第21話

 椅子の上で目を覚ましたカエンは、部屋の扉に視線を向けた。

 シチューを平らげ少し落ち着いた後も、結局ヴァレリーの様子を見に行くことはしなかった。混乱した内心を落ち着かせようと部屋の中を歩き回れば目は回るし頭の回転は止まる。そう思って椅子に腰を下ろし、考え事をしながら壁を睨みつけていた。

 そうこうしているうちにいつの間にかうたた寝をしたらしい。蝋燭が燃え尽きた部屋は既に暗くなっていた。

 微かな物音や気配でも目が覚めるのは傭兵なら誰でも同じだ。ドアが音もなく開くのを見つめながら、カエンは組んでいた脚を解いた。

 鎧戸は閉めていなかったから、弱い月明かりがぼんやりと室内を照らしている。ヴァレリーの着ているシャツの白が闇の中に浮き上がるのを眺めながら、カエンはゆっくりと身体を起こし、硬い椅子の上で居眠りをしたせいで凝ったうなじをゆっくりさすった。

 見張り──ヴァレリーの部屋の前の、だ──を任せていたルーは、とうに元の仕事に戻らせていた。あれだけ世話をされておきながらこっそり脱け出すことはヴァレリーの良心とプライドが許さないだろうと思ったからだ。知らないことがたくさんあったとは言っても、その程度には相棒のことを知っていた。

 カエンは猫のように歩み寄るヴァレリーの灰の瞳の、その底まで見透かそうと目を凝らした。白い肌、表情のない美しい顔。薄いシャツの下に透けて見える、刺青に覆われた腕の輪郭。弱い月明かりに照らされ、瞳と同じ淡い銀色に見える栗色の髪。

 ヴァレリーは一言も発せずにカエンの前まで来ると、左手をゆっくり上げた。剣を握るとは思えないほっそりした長い指が、カエンの顎の骨をそっと撫でる。掌が首筋を覆い、指がうなじに食い込んだ。

 椅子に腰かけたカエンの開いた脚の間に立ち、ヴァレリーはカエンの首をそっと抱いた。吐息がカエンの髪を揺らす。落ち着いた呼吸と鼓動が部屋の静寂の中、耳に響いた。

「……正解は、どれだ」

 カエンが呟くと、ヴァレリーが身じろぎした。

「突っぱねればいいのか、怖気づいて逃げ出せばいいのか。欲望のままお前を抱いて、所詮目新しい快楽目当ての愚かな男と思われればいいのか」

 ヴァレリーは答えない。カエンはヴァレリーの腰にそっと手を回した。反射的に腰を引きかけたヴァレリーの筋肉が縮み、一瞬後に力が抜ける。その瞬間、カエンはヴァレリーを力いっぱい突き飛ばした。

 後ろによろめいたヴァレリーを追うように立ち上がり、あっという間にその胸倉を掴み上げた。ヴァレリーを押しながら壁まで突き進み、激しく壁に叩きつける。ヴァレリーが獣のような唸り声を上げてもがいたが、カエンの方が体格も膂力も優っていた。

「それとも、こうすれば俺が呆れて背を向けると?」

 真剣に向き合おうとしている相手に対して軽々しく身体の関係を持とうと迫れば、軽薄だと思ってもらえると思ったのか。

 ヴァレリーは答えず、沈黙は肯定であるこということを証明した。ヴァレリーにしては回りくどいが、気持ちは分からないでもない。黙って去ったのに追いかけて来たのだから、同じことをしてもまた追いかけてくると踏んだのだろう。

 カエンはヴァレリーの腕を掴み、その顔を覗き込んだ。美しい顔には相変わらず表情がない。

「ヴァレリー」

 返事はなかった。泣いていた、というベアトリスの言葉が蘇る。自分もその場にいたかったとふと思う。血塗れで嗚咽を漏らすヴァレリーを抱き締めてやりたかった。

「耐えられなくなったら、お前が殺せ」

 カエンが真正面から顔を見据えて言うと、ヴァレリーの灰色の瞳が眇められた。間近で覗き込んだ双眸には、青や緑、茶色の筋が入っている。結氷した湖はこんなふうに見えるだろうか。氷の向こうの水や藻が陽を受けて煌めき見る者を誘うのなら、その光景はさぞかし魅力的に違いない。

「──何?」

「俺の死体を探してうろつくのが嫌なら、いつかそうなると怯えるのに疲れたら」

「……」

「耐えられなくなったら、お前がその手で俺を殺せ。だから、それまでは傍にいてくれ」

 ヴァレリーはゆっくりと目を瞬き、そして、カエンを睨みつけて低く唸った。

「──同じことだろ」

 ヴァレリーの声は僅かに震えていたが、それが何故なのか、カエンにはよく分からなかった。掴んだ腕の筋肉は固くこわばり、ヴァレリーの緊張を表している。

「何が?」

「あんた、何言ってんの。馬鹿なんじゃないの?」

酷く刺々しい声でそう言いながら、ヴァレリーは吐き捨てるように続けた。

「俺が殺そうが、ラキタイの兵士の矢に射られようが、あんたが死ぬことに変わりない」

「死なないと約束はできない。誰でもそうだ。分かっているだろう」

 カエンはヴァレリーの腕を掴んでその身体を軽く揺さぶった。誰もがいつか命を落とすが、それがいつかは分からない。戦場に立つ兵士は尚のこと。ヴァレリーをここに留めるため、安心させるために嘘をついても意味がない。

「だから、せめて俺のすべてをお前に預けると言っているんだ。それだけでは不満か?」

「何だよ、急に」

「お前が考えていたことに、ほんの僅かも気付かなかったのは俺の不明だ。そのことに関して言い訳する気はないが──知ったばかりでは重みがないか。幾らかの歳月、例えば二年、お前には何も告げずに悩まなければ信じてはもらえんのか。そうでなければお前を大事に思う権利もないか」

「そういうことじゃ──」

「お前に二度と会えないかもしれんと思ったら肝が冷えた」

「そんなの」

「厩番に笑いかけたと聞いて腹も立った。誰にもお前の笑う顔を見せたくない、あれは俺のものだと思った。だから、俺の生死はお前に預けると言ってるんだ」

 手を滑らせ、ヴァレリーの手首の骨を握り締める。ヴァレリーはカエンから顔を背けたが、カエンは握る指に力を籠めた。決して華奢とは言えない、しっかりとした太い骨。だが、壊れそうなものなど欲しくはない。

 館の、どこか遠くで音がする。誰かがドアを開閉する。女たちの小波のような笑い声。客が軋ませる寝台の音。窓の外を行く馬の蹄鉄が石畳に当たる音。様々に重なり合う微かな音が部屋を取り巻いていたが、カエンとヴァレリーの周りには音がなかった。お互いの微かな呼吸の音は、部屋の隅へと漂い消えて行く。

「カエン……あんた、ほんとに人がよすぎるよ」

 ヴァレリーは呻くように言って、背けていた顔をカエンに向けた。真正面から睨みつけられ、口に出しかけた何かが喉の奥で痞え、止まる。ヴァレリーの口調はまるでカエンを憎んでいるかのように重く、冷たかった。

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