第11話
「ヴァレリー」
馬を起こさぬよう、低い声で呼びながら厩に入る。果たして、ヴァレリーはそこにいた。大急ぎで出て来たから間に合ったが、もたもたしていたら遅かっただろう。ヴァレリーは馬具をすべてつけたアレクサンドラの手綱を引き、奥の馬房から出てきたところだった。
「……」
「こんな夜中にどこへ行くんだ」
「どこだっていいだろ」
「よくない。心配してるんだ」
「あんたにいちいち──!」
一瞬かっとしたのか険しい表情をうかべたヴァレリーは、しかしいつものように口を曲げて皮肉に笑うことで何かを隠し、僅かに首を傾げてカエンを見た。
「……野暮なこと訊かないでくれよな。女のとこに決まってる」
「エステルも誰だかもいないんだろう」
「女は星の数ほどいるんだよ、カエン。今から行けば喜んで扉を開く女が他にもいくらでもいるんだから」
「それが嘘だとは思ってないが」
「退いてよ」
「ヴァレリー、散々俺に抱かれた後で、女を抱くのか」
思わず言うと、ヴァレリーが不意を衝かれたような顔で口を噤んだ。濃く長い睫毛で縁取られた灰色の瞳。その中に、ついさっきまで見えた色が微かに瞬く。カエンの腕の中で身を捩り、肩に縋りついて更なる快楽を望んだときに見せた色が。
「本当のことを言えよ。俺の匂いをさせたままで女を抱くつもりなのか」
「──うるさい」
ヴァレリーは物凄い目つきでカエンを睨んだ。食いしばった歯の間から、軋む声が押し出される。咄嗟に腰に手をやりかけて思い止まった。そもそも帯剣していないが、ヴァレリーは敵ではない。
「まだ足りないなら、俺がしてやる」
手綱を持っていない方の腕を掴んだが、思い切り振り払われた。
「誰が……調子に乗るなよ、カエン」
乱れたままの髪の向こうから、ヴァレリーの苛烈な視線がカエンに突き刺さる。その眼力だけで人を殺せそうな凶暴さ。ヴァレリーから発せられた殺気に馬たちが動揺する。足踏みを始めたアレクサンドラに気がついたのかヴァレリーは舌打ちし、カエンから目を逸らした。
「アレクサンドラを戻せ」
「あんたが俺に指図できるのは、戦場でだけだ。勘違いするな」
ヴァレリーは厩の壁を見たまま、呻くように言った。カエンは払われた手を再度伸ばし、ヴァレリーの肩に置いた。剥き出しの肩は、刺青のせいで僅かにざらついている。他の部分の皮膚の滑らかな感触を思いながら、カエンは指に力を籠めた。
「指図してるつもりはない。気に障ったなら謝るから許してくれ」
顔を背けたまま、ヴァレリーの肩が震える。
「アレクサンドラを馬房に戻してくれないか。なあ、きちんと話もせずにこのまま俺の前から消えるなんてことをしてくれるな。頼む、ヴァレリー・ユーレフ」
身を屈め、顔を覗き込むようにして懇願する。心臓が何度か打つだけの時が経った後、ヴァレリーは微かに頷き、アレクサンドラの手綱を持ったまま踵を返した。
ヴァレリーは長いこと厩から出て来なかった。
カエンは厩番と一緒に座りこみ、ラキタイとの戦闘に疲れた仲間の傭兵が部隊を捨てようとしているのを説得しにきたのだ、と誤魔化した。
大勝を褒めたたえる年若い厩番にせがまれ戦のことを適当に語りながら、東の空をぼんやり見ていた。ブーレーズには王城の周りを取り囲むように壮麗な建物が建っているが、それでもバルクルール砦周辺の暗い森にいるよりはずっと見通しがよく、日の出の気配が早くに感じられた。
カルグーンは高い建物がないし、少し馬を走らせればすぐに草原に出る。初めてカーダンに来た時は地平線が見える場所がないことに驚き、鬱々とした。身体だけでなく心も生来頑丈らしくすぐに慣れたが、今でも時折無性に草原に帰りたくなることがある。
東の空が薄らと白み始める頃、ヴァレリーは目を赤く腫らして厩からのっそりと現れた。酒を分けてくれた厩番に礼を言い、ヴァレリーを伴って宿屋に戻る。まだ人の気配がしない暗い建物の階段をのぼりながら、カエンは小さく溜息を吐いた。
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