第3話
思ったとおり、カーダンの王都ブーレーズの民は、何も知らず喧伝される勝利に酔っていた。
大勝、と言うにはあまりにも損害が大きいのだが、軍人以外がそれを知る由もない。いや、数少ない有識者や、耳の早い商人たちは知っているだろう。だが、大多数を占める民は王都から出たことがないし、これからも出ることはない。彼らは、辺境で起こったことなど何も知らないのだ。
正規軍の黄金の大旗が掲げられ、まるで誰かの手で広げられたようにはためく。旗に刺繍された白金の獅子は、まるでそれ自体に命が宿っているかのようだ。
誇らしげに前脚を上げ、勝利の咆哮を轟かせるかの如く見えた。陽光を照り返し銀色に輝く甲冑の隊列が大通りを進む。騎馬の者も徒歩の者も、胸を張っている。
しかし、最後尾──甲冑の隊列からはかなり離れて進むので、歓迎の民衆は彼らに気づかず散っていく──カエンを含む傭兵隊の足取りは重かった。
バルクルールからブーレーズまで、平時なら馬で約五日。その行程を徒歩の兵を伴って三日半で戻らざるを得なかったのである。勝利の宴どころか、一晩の休息すらない。負傷の手当てもそこそこに、まるで追い立てられる家畜のように走ってきた。
ラキタイの援軍が攻め寄せたというわけでもないのに急いだのは、王家の傍流である何とかいう貴族の子息が、重傷を負ったためだった。
不機嫌な顔のカエンに恐れをなしたように、周りの傭兵が少しずつ離れていく。その様子を見て、傍らで馬を進めるヴァレリーが楽しくて仕方ない、と言った顔をしている。
三日前、戦場では自分のほうこそ周りに避けられていたくせに、すっかり平時の顔を取り戻したヴァレリーは、「鬼のようなカエンを宥める陽気な相棒」役に戻ることにしたようだった。
「そんな怖い顔するなって。無事戻ってきたのに」
「そういうことじゃない」
「そりゃあ疲れてるけど、まあ、俺たちが言ったってどうせ聞いてもらえないんだから仕方ないよ。疲れは別の何かに癒してもらおうぜ」
カエンが渋面を作って見せると、ヴァレリーは笑いながら歌うように調子をつけて言った。
「ああ、早く愛しのエステルに会いたいなあ」
「……お前のカーダンの女はミシェルじゃなかったか?」
口を挟むとわざとらしい横目で睨まれた。
「一つの都に一人なわけないだろ? 俺を誰だと思ってんの」
ヴァレリーの軽口に傭兵達が野次をくれる。
「病気を貰うなよ、ヴァレリー!」
前方を歩く肥った男が大声を出した。
「俺がそんなヘマすると思う? 病気と隠し子に縁はないぜ」
馬上で端正な口元を下品に歪めるヴァレリーに、男達は口々に喝采したり口笛を吹いたりし始めた。疲弊したせいで暗くなった空気が、女という単語一つで妙に浮き立つ。
ろくに休めず行軍してきたので、誰もが疲労の極にある。気持ちは逸れど、報酬を貰った傭兵が王都に繰り出すのは明日以降だろう。
売春宿も酒場も、傭兵相手のいかがわしい場所は舌なめずりして彼らを待ち構えているに違いない。カエンにも馴染みの女がいたし、心待ちとは言わなくても、金さえきちんと払えば喜んで迎えてはくれるだろう。しかし今はとにかく、手足を投げ出し、何も考えずに好きなだけ眠りたかった。
結局カエンの望みは叶わないまま終わった。カーダンが用意した傭兵用の宿舎の寝台は、長身のカエンが収まるにはあまりにも小さかった。
もっともこの小ささでは、カエンに限らず傭兵たちの半分は縮こまって眠らなければならないはずで、要するに、傭兵に対する思いやりや気遣いなどというものはない、というカーダンの明確な意思表示である。
しかし、せめて身体が収まる寝床をくれとか何とか言ったところで、待遇が改善されるはずもない。明日は敵国のために働いているかもしれない者たちなのだから仕方ない。
戦の最中、岩場での野宿だと思えば狭い寝台もどうということはなかったが、傭兵達の饐えたような体臭と盛大な鼾の大合唱には、繊細な質ではないと言っても平常心ではいられなかった。
野営地なら気にもならないが、ある程度の広さはあるとはいえ密室であるだけに耐え難い。一瞬建物ごと焼き払ってやろうかと思ったが、大して得にもならないので諦めてブーレーズの街中に出ることにした。
時はまだ宵の口。酒場は混みあっているだろうし疲れてふらふらしたが、どうせ眠れないなら酒でも飲んだほうがましだった。
そう思ってしたたかに葡萄酒を飲んだのが間違いのもとだったに違いない。カーダンの濃厚な葡萄酒は、故郷の白濁した馬乳酒とは違った意味で後を引く。酷く疲れていたのがよくなかったのか、葡萄酒自体が粗悪だったのか。
休める部屋がないか訊ねてみたが、併設されている宿はいっぱいだった。いつからか猛烈に痛み出した頭を抱え、カエンはどうにか酒場を出て歩き出した。
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