第3章
第8話
酒場は予想通り、賑わっていた。適正な収容人数以上がここにいることは間違いないが、一体どれだけ多いのか、といわれるとはっきりとは分からない。ただただ、生の気配というものに圧倒され、カエンは何とはなしに溜息を吐いた。
「何だよ。溜息吐くなよな」
「悪い。なんというか、ここは──生きている人間が多いから」
「……ああ」
ヴァレリーはにやりと笑って酒盃を呷った。
「抜けてないな、まだ」
「まだ戻って一日だからな」
ここは戦場ではない、ということに身体が慣れるまでは多少の時間がかかる。さしあたっての危険はなく、至る所に死体が転がっていない、ということに。カエンはカーダンの特産である濃い葡萄酒を口に含み、改めて周囲を見回した。
長年煙や油を吸い込んだ椅子やテーブルは黒光りしていて、あちこちに傷がついていた。カエンたちが座った席もテーブルの脚が歪んでいるのか、手を置くたびにがたがたする。杯は底に目立たない欠けがあり、表面にかかった釉薬が薄くなっていた。
戦勝気分に浸る老人たち、くたびれた傭兵、旅装の商人らしき一団、注目を浴びようと大声を張り上げる楽士たちのやかましさ。
ヴァレリーの背後で、酔っ払った男が盃を卓に叩きつけて何か怒鳴った。ヴァレリーがびくりと肩を震わせたのを笑う間もなく、カエンもまた誰かが何かを倒した音に過剰に反応した。無意識に腰の物に手をやりかけ、ここは安全なのだと何度も自分に言い聞かせ、握った手を無理矢理開閉させた。
「びくびくしちゃうよな」
盃の縁からカエンの手を見つめながら、ヴァレリーは呟いた。
「俺なんか、市のど真ん中で後ろから肩叩かれて相手を斬り殺すとこだった」
「おいおい」
「さすがに煙管以外に得物も持ってない煙草売りを斬ったら夢見が悪いもんなあ」
ヴァレリーは苦笑して陶製の杯を置き、頬杖をついた。
「何年もやってるのに、うまく切り替えられないんだよね」
「経験の長さじゃなかろう」
「……まあね」
「昼間は何をしていた?」
「何って──別に」
肩を竦め、ヴァレリーは栗色の髪を掻き上げた。別に、ということはないだろうと思ったが、どうしても聞き出したいわけではないから黙っていると、ヴァレリーは少し口を噤んだ後、まるでそうするのが礼儀だから、というように素っ気なく訊ねた。
「あんたは?」
「剣と鎖帷子の修理」
「そういや、カスケルは」
「いつものところだ」
カスケルというのはカエンの馬の名だ。元々騎馬民族の出だから馬にはこだわりがある。実際に行ったことはないものの、伝手を頼り南方から大枚はたいて手に入れた立派な青鹿毛で、この手の馬にありがちな気の荒さもなく、よく訓練されていた。
カルグーンの馬は素晴らしいが、何せ馬の身体に比してカエンが大きすぎるので、諦めざるを得なかった。
大事な馬だから、カーダンに戻ると馴染みの蹄鉄屋で蹄鉄をつけ直し、蹄鉄屋のものにしては立派な厩のカスケル専用の馬房に預ける。下手な宿屋の厩に預けて盗まれては敵わないし、粗雑に扱わせるわけにもいかない。件の蹄鉄屋は戦で足を悪くするまでは兵士だった男で、カエンが戦場で馴染みになった人間にも男の知り合いが多くいた。
その縁とお互いへの敬意、そしてカエンが支払う金のお陰で、蹄鉄屋は安心してカスケルを預けられる場所になっている。
「アレクサンドラの調子はどうだ」
ヴァレリーの馬は、この男らしく牝馬である。カエンが見立てた数頭のうち、ヴァレリーが迷わず選んだのがアレクサンドラだ。気性が穏やかで従順なアレクサンドラは扱いやすく、乗せる人間を選ばなかった。
「良好だよ。ご機嫌なときとかまだちょっと勝手することもあるけど、若いからね。俺はあんたみたいに騎馬戦得意じゃないし、どうせ下りるならあの程度で十分なんじゃないかな。カスケルみたいに人馬一体になれる馬は必要ないよ」
「訓練しておくに越したことはないぞ。荒馬を乗りこなすのが男だとかいう奴もいるが、俺は勧めん。大事な時に暴走されたら事だからな」
渋い顔をしたカエンに、ヴァレリーは面白がるような笑みを向けた。
「あんたってほんと、傭兵向きじゃないよね」
「何故?」
「いつも、制圧することと生き残ることを考えてる」
「誰だってそうだろう」
「違うよ。みんな、殺すことと生き残ることを考えてる」
「どこか違うのか。少なくとも後半は同じく聞こえるが」
肥った女が塩漬け肉の入った木のボウルと、葡萄酒が入った陶製の瓶をテーブルに置いて去っていく。周囲の喧騒と人いきれでむっとする店の中は平和で、こんな話もどこか場違いに思えた。
「あんたが生き残ろうとするのは、自分のためであると同時に誰かのためだ。家族とか、仲間とか──」
「お前は違うのか」
「内緒」
ヴァレリーは長い睫毛をしばたたき、内心を窺わせない笑みを浮かべた。
「あんたが考えてるのはいつも戦闘が終わった後のことだろ。やっぱり元々軍人だから?」
「分からんよ。軍人らしく考えるのは叩き込まれて今更変えようがない習性だから仕方ない。確かに俺は軍人らしい征服欲に駆られて戦っているかも知れんが、違うかも知れん。突き詰めて考えてみたこともないが、考えなくても戦える」
カエンは杯を呷り、葡萄酒を飲み干した。今では酒といえばこれが多いが、どうも好きにはなれなかった。故郷の、羊や馬の乳からつくる酒が懐かしいが、望んでも手に入らないなら考えたところで仕方ない。その考えと白く濁った酒の記憶が突然昨夜の記憶と混じって蘇り、カエンは危うく杯を取り落とし掛け、掴み直した。
「どうした?」
ヴァレリーが目を上げ、煙ったような灰色の瞳が真っ直ぐこちらを向いた。小さく切った塩漬けの肉を摘む指先が一瞬止まる。
「──いや」
ヴァレリーはカエンの目を見つめたまま肉を口に入れ、塩がついた指先を口に含んだ。
「……やっぱり、後のこと考えんの?」
「何?」
「誰かを抱くときも」
低い声にがんじがらめにされたように身体が動かず、カエンは意識してゆっくりと息を吐いた。ヴァレリーが指先を舐める。濡れた舌が立てる微かな音が、喧騒の中、どうしてかはっきり耳に届く。強張る首筋の毛が一気に逆立った。
「──俺のことも征服したいか? 軍人さん」
濡れた指先がカエンの手の甲に軽く触れた。指が離れ、ヴァレリーが猫のように音もたてずに立ち上がった。ヴァレリーが残した湿り気に動いた空気が触れてひやりとした。
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