第2章

第4話

 売春宿「真紅の薔薇」は、その安直な名前に反して大体において他所より上等だった。

 表通りからは若干奥まったところにあるが、物騒な地域ではない。金を持った貴族や商人、騎士たちが気軽に足を踏み入れられる場所にあり、外観もまた、うらぶれた雰囲気とは無縁だ。

 廃業した商家を買い取って改築したという建物は、名前にちなんだのか、淡い薔薇色の外壁をしていた。屋根と窓枠は焦がした砂糖の色。まるで夢見る乙女のような可憐さと、その奥からちらりと覗く女の妖艶さを形にしたようだった。

 この館の女たちは粒揃いで、少なくともカエンが今まで目にした者はみな、それぞれに美しかった。美形かと言えばそうではない女も勿論いたが、素晴らしい髪をしているとか、驚くほどきめ細かく滑らかな肌だとか、どこかに必ず抜きん出た何かを持っていた。

 管理が厳しいのか躾られているのか、病気を持っている女もいない。一人一人に問い質したわけではないが、それが売りのひとつなのだから、事実と違えば必ず噂が立つものだ。

 そして、カエンが一番気に入っているのは、女たちの中に、少女──つまり子供──がいないことだった。カエンは常々、子供をどうこうする奴は皆まとめて並ばせ、端から順に首を刎ねてやりたいと思っているので、これは大きな長所のひとつだ。

 一度だけ、もうずっと前だが、店の女が自分の娘を連れてきていたことがあった。どうしても誰かに預けることができなかったらしい。その時店に入ってきた客の一人が少女に気づき、あの子がいいと言ったときの女将の対応は見物だった。

 愛想よく笑うと、どうぞこちらへ、と客の手を取り戸口へ向かった。客が戸惑い女将に身体を向けて何か言おうとしたそのとき、素早い動きで脚が動き──スカートの下のことなのであくまでもカエンの想像だが──男の股間に膝がめり込んだ。勿論これも、想像だが。

 声も出せないまま朽ち木のように横倒しになった男を踏んづけた女将は、扉の外に立っている店番に客をさっさと放り出させた。そして何事もなかったように少女を店の奥の、客の目につかない部屋へ連れて行った。その前にも何度か訪れたことはあったが、その事件以降、「真紅の薔薇」はカエンの行きつけになったのだ。

 そのときとは違うが顔馴染みの店番に挨拶し、「深紅の薔薇」のがっしりした木の扉を押し開けると、扉につけられた鈴が可憐な音で鳴った。ただし、今のカエンにはその音色すら開戦を告げる銅鑼の如く聞こえたが。

 唸り、よろめきながら前進すると、前方から鈴の音を聞きつけた女将のロザリーヌが物凄い勢いで突撃してきた。牛のような巨体に抱きつかれ、足がもつれて倒れそうになる。

「カエン! 大勝利のお祝いをしなくては!」

 かつては美しかったという噂もあるが、真実は分からない。恐らく四十代ではなかろうかと思われるロザリーヌは、臙脂色のドレスに包まれた小山のような体で仰け反ったカエンに迫ってきた。カエンは手近な肘掛け椅子の背凭れを握り締め危うく転倒を免れたが、ロザリーヌの進撃は続いた。

