第12話
下働きが起き出すにも早い時間かと思ったが、台所に下りて行ってみると、早起きの老婆が台所で木の実を選り分けていた。
何か腹に入れるものがないかと訊ねると、昨日の残りのスープを温めてやるという。野菜屑が浮いているだけのスープだったが、いい香りがした。木の椀を両手に持ち、小脇に硬いパンを挟んで階段を上る。もしかしたらまた部屋を脱け出しているのではないかと危惧したが、ヴァレリーはおとなしく待っていた。
「それを」
壁際に寄せてあった小さな卓を顎で指すとヴァレリーは不機嫌な顔をしたが、持ち上げて運んでくると、カエンが示すところに置いた。寝台の傍に置いた卓に椀を載せ、パンを小脇に抱えたまま部屋にひとつしかない椅子を取りに行く。背の高いカエンが寝台に腰掛け、ヴァレリーを椅子に座らせた。
「食え」
抵抗されるかと思ったが、食えるときに食っておくのは兵士の基本だ。身に染み付いた習慣のせいか、ヴァレリーは何も言わずに椀に手を伸ばす。パンを半分に割って卓の上に直接置くと嫌な顔をされた。
「直接置くなよな」
ヴァレリーは清潔でないことをいやに嫌う。戦闘時は必ずしもこだわるわけではないが、平時は誰よりもきれい好きだ。傭兵稼業など清潔とは縁遠いのに、不思議なものだ。
「特に汚くはないだろう」
「特に綺麗だとも思えないけどね。誰が触ったか分かんないんだし」
ヴァレリーの眉間に寄った皺を眺めながらカエンが自分のパンをちぎると、ヴァレリーが手を差し出した。
「何だ」
「そっち」
「ん?」
「そっちくれよ。あんたがそこに直接置くのを気にしないっていうなら」
カエンは手の中のパンを見て肩を竦めた。この部屋に入ってからはどこにも置いていないが、台所では無造作にテーブルの上に置かれていた。だが、今それを言う必要もないだろう。
パンを差し出すと、ヴァレリーは椀を持っていない左手でそれを受け取った。
カエンの右手には、千切ったほうの小さい塊が残っている。深く考えずに、カエンはそれを差し出した。ヴァレリーは唇に押し当てられたパンに訳が分からないという顔をして、次の瞬間真っ赤になった。
「……」
「何固まってるんだ?」
ヴァレリーは思わずにやついたカエンを睨みつけたが、動かないと分かったのか、口を開いた。随分と薹が立った雛鳥だと思いながらパンを押し込むと、もぐもぐしながら塊がでかすぎると文句を垂れる。
「文句を言うな。そんなに小さい口じゃあるまい」
「うるさいな、誰が食わせてくれって頼んだ? 偉そうにするなよな」
ようやく元の調子が戻ってきたように見えるヴァレリーに内心安堵しながら、自分もパンを千切って口に入れた。硬いが、味は悪くない。
かつて国で食べていたものは、今、こうして毎日口にするものとは雲泥の差だった。
生家のアーハザード家は王家を助ける四宰相家の一であり、口にするもの、身に纏うもの、どれをとっても上質なものを与えられていたからだ。
母国カルグーンにおいては、王家とは永続するものではない。遊牧騎馬民族であった頃から、時に王家と宰相家は入れ替わってきた。勿論、宰相家にも入れ替わりはあり、何らかの理由で弱体化した家は、他の家にその地位を譲った。
世継ぎに恵まれない王、虚弱な子ばかり揃った王家は、協議によって宰相家と役割を交替する。綿々と続く王族の血を誇りとする西方人からすると奇異に思えるらしいから、その辺りも西方の伝承でカルグーンの祖先が蛮族とされている理由なのかもしれない。
西方や南方では王族の近親婚が多いらしいが、カルグーンでは同じ氏族間で婚姻することはほとんどない。近親婚は血が濃くなりすぎ、先天性の病や身体の不自由さを招くと言われているからだ。
それに、婚姻による繋がりを持つことで、氏族同士の対立もある程度は防ぐことができる。強制ではないが、配偶者が亡くなったらその兄弟姉妹と再婚することが多いのも同じ理由からだ。廃されてまだ百年足らずの一夫多妻制も、異なる氏族と縁戚関係を結ぶためかつては奨励されていた。
定住する地を持たず、農耕を行わず、力によってのみ生きる糧を得てきた民族にとって、力があること、そして健やかなることは、体面より遥かに尊いものだった。
そうして時に王家となりつつ宰相家の務めを果たしてきたアーハザード家には当然ながら財力があった。硬いパンなど食べたことがなかったが、国を出て五年、今はふわふわと柔らかく、甘いパンの味を思い出すことができなくなりつつある。
「美味いか」
「別に」
ヴァレリーは灰色の瞳をカエンに向け、口を動かしながら瞬きした。
「普通のパンだよ。何で?」
「昔国で食っていたパンのことを思い出しただけだ。あれはもっと上等だったんだが、もう味を忘れてしまったと思ってな」
「あんたって、貴族とか、身分の高い生まれだろ。見れば分かる」
ヴァレリーがカエンの過去に言及したことはなかったから少し驚いたが、別に秘密にしていたわけではない。訊かれなかったら言わなかったまでなので、カエンは素直にうなずいた。
「まあ西方で言えば貴族にあたるのかな──自分ではそれほど上等な品性の持ち合わせがあるとは思ってないが」
スープを啜る椀の縁から、ヴァレリーがこちらを見つめる。カエンは同じように椀の中身を啜り、硬く酸味があるパンを千切った。
「あんた自身がどう思ってんのか知らないけど、あんたをどこかの馬の骨だと思ってる奴なんか仲間内にはほとんどいないよ」
「ふうん。それで、お前はどうなんだ」
「何が?」
警戒するような表情になったが、構わず続ける。
「カラエフ出身で、兄弟がたくさんいる。俺がお前について知っているのはこれだけだ。二年も一緒でな」
「……それ以上、話すことなんか何もないよ」
「そんなことはなかろう」
「あんたと違って、人に話せるような立派な──」
「ちょっと待て」
パンを持ったままの手を掴み、テーブルの上に押さえつけた。
「確かに俺はお前とは違う生まれかも知れんが、それが何だ? 生まれる国も家も選べなかったのは誰もが同じだ。その後の境遇に不公平がないなどという戯言を言う気はないが、少なくとも今の境遇はお前と変わらん。同じ一介の傭兵だし、食っているパンも同じだ」
ヴァレリーの目を覗き込むようにしながら囁く。
「それに、寝床も──そうだろう?」
椀がテーブルに当たり、がたりと硬い音が鳴る。ヴァレリーが何か言いかけたが、カエンは押さえつけていた手を離し、身を引いた。
「とりあえずは食ってからだ」
そうして二人は小さな卓を間に置き、多分それぞれ別なことを考えながら、暫し無言でスープとパンに取り掛かった。
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