第20話

 ロザリーヌは夕食を用意する、と言ってカエンを二階の空き部屋のひとつに押し込めた。ヴァレリーはおとなしくしているのか、今のところ廊下の端から騒ぎは聞こえてこない。手持無沙汰でうろうろ歩き回っていたらドアが開き、振り返ると、華やかな笑みを浮かべた美しい女が立っていた。

「まあ、まるで檻に閉じ込められた獣のようじゃないの、カエン」

「ベアトリス」

 ほがらかに笑い、ベアトリスは持っていたパンの籠をテーブルの上に置いた。彼女の後から部屋に入ってきた賄婦らしき女はむっつりしたままシチューの鉢をテーブルに載せ、前掛けのポケットから木のスプーンと果物をいくつか取り出して乱暴に置くと、礼を言ったカエンに何も返さず出て行った。

「……俺は彼女に何かしたか?」

「いいえ、怒っているわけではないの。彼女は食材意外目に入らないから、愛想笑いしようなんて思いつきもしないだけよ。聞こえるのは食材が囀る声だけなのね。誰に対してもああだから気にしなくていいわ」

 ベアトリスはにっこり微笑み、椅子のひとつに腰を下ろした。瞳の色と同じ、緑色のドレスがさらさらと床を擦る。燃え立つような赤毛に緑の瞳、まろやかな白い肌には微かにそばかすの痕がある。

「うろうろ歩き回るのをやめて、座って頂戴」

にっこり笑ったままぴしゃりと言われて、カエンは渋々ベアトリスの向かいの椅子を引いた。見た目は可憐で儚げだが、ベアトリスは決して弱い女ではない。

「シチューは絶品よ。食欲がなくても食べておいたほうがいいんじゃなくて? 傭兵さん」

「ああ──」

「後であなたの傭兵さんにも同じものを届けるわ。食べてくれるかどうか分からないけれど」

「別に、俺のでは」

「誤魔化さなくてもいいわ。ロザリーヌから話を聞いたの、常連さんが一人減るわよって。でも私があなたにあげられるのは束の間の安らぎだけだもの、仕方がないわよね」

 ベアトリスはしかめ面のカエンを見て苦笑した。

「そんな顔しないの。私はあなたに何も求めていない。あなたが私に何も求めていないのと同じよ。ただ、お得意様だったから残念ではあるけれど」

「……それは、すまないな」

「途中でマリアンヌが来てくれたから代わったの。ほとんど洗い終えていたけど──もう逃げ出さないと思うわよ。そんな元気は残っていなさそうだったもの」

 ベアトリスは華のような笑顔を見せる。カエンはスプーンをシチューに突っ込んで掻き混ぜた。生家でそんなことをすれば家令のサラールがすっ飛んできただろうが──家令は使用人の監督が仕事だが、サラールは子供たちの監督も任されていた──、今はベアトリスが眉を顰めただけに終わった。

「いやあね、カエンったら」

 腹立ちまぎれの不作法で多少溜飲が下がったところでシチューを口に運ぶ。確かにそれは素晴らしい味がした。

「……俺は厄介な荷物なんか捨てて、シチューのためだけに彼女と愛のない結婚をするかもしれん」

「残念ね。あなたは彼女のお眼鏡には適いそうもないわよ」

 カエンは肩を竦め、パンをちぎって口に入れた。ベアトリスは頬杖をつき、カエンの顔をじっと見た。

「彼──あなたの傭兵さんは何て言ったかしら? マリアンヌのお客さまよね。ええと、ヴァル?」

「ヴァレリー」

「ああ、そうだわ、ヴァレリー。マリアンヌ、あの子は彼に首ったけなのよ。アレシア山より高いプライドを持ってる子だから、本人には気付かれないようにしているけれど。いつか彼と一緒になれるかも知れないって夢を見てたの。夢が壊れて残念だし、可哀相だわ」

 カエンはシチューを口に運ぶのを止め、ベアトリスの視線を受け止めた。彼女の淡いグリーンの瞳が一瞬揺らめき、そしてまた、揺るぎないものへと変わる。

仲間への愛情がヴァレリーへのささやかな敵意を産んだのか、それとも、ヴァレリーをマリアンヌの手から奪い取ろうとしているカエンへの敵意へ変わったのか。どちらも的外れかもしれないが、彼女の胸の内など分からない。

 ヴァレリーは、間違いなくマリアンヌの想いに気付いているだろう。だが、多分、それを悟られることはしていまい。今なら分かるが、ヴァレリーにとって娼婦は捨てた過去、捨てた自分の一部なのだ。生活のために身体を売った屈辱は、未だにヴァレリーを苦しめているのだろう。

 ヴァレリーの境遇と「深紅の薔薇」の女性たちの境遇はほんの少し違うかも知れない。もしかすると、何の違いもないかもしれない。矜持のあるなし、諦め、希望。何がどれだけ似ていてそうでないのかは誰にも分からない。恵まれた家庭で育ち、苦労らしい苦労を知らないカエンには特に。だが、理解はできないとしても、ヴァレリーが彼女たちを娶ることだけはないのは分かっていた。

