはそれには応えず、カルグーンの言葉を口にした。完璧に覚えてはいないが、この際それはどうでもいい。

 低い詠唱が鎮魂の祈りにでも聞こえたのか。ヴァレリーが長く、ゆっくりと息を吐く。押さえつける身体から力が抜け、瞼がゆっくりと閉じられた。跳ね上がっていた鼓動が速度を落とし、ごく普通の間隔で打ち始めた。

 短剣を持ち上げると、ヴァレリーが目を開ける。穏やかな表情を湛えていたそれが、突然かっと見開かれた。

「ちょっと、カエンあんた何やってんの!!」

 カエンの短剣の先は、カエンの舌の上を滑っていた。

「俺を殺すって言ったろ! それは俺のじゃない!」

 ヴァレリーが喚くが、ヴァレリーの胸を刺し貫く気など元々ないし、自分の舌を切り落とすつもりも勿論ない。皮一枚を切っただけだ。

 舌の上に血の線が盛り上がり、金気臭さが鼻腔に届く。戦場で嗅ぎ慣れた血の匂い。それは死の匂いでもあるが、転じて生の匂いでもあった。

「カエ……」

 血の垂れる舌を、ヴァレリーの胸の上に押し当てた。

 短剣の先で示したそこ、命を司る場所へ。舌を押し当てた白い肌のその向こう、ヴァレリーの体内で脈打つ力を確かに感じた。

「何──」

「本来婚儀の礼には家畜の血を用いるが、ここには家畜がいないからな」

「何が、何? 家畜?」

 カルグーンでは花嫁の婚礼の衣裳に家畜の血で印をつける儀式がある。古代からの風習で、夫が花嫁の所有権を主張するためのものらしい。かつては肌に直接血で文様を描いたという話だが、カエンが子供の頃に見た婚礼では、既に今の様式になっていた。

「婚礼の祝詞も自分で唱えるのはおかしいし……そもそも文句の半分は怪しいが、まあいいだろう。間違ったって、どうせお前にカルグーン語は分からんしな」

 カエンは短剣を部屋の隅に投げ捨て、ヴァレリーの顎を掴んだ。

「お前は女ではないが、ヴァレリー・ユーレフ、お前を妻と同じに遇すると約束する」

「はあ? 頭おかしくなったんじゃないの!? あんた俺を殺すってさっき……妻って誰だ!? 国に妻がいるのか、あんた? 何なんだ一体」

「俺の持てるものすべてを与える。馬も、家畜も、財産も。その代わり、お前は生涯俺のものだ」

「家畜だあ!? 要らねえよ、そんなもん──」

「また俺から逃げ出そうとすれば、殺す。もしも首尾よく逃げ出したら、地の果てまで追いかけて殺す。お前が敵の捕虜になったら、敵陣に忍び込んで殺す」

 ヴァレリーの耳朶を噛み、カエンは低く囁いた。耳の中に舌もろともに言葉を押し込むように続ける。

「やめ──っ」

「俺を裏切りどこかの女と逃げたら、惨たらしく殺す」

「……っ」

「俺が死ぬときは、その前に必ずこの手でお前を殺す」

 ヴァレリーの顔を覗き込むと、呆気に取られたのか、まるで子供のような無防備な表情がそこにあった。見開かれた瞳からは、驚き以外の何も読み取れない。たったそれだけのことに、カエンの胸は酷く痛んだ。

「死なないと約束することはできん。だが、死の前に俺の手でお前を殺すと約束することならできる」

 実際のところは、死なないと約束するのとそう変わらない。それはよく分かっていた。

 ヴァレリーを顧みる間もなく、矢尻に首を射抜かれ斃れるかもしれない。それでも、カエンは必ずやり遂げるつもりでいた。己が最後の息を吐きだす前に、必ずヴァレリーの命を奪うのだ。

「だから、お前が俺を失うことはない」

「そんなの絶対無理に決まってる」

「決めつけるなよ」

「結局俺は毎日怯えて暮らさなきゃいけないってことだろ」

「慣れろ」

 カエンは言いざまヴァレリーを横抱きに抱え上げた。大股で部屋を横切り、乾草の束を投げるように寝台の上に放り出す。驚きのせいか声も上げないヴァレリーを仰向けに押さえつけて圧し掛かった。


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