第2話
カエンが故郷カルグーンを出奔したのは二十歳を過ぎた頃だった。
武者修行という名目ではあったが、要するに冒険心を抑えられずに出てきただけ。自分が所謂良家で苦労なく育った世間知らずの腕白でしかないことには自覚があったから、国を出てすぐは、まさか傭兵を生業にすることになるとは思っていなかった。
カルグーンは騎馬民族の国である。父祖は移動可能な房車を居室とし、女も子供も、剣を携えて草原を駆けた。
国土を持たず、国という単位を持たず、あくまでも部族の集合体として彼らは草原を支配した──いや、そもそも支配などということに興味を持ってもいなかった。
襲い、奪い、去る。それが、気が遠くなるほど長い間繰り返された騎馬民族としての彼らの生き方だった。
他国の文化を知るにつれ、カルグーンの部族はそれを取り入れ染まっていった。だが、長い年月を経て完全に染まり切れなかったのは何故か。余りにも気質が違いすぎたのか。
国を築き、ほぼひとつところに居を構えたといえる現在でも、祖先から引き継いだ遊牧と略奪の欲求が民から消え失せることはなかった。夏の季節、大々的に行われる仮宮への移動は、一つ所に止まれなかった彼らの遊牧への思いを今に残していた。
カエンは半分異民族でありながら、騎馬民族としての資質を純血のカルグーン人よりも多く備えていた。
外見こそ少々異質だが、国に留まることをよしとせず、あちらこちらを移動しここまで流れてきたのは、祖先から受け継いだ本能に衝き動かされたからと言っても過言ではなかった。
亡くなったカエンの母は、当時も今も東方のカルグーンでは珍しいカーダン人だった。商人で男やもめだった父親について大陸中を渡り歩き、カルグーンでカエンの父と出会った。父は小柄なカルグーン人の中では殊の外長身だったので、花嫁に抱えられて馬に乗るという屈辱を免れた──というのは、カエンの家では馴染みの冗談だ。
その父にカーダン人の母の血が合わさって、兄とカエンはカルグーン人としては並外れて大きくなった。
ただ、騎馬民族においては、体格に恵まれていることは必ずしも喜ばしいことではない。むしろ、馬に負担をかけるので厭われる。同じ距離を騎乗できたとしても、乗り潰してしまえば意味がない。
兄弟がある年齢に達してからは西方人用の馬を手に入れるのに父が四苦八苦していたのを知っているので、西方では己の身長はさほど大きいというほどのものではなく──それでも、平均よりは大きかったが──そのことに驚いたものだ。
一人旅を楽しんだカエンは、さて母の国で一体何をすべきかと考え、だが、酔っ払って結局考えがまとまらないまま、まずは酒場で知見を広めようと見知らぬ男に声をかけた。
男は傭兵だった。戦が絶えない西方の日常に、傭兵の姿はつきものだ。年配の傭兵に酒を奢る代わりに色々と話を聞いて今後の参考にしようと思っていたのに、翌日には戦場に立っていた。
元々軍人として訓練を受けていたせいもあって、カエンはろくすっぽ悩むこともなく傭兵として生活を始めた。人を傷つけるのはいい気分ではなかったが、戦場で感じる昂ぶりには抗えなかった。位の高い執政家の子供として将官を務めるよりは、傭兵のほうが性質に合っていたのだろう。
そうして雑多な部隊の中で三つ年下のヴァレリーと出会った。二年前、国を出て三年後のことだった。
馬が合った、というのとは少し違う。ヴァレリーはよく笑い、ふざけ、社交的ではあったが、軽佻浮薄とも思える表向きの顔の下にほの暗い何かを隠しているようにも見えた。
誰とも分け隔てなく付き合うくせに、戦場では誰にも背中を守らせない。それ以前に、際立つ残忍さに、誰も戦うヴァレリーに近づこうとしなかった。だから、放っておけなかったのだ。
「まだついてる。きちんと流せ」
カエンは、冷たい川の水に膝まで浸かったヴァレリーの頭を指差した。
「ついてるって、どこにだよ」
「髪だ」
「髪のどこ」
「全体」
「全体って……冷たいってのに、勘弁してくれよな」
文句を言いながら、ヴァレリーは寒さで紅潮した頬に垂れる水滴を拭う。
北方のカラエフ出身のヴァレリーは、透き通ってしまいそうなほど白い肌の持ち主だ。肩まで伸ばした艶やかな栗色の髪に、信じられないくらい濃く長い睫毛で縁取られた薄い灰色の瞳。
どんな都市でも市を歩けば道行く女が一人残らず振り返るほどの美形だが、両肩から両手首までびっしりと彫られた刺青に恐れをなすらしく、実際に近寄ってくる女は意外に少ない。傭兵仲間は、一緒に歩く時は絶対に腕を出して歩けと彼にわざわざ言うくらいだ。
件の両腕を持ち上げて、ヴァレリーは濡れた髪を後頭部に向かって引っ張り、水を絞った。深紅の水が髪から滴り、綺麗な顔が歪んで下品な悪態が漏れる。
一体、どれだけ返り血を浴びればあんなことになるのだろうか。カエンは自分のことを棚に上げて溜息を吐いた。
