第9話

 酒場は大抵宿屋を併設している。正確に言えば、宿屋が酒場を併設している、か。

 ヴァレリーは昼間のうちに部屋を取っていて、二、三日はここにいるつもりだと言っていた。ヴァレリーが取った部屋は屋根裏の一階下に当たる。一階分を丸々使っている分他の部屋より広いらしい。勿論その分料金は高いが、少なくとも隣の部屋の鼾やら何やらに悩まされることはない。

 扉に掛金──と言っても、屈強な男が体当たりしたら壊れそうな代物ではある──を掛け、ヴァレリーは振り向いたカエンを眺めた。

 カエンが黙って席を立ったヴァレリーの後を追ったのは、ヴァレリーの姿が見えなくなる寸前だった。カエンよりは小さいが、それでも大抵のカーダン人より頭ひとつ大きいヴァレリーの栗色の髪が、酒場の照明にきらめくのを眺めていたせいではない。どうすべきか、迷っていたからだ。

 肉体的な快楽を得ることに否やはなかった。だが、相手がヴァレリーだというのは大問題と言っていい。男相手でもどうにかなることは学んだが、問題はそういった物理的なことではないだろう。

 背中を守り合ってきた相棒だから、というのもまた違う。これが生理的な必要に迫られてのことならそれはいい。ただの戯れであれば、笑い話のひとつにできる。だが、そのどれとも違う、もっとややこしいことなら今後どうなってしまうのか。カエンにはヴァレリーがどういうつもりなのか想像もつかないし、どう訊ねたら答えが返ってくるのか、それもまったく分からなかった。

 案外と具合がよかったからもう一度楽しまないか。単純にそういうことならヴァレリーはそう告げるのではないかという気がする。かと言って求められているようでもないし、何かを試されているというふうでもない。

 だったらさっさとここを出て「深紅の薔薇」にでも行けばいい。そう思いながら、カエンは宿屋の階段を一歩ずつ踏みしめるように上がったのだ。

 ヴァレリーは独特の音を立てない歩き方でカエンに向かって歩を進めた。北方民族特有の白い肌、西方ではあまり見かけない灰色の瞳、栗色の髪。腕の刺青には色がない。黒と灰色で構成されたそれが、ヴァレリーが一歩進む度、腕の動きに連動して僅かに動く。

 濃い睫毛が数えられるくらい顔が近付いて、ヴァレリーの唇がカエンの顎に触れる。カエンはその唇に軽く口付け、顔を傾けて白い喉に噛みついた。

 さっきの台詞にしても、昨夜にしても。

 挑発するような態度の裏に何があるのか、よく分からない。分からないまま柔らかい髪を掴んで顔を上げさせ、薄く開いた唇をこじ開け強引に侵入した。ヴァレリーの舌は少し冷たく、葡萄酒と塩の味がした。


 まるでぬかるみに嵌り込んだようだった。

 耳に届く音も、胸の内も。

 ヴァレリーの長い指が己の身体を拡げようと動く。それを押さえ、押し退け、見様見真似で同じように動かすと、ヴァレリーは上擦った声を上げた。

 ともにあった二年でこの男の様々な面を目にしてきた。笑顔も、不貞腐れた顔も、怒った顔も、泣き顔も。今眼前にあるこの表情は、それらと同じく彼の一部に過ぎないのか、それとも巧妙に作り上げられたものなのか。知りたかったが、判断する材料も、そして余裕も手元になかった。

「あ──……」

 目の縁を薄赤く染め、ヴァレリーは涙を零した。自身の吐き出したもので下腹は濡れ、汗で湿った髪が一筋こめかみに貼りついている。カエンは空いた手の指で髪を避け、紅潮した頬を辿った。

 昨晩は痛みで酩酊状態だった。それに、部屋は暗かった。今は獣脂の蝋燭が、隅々までとは言わないまでもすべてを照らし浮かび上がらせている。汗と体液でぬめる白い肌も、濡れて黒っぽく見える睫毛も、そそり立ち、とめどなく滴を垂らすヴァレリーの中心もすべて。

「ヴァレリー」

 ヴァレリーの長い脚が突っ張り、足の指がシーツに皺を寄せた。カエンがつけた噛み痕が、脇腹に一ヶ所、僅かに赤くなって残っている。

「何故だ?」

 開いたままの唇からは低い喘ぎが漏れるだけで答えはなかった。閉じた瞼の向こうでヴァレリーの眼球が微かに動く。聞こえているのは間違いない。

「──お前は何を望んでる?」

 指先が体内の僅かにふくらんだ部分に触れると、ヴァレリーは息を飲み、爪先を突っ張らせて目を開いた。

「あ、あ……っ!」

「答えろ、ヴァレリー」

「カエン」

 潤んだ灰色の瞳がカエンを見たが、焦点は微妙に合っていなかった。意図的なものだと確信したが、責めてもどうせ白を切られるに違いない。ヴァレリーが浅い息を繰り返しながらカエンの肩に爪を立て、何かを否定するように首を振る。

「どうしてこんなことを」

 ヴァレリーがカエンの手首を押しやって、体内から指を抜く。掠れた喘ぎを漏らしながら、もう片方の手でカエンの分身を掴み、自らの濡れた部分へ押し当てた。

「喋ってないで……早く、欲しい」

 囁きに誘われて、カエンは己をヴァレリーが導く場所に擦りつけた。ヴァレリーは甘い声を上げて泣き、喉を晒して懇願した。誤魔化されるものかと思う気持ちと誤魔化されてもいいではないかと逸る気持ちがせめぎ合ったが、カエンは僅かに残った理性を断ち切るように奥歯をきつく噛み締めた。

「カエン──」

 ヴァレリーが腰を浮かせ、声を上げて身をくねらせる。

 一息に突き入れ、切っ先で内部を擦るように引き摺り出す。ヴァレリーが、自国の言葉で何か叫んだ。包まれ、締めつけられる快感に鳥肌が立ち、一体何を訊ねたかったのか、カエンは忘れた。

 隘路を力ずくで押し広げ、己で満たす。そうすることで覚える自分勝手な喜びは、戦闘で感じる高揚感と酷く似ていて、そしてどこかが決定的に異なった。

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