「いや、勝利は勝利だが」

「そうね、ええ、分かってるわ! どうせ大勝利なんて嘘っぱちね!」

「ああ、そう……」

「だけど、ごめんなさいねえ、今晩ベアトリスは体が空いていないのよ」

 カエンは一見豪華な──紛い物かもしれない──テーブルまで追い込まれた。

「ニコレットではどうかしら? あの子だってベアトリスに負けない──」

「ロザリーヌ、ロザリーヌ聞いてくれ!」

 彼女が息継ぎした瞬間に、ようやく割り込めた。

「誰もいなくていいんだ。飲み過ぎて頭が痛い……ちょっと寝かせてくれ。金は払うから」

 ロザリーヌは瞳同様「O」の形に開けたままだった真っ赤な唇をまた忙しく動かし始めた。

「そうねえ、あなたがナニをしようとしまいと──ああら、失礼、お代金さえ頂ければ構わないのよ。でもね……」

「二倍!」

 カエンの頭痛はもはや殺人的威力を以って頭蓋を締め付けていた。ぎりぎりと軋むような音を立てているのが頭なのか、噛み締めた奥歯なのか分からない。

「二倍払うから……お願いだ」

 自分より遥かに大きな男にお願いされていい気になったのか、カエンの青い顔に同情したのか、それとも──これが一番ありそうだが──二倍に負けたのか。とにもかくにも、ロザリーヌは鷹揚に頷いた。



「カエン! なあ、カエン!」

 頭の芯が石になったような違和感と痛みの残滓が色濃く残る目覚めは、爽やかとは言いかねた。ゆさゆさと揺らされ、呻きながらどうにか起き上ったカエンの耳に、再度己を呼ぶ声が突き刺さる。

「起きてくれ、カエン!」

「……でかい声を出すな……死ぬ……いっそ殺してくれ……」

「はあ? 何言ってんだ」

「飲みすぎて、頭が──」

「何言ってんだよ、飲みすぎで死にゃしないっての!」

「うるさい──ヴァレリー?」

 部屋の中を照らすのは、窓から差し込む淡い月光だけだった。満月にはまだ暫く間がある。暗い部屋の中でカエンに圧し掛かっている影の顔はよく見えない。しかし、北方訛りのきついカーダン語と、その声はヴァレリーのものだ。

 両手が肩のあたりに添えられてまた激しく揺らされたので、カエンはほとんど泣きたい気持ちで「やめてくれ」と懇願しつつ上体を起こした。

「何でここに……」

「何でって、売春宿に来るわけなんか、ひとつしかないだろ」

「ああ……? ああ、そうだな」

 確かに、そう言われればそうだ。眠るためにやって来た自分のほうがおかしい。しかし、女を買うために来たのなら、何故ヴァレリーはここにいるのか。なかなか回転を始めないカエンの頭に苛立ったのか、考えをまとめて訊ねる前にヴァレリーが妙に切羽詰まった早口で話し始めた。

「今日、家に行ってみたら知らないうちにエステルが結婚していなくなっててさ」

「はあ」

 相槌を打ちながら、それがヴァレリーのカーダンにおける恋人だと思い出す。

「引っ越し先はお隣さんが知ってたんだけど、人妻に手を出す気にはならないじゃない? それで、じゃあと思ってミシェルのとこに寄ったら、ミシェルはもうどこ行ったのか分かんなくて、じゃあマリアンヌに会おうと思ってここまで足伸ばしたら」

 マリアンヌというのは「深紅の薔薇」が抱える女のうちの一人だ。

「下でジョセフィンのヒモにちらっと姿見られちゃって……」

「……」

 早口でそこまで言ったヴァレリーをようやく闇に慣れてきた目で睨み、カエンはゆっくりと痛む頭を振った。ジョセフィンがどこの女で、そのヒモと何があったのか。何が何だか分からないが、会いたくない相手と鉢合わせしたということだけは分かった。

「それで、俺にどうしろと──?」

「分かんないけど、追い払ってくれ! 持ってるだろ!」

「何をだ、剣ならないぞ」

「はあ!?」

「はあ、じゃない。要らんだろう、飲むのには」

「役立たず!」

 カエンは暗い中、無言でヴァレリーの腰に目をやった。やはり帯剣していない。袖の長い、手触りのいい洒落たシャツ。女が怖がるものは排除した、逢引用の出で立ちだった。

「お前に言われたくない」

 ヴァレリーは自らを見下ろして舌打ちし、分かったよ、と呟いて身体を起こしかけた。

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