ヴァレリーの戦い方はまさに、悪魔が降臨したかと思わせるものだ。長い腕に操られる湾曲した北方風の片刃の剣は、それ自体が生き物のようにして近づく者を切り裂いていく。皮一枚残して首を断ち切り、裂いた腹に手を突っ込んで臓物を掴み出すヴァレリーの殺し方は陰惨で、それは戦闘というより惨殺に近いものが確かにあった。
だから、カエンは彼と背中合わせに戦うことを選んだ。誰にも頼らず、誰も求めず、残酷で凶暴な何かを剥き出しにして戦うヴァレリーを独りにしてはいけないと、本能的に感じたのかもしれない。
それ以来、カエンとヴァレリーは常に同じ国に雇われ、同じ部隊に所属し、同じ戦場で戦って来た。ここ一年の間に激化したラキタイとカーダンの戦闘を乗り切り、二年の時間を共に生き抜いて、それでもカエンが知るヴァレリーは未だに彼の一部分でしかないのだと今更思う。
既に岸に上がっていたカエンは癇癪を起こしているらしいヴァレリーを眺めて溜息を吐き、再度水に足を突っ込んだ。
「まったく、さっさとやらないから冷えるんだろうが」
「うるさいな。もう髪なんかどうだっていいだろ」
「血塗れで乾いても? 生臭いし、絡まるぞ」
「だから、どうだっていいんだよ。そんなの」
「来い」
ヴァレリーの頭を頭蓋ごと引っ掴んで引き摺り倒す。ヴァレリーがあっと叫んだがもう遅い。顔以外全身川に浸かったヴァレリーを引っ張り上げて川底に無理矢理座らせた。
「何すんだよ!」
「聞きわけがないからだ」
両手でヴァレリーの頭を掴み、顎を反らせる。下から物凄い目で睨まれたが、二年も背後を守り合って戦ってきたのだから、そのくらいどうということもない。
川底に膝立ちになり、ヴァレリーをゆっくりと仰向かせた。まだ血でごわつく後頭部の髪を川面につけてゆっくり濯ぐ。粘つきが酷い部分を手櫛で梳きながら、美しいが不機嫌そうな顔を見下ろした。
「ナットの言う通りだ。随分血が流れたから、夜にはそこらの動物が集まってくるだろう。目が覚めたらお前の首がないでは、寝覚めが悪い」
将官は天幕を張ってその中で休むが、カエンたち傭兵にそんな気のきいたものは支給されない。真冬ならまだしも、凍死するほど寒くなければ放っておかれるのが当たり前だ。
それを理不尽だとか、傭兵を道具のように扱うのは許しがたいと青臭く憤ったことも確かにあった──最初の頃は。今となってはそんなことは当然で、辛くもなければ腹も立たないという境地に達している。
「そりゃびっくりするよねえ」
「お前の代わりに腹いっぱいになった狼か何かが隣に寝ていたら嘆き悲しむどころじゃないからな」
「ま、食われちまったら、俺は楽だけどな」
「あのなあ」
「眠ったまま死ぬなんて、最高じゃない?」
「話にならん。俺より若いくせに」
「……俺は」
ヴァレリーは何か言いかけ、顎を持ち上げてカエンを見上げた。
露わになった白い顔は、薄暮の中では人ならぬもののように美しい。カエンは、時折ヴァレリーの顔貌に対して感じる畏怖の念のようなものを覚えて息を飲んだ。
見つめるカエンの何が悪かったのか──ヴァレリーは突然灰色の瞳を眇め、酷く不機嫌な表情を浮かべた。ざぶりと音を立てて立ち上がり、犬のように濡れた頭を振る。盛大に飛沫が飛んで、カエンの顔にも水が跳ねかかった。
「おい!」
「もういいだろ。行く」
「ヴァレリー」
「うるさい、俺は寝る」
水飛沫を跳ね散らかしながら川から上がり、ヴァレリーは後ろも見ずに大股で歩み去った。
「何なんだ」
まったく釈然としない。冷たい水に呟いて、カエンは再度川岸に上がった。持参した布で濡れた髪を拭いていたら、誰かが呼ぶ声がした。
「カエン!」
「ここだ。どうした」
下草と小枝を踏む音、重い長靴の音とともに、ラウルが現れた。カエンが最初に酒場で酒を奢った年配の傭兵は、隻眼になったが今でも現役だ。体力の衰えを経験で十二分に補っている。ちなみに、隻眼になった理由は戦闘ではなく女と揉めて包丁で切り付けられたのが原因なので、同情の余地はない。
ラウルはまだ返り血のついた革の胸当てをつけたままだった。脱がないのか、と訊ねかけ、ラウルの真面目な顔を見て口を閉じた。
「用意が整ったらすぐ出発だ」
「何だと? シルバ辺境伯は討ち取ったろう。壊走したというのは誤報か?」
「いや。それに、追手でも増援でもない。荷物を纏めなきゃならんから戻ろう。道々話す」
「分かった」
カエンは水を滴らせたままラウルの後に続き、ふと思い立って声を上げた。
「ヴァレリーは」
「何だ?」
「ヴァレリーに会ったか? 先に戻ったが」
「ああ、すれ違ったぞ」
ラウルはカエンを振り返って肩を竦めた。
「寒い寒いカエンの馬鹿野郎と喚いていた。相変わらずうるさい小僧だ」
「──そうか」
何となく詰めていた息を吐き、カエンはラウルの後に続いた。
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