群青走躯

平田明

第1章

第1話

 ヴァレリーの顔の半分が、朱に染まっていた。赤い顔のなかで、灰色の瞳だけが穿たれた穴のように目立って見える。

「カエン」

 名前を呼ばれ、長い間その顔を見ていたことにようやく気がついた。その間も、我知らず長剣だけは振り回していたらしい。

使い過ぎた腕は痺れ、握り込んだ指は緩めようと思っても、膠で貼りつけたように柄から離れようとしない。

「それ以上切り刻んでも刃が傷むだけじゃないの」

 顔を返り血で赤く染めた相棒は、カエンの足元に転がる、最前までは人であったものを剣の刃先で指し示した。

美しい顔貌だけに、血塗れの顔は禍々しかった。その暗さを助長するように、ヴァレリーの声音は、酷く冷たい。常日頃の軽薄な彼しか知らない者が見たら、人が違ったと思うだろう。

「──運動になる」

「馬鹿言え」

 粘つく血液を手で拭いながら、ヴァレリーは吐き捨てた。既にほとんどが汚れた白皙の面に、刷毛で刷いたように更なる血の筋がついた。

 肩まで伸ばした栗色の髪は乱れ、いく筋も顔にかかっている。ヴァレリーはうるさそうに顔を振ったが、半乾きの血は粘ついていて、髪はべたりと張り付いたままだった。

 血で赤黒く染まった髪をもつれさせたヴァレリーから普段の彼を想像するのは至難の業だ。何度も同じ側で戦った傭兵仲間の中にさえ、あれは悪魔だとか、半ば冗談半ば本気で囁く者すらいる。傭兵の中には楽しみのためにこの稼業に手を染めている輩もいるから、そんなやつらに比べればヴァレリーはまともな方かもしれない。ただ、陽気な色男という普段の顔との落差が激しいのと、やたらめったら美形だから悪目立ちするのだ。

 考えてみれば、確かにここ一年ほどでヴァレリーの闘い方はより一層攻撃的になり、残忍になった。

 カエンはできる限り血を払ってから腰の鞘に刃を収め、ヴァレリーを眺めた。美しいと呼んで差し支えない端正な面差しは普段と何も変わらない。それなのに、普段はしょっちゅうちらつかせる諧謔の色や、開けっぴろげと言っていい雰囲気は皆無だ。灰色の瞳は、氷に閉ざされた北の国の地に似て硬く、冷たい。

 どちらが本来のヴァレリーなのか、と言う問いは愚問と言うしかないが、そう口に出す者の気持ちは分からないでもなかった。野営地は雑魚寝になる──勿論騎士様には天幕があてがわれる──から、誰も彼もが寝食を共にする仲だと言っていい。知っている相手だと思っていたのに、ある時まったく違う顔になる。それは、相手に不安を抱かせこそすれ安心感は与えないからだ。

 だが、カエンには断言出来た。にこやかな表情で絶え間なく軽口を叩くあの男と、冷たい目で血に塗れたこの男と。それはどちらもヴァレリー・ユーレフそのもので、それ以外の何者でもないのだ。



 ふた月に亘り、当の二国、カーダンとラキタイの間に続いた国境紛争は、ようやく一応の収束を見た。バルクルール砦──地名はカーダンが併呑する以前のまま残されている──での長い膠着状態の後の激しい戦闘で両国ともに同程度の損害を相手に与えたが、結果はカーダンの辛勝だった。

 王国の境に立つ古い砦は、今回もまた辛うじてラキタイの手に落ちることを免れた。事実上は痛み分け、と言ったところだが、カーダンでは快勝と叫ばれ、ラキタイでは戦術上の撤退と呼ばれるだろう。

 いずれにしても国民の多くにとって現実の戦況は関心の埒外で、天候や税率のほうが余程現実問題だった。

 戦争の勝敗は当然のことながら税にも物価にも反映されるのだが、幸か不幸か、これまた民の大多数は教育らしい教育を受けていなかったから、薄ぼんやりと関係性に気づいていたとしても、突き詰める者は少なかった。

 カエン自身は、戦火がもたらす破壊だけでなく、その後起こる様々な影響について詳しく学んだが、今のところ、考察を開陳する相手も場所もなかったし、その気もなかった。

 いずれにせよ、長年の間そんなことを繰り返している両国に対して、呆れた感はあっても愛着も忠誠心もない。それでも戦がなければ食っていけないのが傭兵であり、傭兵にしてみれば、二国は上得意と言ってよかった。

