第5章

第19話

 カエンは背後から聞こえる下品極まりない悪態に耳を塞いでドアを閉め、階段を降りた。

 ロザリーヌの応接室に入り、むさ苦しい男三人と顔を突き合わせる。使いに出した少年が連れてきた三人の傭兵は、カエンの話に顔を輝かせた。

エシャレールへ戻る道すがら、彼らは何故カエンがここまでよくしてくれたのかと首を捻ることになるのだが、カエンにとっては別に彼らのためにしたことではない。ヴァレリーとともに隊商についていくことも考えないではなかったが、砂漠の国に向かうことがヴァレリーの心底からの望みかどうか、判断しかねていた。

 三人を帰し少年に礼を渡すと、どっと疲れた。豪勢なビロード張りの椅子に沈み込んで溜息を吐くと、ロザリーヌの声がした。

「カエン、お湯はどのくらい要るのかしら? 一人分でいいの?」

 ドアを閉める音と衣擦れの音、ロザリーヌの絹の室内履きが絨毯を擦る音がする。カエンは目を閉じ、掌で顔を擦った。

「たくさん」

「適当ねえ」

 重たい瞼を持ち上げ、肩越しに振り返るとロザリーヌが立っていた。今日のロザリーヌは秋の空のような真っ青なドレスに青い羽根のついた帽子という出で立ちで、瞼の上にも青い色を乗せていた。

「とりあえず湯浴み用に汲んであったお湯があるけれど……」

「あのでかいのを洗うんだ。女一人分では到底足りんだろう」

「そんなに汚れてて?」

 カエンの前に回り込んできたロザリーヌは、幾重にも重なったスカートをわさわさと揺らしながら長椅子に近づいた。座るにしても立ち上がるにしても邪魔くさそうなこんなものにどうやって耐えているのか、いまだに謎だ。

カエンの国では女も長衣の下に西方でいうところのズボンのようなものを穿く。馬に乗ることが多いからだ。

西方人の女はそもそも馬に乗らないし、乗るとしても専用の鞍を使って横向きに座る。確かに、このわさわさと何枚も布を重ねた下半身では、馬に跨ることは難しかろう。

「血糊で目も当てられない有様だよ。ああ、それから女を一人か二人貸してくれ。俺が洗うわけにもいかんし」

「あら、どうして? 大事な相棒じゃないの。手ずから洗ってあげればいいのに」

「本気か? 俺に洗われたらあいつ、暴れてそこらじゅうに水を跳ね散らかすぞ」

 ロザリーヌは嫌そうな顔をして、分かったわ、と頷いた。

「それから、見張りも一人立ててくれ。ルーがいい。あいつならヴァレリーが暴れても押さえ込めるだろう」

「暴れたりするかしら」

「するかも知れん。縛って寝台に転がして、ついでに支柱に手足を縛っておいたから、腹を立ててるだろうし」

 道中ヴァレリーが大人しかったのは、隙を見て逃げ出そうとしていたからだ。そんなことは分かっていたから、カエンは真っ直ぐ「深紅の薔薇」へとやってきた。ここには常に用心棒がおり、そこらへんの宿屋とはわけが違う。カエンの意図に気付いた時には既に遅く、ヴァレリーは馬から引きずりおろされ首根っこを捕まえられていた。

 まるで男女の愁嘆場の如き大騒ぎの後、カエンの手で後ろ手に縛り上げられたヴァレリーは「深紅の薔薇」で一番高価な部屋──館の二階の一番奥にある、設えは豪華だが窓のない部屋──に押し込められ、哀れ、寝台に縛り付けられたのであった。

「ベアトリスとシモーヌをやるわ。ああ、それともベアトリスはあなたのところへ?」

「いや、いい。あいつのところにやってくれ。俺は誰も要らんから」

「そう」

 ロザリーヌは猫脚のサイドテーブルの抽斗を開け、長く優美な煙管を取り出した。

「あなたも吸う?」

「要らんよ」

「何も要らないのね」

「そうだな」

 ロザリーヌはちょっと笑い、煙管の先に火を入れた。煙たいが甘い匂いが漂い、青いような白いような煙が天井に舞い上がる。真っ赤な唇をすぼめて煙を吐き出すロザリーヌの顔には、かつての美しさの片鱗が確かにあった。

「どうするの?」

「──どうするって、何をだ?」

「どうしても要るというのでないなら、逃がしてあげなさいな」

 ロザリーヌは何もかも分かっている、と言いたげに瞬きした。

「……」

「中途半端に情けをかけるのは残酷なことよ。捨てられたほうが幸せなときもあるの。期待して期待して最後の最後で絶望するなら、儚い望みなんてないほうがマシ。好きなところへ行かせておやりなさい。どんなに恋焦がれても、無理だと思っても、きっとそのうち忘れるわ。そうでなければ生きていけないもの」

 煙管を持った手をひらひらと振り、ロザリーヌは微かに笑った。右手の小指。かつてはほっそりしていたであろうその指に煌めく大きな宝石。ロザリーヌの手に常に光るその薔薇色の石は、以前はどの指に輝いていたのだろうかとふと考えた。類まれな美しさを誇りに、そして武器にしていた女がそれを失ったのは故意だったのかも知れないと初めて思う。

「俺も忘れることができるだろうか?」

「綺麗になったら呼ぶわ」

 カエンの問いには答えず、煙管を持ったまま立ち上がり、ロザリーヌは長い睫毛を瞬いた。

 カエンは頷き、ドアの閉まる音を聞きながら目を閉じた。

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