 そうベアトリスに言って聞かせたところで意味はない。カエンはベアトリスから目を逸らし、シチューの残りをスプーンで掬った。

「──君が怒っているのは分かるが、どうしようもない」

「怒ってはいないわ」

 ベアトリスの声は静かで、責めるような響きはなかった。

「あなたが男に興味を持ったことがないのは、私もよく知ってるのよ、カエン。それなのに……そうね、あなたが気晴らしとか、物珍しさで彼を我がものにしているなら、マリアンヌの肩を持って何としてもあなたと彼の間を裂いたかも」

 首を傾げて微笑むベアトリスのカールした赤毛が、首筋を流れる。彼女は美しく、賢い。勿論ベッドの中でも巧みだったし、相性もよかった。女性としても人間としても好意を持っている相手だ。二度と彼女を抱くことはないだろう、今更ながらそう思うと、漠然とした寂しさを覚える。

「君は怖いな」

「男にとっては、女はみんな怖いものよ。ねえ、カエン。私にはできないとは思わないでね。それが正しいと思ったら、たとえ相手があなたでもやったわよ」

「ああ──」

「でもね、血塗れで泣いている彼を洗いながら思ったわ。ああ、これはカエンが参っちゃうのも仕方ないわ、って」

 ヴァレリーが泣いていた、という部分に驚き目を瞠ると、ベアトリスは手を伸ばし、カエンの手をそっと握り締めた。

「マリアンヌが想っている彼は、彼自身が女に見せたいと思う部分だけで創り上げた彼なのね。マリアンヌと彼はうまくいかないわ。彼は、彼女では駄目なのよ」

「……だが、俺ならいいということもない」

 そう吐きだすと、ベアトリスは綺麗に整えられた眉を引き上げた。

「随分弱気じゃないの、戦場では鬼だの悪魔だのと呼ばれるあなたが」

「呼んでいるのは俺を知らん奴ばかりだよ」

 思わず長い息を吐く。ベアトリスの親指が、宥めるように手の甲を軽くさすった。

「あなたは彼を求めているのでしょう」

「多分」

「まあ、多分ですって?」

 ベアトリスはぐるりと目を回してみせた。

「今更何を言っているのよ。彼を追いかけて市の露店を壊滅状態に追い込んだって聞いたわよ。そんなに必死で連れ戻したくせに自分の想いの強さも分からないなんて、男って本当にどうしようもないわね」

「ついこの間まではただの相棒だと思っていたんだ。確かにあいつと寝はしたが、たった一日二日で──」

「時間が問題? 彼に対する気持ちを自覚するのが早すぎると言いたいの?」

 微笑み、ベアトリスは肩に落ちた巻き毛を指先で払った。

「突然目が開かれることだってあるはずよ。あなたが彼を失いたくないと思ったならそれが正しい」

「何が正しいのか分からないんだ」

 眉を上げたベアトリスの手をそっと押しやり、パンを手に取る。

「あいつは俺から逃げ出そうと必死になってる。それに、俺のことを大事だとはいうが、それとこれとは……」

「まあ」

 ベアトリスはおかしそうに声を上げて笑った。頬に薔薇色がさし、目尻に微かな皺が寄る。こんなにも美しい女にも感じない何かをヴァレリーに感じるのは、果たして正しいことなのだろうか。そんなことを思うカエンに笑みを含んだ色っぽい流し目をくれ、ベアトリスは優雅に椅子から立ち上がった。

「あなたって意外に朴念仁ねえ、カエン。彼が逃げ出そうとしてるなんて、そんなの本気じゃないに決まってるわ」

「そんなことは──」

「彼もそう思い込んでいるの。でも違うわ、心の底からではないのよ」

「どうしてそう判断できる?」

「判断はしていないわ。男とは違うもの。女はそう感じるだけ、少なくとも私はそう」

 ベアトリスはカエンに手を差し出した。カエンがその手を取って立ち上がると、ベアトリスはカエンの手を引き、一歩彼女の方へ──扉の方へ進ませた。

「怖いのはどちらも同じよ。怖気づいているのはあなただけじゃないわ、勇敢で鈍い傭兵さん。腹ごしらえが済んだら彼を口説きに行きなさい。拒否されたからってすぐに撤退しては駄目。いいわね?」

「美しい方のご忠告とあらば」

 ベアトリスはもう一度笑い、カエンの手を離して部屋から出て行った。

 二人の女は、それぞれ違ったことをカエンに言った。他人の意見に容易く左右される性質ではないし、大事なのは自分がどうしたいかだ。分かってはいるが、正直迷う。

 理性はロザリーヌの言う通りヴァレリーを解放しろと言い、感情はベアトリスの言うようにヴァレリーを手に入れろと騒ぎ立てる。どちらも筋の通った主張に、同時にどちらも間違った主張に思えた。

 カエンは腰を下ろし、シチューを口に運びながら、ヴァレリーと己の本心へと思いを馳せた。

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