 野営地には生き残った兵士が三々五々戻り始めている。中には負傷した仲間を担いだ者や、切り落とされた自分の手首から先を抱えて医師を探す気丈な者もいた。

「おいおい、そりゃあ誰の手だ、オズマン」

 どこかから声がかかり、手を抱えた男は声がする方に顔を向けて叫んだ。

「俺のに決まってんだろうが! 呪術師はどこだよ」

「どうせならもっと見栄えのいい、どこぞの騎士様の腕でもくっつけてもらえばいいんじゃあないのか」

「馬鹿野郎、あんな生っ白い細腕が役に立つかよ。おおい、呪術師はどこだって言ってんだ!」

 斬り落とされた腕がくっつくことはないだろう。オズマンだって分かっているのだ。しかし、そこに悲愴感は微塵もなかった。

 脚を失えば傭兵は続けられない。だが、腕ならば一本あれば剣を握れる。そんなふうに考えるからだ。

 誰も絶望していないし、かと言って期待もしていない。

 国を出てすぐは衝撃を受けたものだが、今では彼らの感覚こそ、カエンにもっとも近しいものだった。

 陽が落ちかけた空は焚火の色にすべてを染め、気の早い兵士はどこからか酒瓶を調達して来たようだ。歓声が上がり、誰かが歌うのが聞こえた。

「おいおいお前ら、そのままその辺で寝るなよ」

 調子っぱずれの歌に背を向けたところで声がかかり、カエンは足を止めた。少し前を歩いていたヴァレリーも振り返る。

「ナット」

「まったく、ひどい格好だな」

 従軍薬師のエティエンヌ・ナットが現れて寄ってきた。がりがりに痩せた体のわりに体力があり、今も大きな甕を抱えている。何が入っているのか、ナットが傍に立つと、薬草臭い匂いが立ち込めた。もっともナット自身がいつでも薬草を煎じたような匂いをさせて歩いているから、甕の中身の匂いと断言はできない。

 年齢のせいでほとんどなくなった髪は白くなって頭蓋にへばりつき、痩せているせいか妙に皺深い。要するにどこから見ても老人なのだが、かくしゃくとしたものだ。

 ナットの息子は宮廷付きの薬師であり、息子自身が既に四人の成人した子を持つが、親がこれなものだから、宮廷薬師は未だに──父親そっくりの顔貌のせいもあるだろうが──若い方のナットと呼ばれていた。

「ひどい? 何が?」

 カエンの問いに、老ナットは大袈裟に顔をしかめて見せた。

「人様の血と臓物でぐちゃぐちゃってことだ。ヴァレリーもお前も、またぞろ鬼だ、悪魔だ言われるぞ」

「別に言われても気にしないが」

「そんなこた分かっとる」

 ナットはそう言って二人を交互に見ると溜息を吐いた。

「お前らは働きすぎだ。歩合制でもないだろうに、そんなに張り切ってどうする。敵兵を殺すことが罪だとは言わんが」

「俺はあんたたちの神は信じない」

 ぼそりと呟いたヴァレリーにナットが目を向け、続きを促すように沈黙したが、ヴァレリーはそれ以上何を言うでもなく口を噤んだままだった。

 ヴァレリーが信じる信じないの別も含め、神なんてものを持ち出すのは珍しい。

 小さく溜息を吐いたナットは青い瞳をカエンの腰の剣に向け、甕を抱え直した。

「戦争だからな。何も私怨で殺しているわけでなし──だがな、時々心配になる。人の血に塗れたお前さんらを見ていると」

「俺は別に張り切っていない。寄ってくるから討ち取っている」

 カエンはナットに向かって肩を竦めた。実際、人を殺すことが好きなわけではない。ただ、向かってくる兵士がいれば倒すのがカエンの稼業だというだけだ。元々が軍人なので、正直、仕事と割り切っている。

 ただ、ヴァレリーも同じだという確信はない。二年共に戦ってきたが、この男に関しては未だに謎だらけだ。それでもナットにいちいち説明するのは面倒だから、カエンは傍らのヴァレリーの肩を軽く叩いた。

「こいつだって同じだ。心配するな。老体によくない」

「ふん、小僧が偉そうな口をききおって。そんなに血の臭いをさせてたら野営地に動物が寄ってくるだろう。早く洗い流して来い」

「分かりました、司令官殿」

 カエンがひらひらと手を振ると、ナットは鼻を鳴らして去っていった。ナットが言うから、というわけではないが、確かに全身血塗れで不快なことこの上ない。カエンはこの寒い時季に頭からかぶる冷水を思って、げんなりした。



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