第13話

「俺は農民の子だ」

 椀を台所に戻しに行ったら朝の老婆がいた。木の実の話に付き合ってやったらそこから孫の話になり、なぜか随分と気に入られ、陶器のボウルに山盛りの木の実をくれた。

 ヴァレリーはボウルごと渡した木の実を食べるでもなく指先で弄り回していたが、そのうちそれにも飽きたのか、寝台の上で胡坐を掻き直して口を開いた。カエンは椅子の背もたれに腕をかけ、ヴァレリーのほうに顔を向けた。

「カラエフの?」

「そう。バルキツィンの城壁から馬で三日くらいかかる村の出なんだ。森の縁のちょっと開けた場所に収まってる小さい農村だから、カラエフの人間もほとんど知らないと思う。かつかつの生活で、どの家もみんな貧しかった。俺は八人兄弟の上から四番目。二番目は生まれてすぐ死んだらしいから、生きてる中では三番目だったけど」

 ヴァレリーは農民の子とは思えない形のいい指の先で木の実を摘む。カエンはヴァレリーの話に頷いた。お産においては母子ともに命の危険に晒される。家が裕福であろうとそうでなかろうと、その点で女が直面する危険にたいした違いはない。

「ガキの頃はそれなりに幸せだったんだと思う。嫌な思い出ないからね。でも、どんどん下に兄弟が出来て、元々貧しいってのに輪をかけて食うや食わずの生活になっていってさ」

 肩を竦め、ヴァレリーは木の実の殻を割った。

「こういうの、よく食べた。雪が降る前に子供たちが必死で集めるんだよ。地面が凍ったら、掘ることもできない。もうどうしようもないから」

「冬中凍ってるのか?」

 カルグーンは冬も割合温暖だ。雪が降り積もることもあるが、地面が凍り付いてどうしようもなくなることはない。

「国の三分の一は永久凍土だって聞くな。まあ、そんなとこ人はほとんど住んでないけどさ。村があったところは一応春には雪解けしたけど、それにしたって冬は地面なんか見えないし、当然落ちてる木の実なんか掘り出せないよ。それで、とにかくそういう生活が嫌になったから、俺は家を飛び出した」

 ヴァレリーの身の上話は、珍しくも何ともない話だ。

 養えないくらいに子が増えた貧農は、生まれた子供を間引くか、ある程度育った子供を労働力としてどこかに売り払うしかない。貧しい家では子沢山は必ずしも幸せではない。もっとも、貴族ならそれはそれで家督争いに発展したりするので、どちらにしても色々ある。いずれにしても、兄弟の多いヴァレリーが家族を捨て、村を捨てたのも無理からぬことだ。

「歳が近いやつらと何人かで、馬を盗んでさ。カラエフは大国じゃないけど、海獣の毛皮なんかは西方でも人気があってそれなりに栄えてるんだよ、知ってる? 当時も、王都は活気があってでかかった。そこで盗みをしたり、喧嘩したり、ならず者の用心棒みたいなことして生きてたよ。刺青入れたのもその時だし、とにかくろくでもない生活だったね」

「そうか」

「暇を持て余した未亡人とか、ろくでもないオヤジ相手に身体も売った」

 さらりと吐き出したから気にしていないように聞こえたが、そうでもなかったのはヴァレリーの顔を見ればよく分かった。後悔、羞恥、怒り。今でも、ヴァレリーの中には生々しい感情があるのだろう。

「女の客はあまりつかなかったよ。カラエフでは刺青入れてるのはまともじゃない証だからね、女には怖がられて、嫌がられるんだ」

 カラエフほどではないにせよ、カーダンでも事情はあまり変わらない。だからこそ、ヴァレリーは女との逢引のときはいつも長袖のシャツを身に着けていた。

「男はそんなこと気にしなかったけど、でもそっちで荒稼ぎするには、俺はでかくなりすぎてた。まあ、こんな顔だからそれでも何とか急場をしのぐくらいの稼ぎにはなったけど。どっちにしても、楽しいもんじゃなかったぜ」

「……」

 何と言ったものか、見当もつかなかった。慰めるのもおかしいし、聞かなかったふりをするのも不自然だ。取り繕っても仕方ないかと思ったものの、そうか、と呟く以外何も出て来なかった。

「だからさ」

 ヴァレリーは木の実の入ったボウルをテーブルに置いてカエンの方を見た。

「あんたが、後ろめたく思うことなんてないんだよ」

「ヴァレリー……」

 ヴァレリーはやっぱりな、といいたげな顔をして小さく笑った。

「俺が誘ったんだから、何も考えることないよ。思いとどまるべきだったとか悪いことしたとか思ってるならそんなこと全部忘れていい。俺がどう思ってようと気にすることなんかないのにな。あんた、ほんと育ちがいい」

 からかうような笑みは、形ばかりのものだ。それでも、泣いた顔よりはマシだった。

「説明してほしいことって、何? どうして俺があんたに抱かれたか、ほんとに知りたいか?」

 ヴァレリーは片膝を抱え、自分の膝に頬を預けてカエンを見つめた。薄い灰色は、ヴァレリーの母国の冬空の色に似ているのかもしれないなとぼんやり思う。

「俺には難しいことは分かんないよ。あんたが俺にとって何なのか、考えたって分かんないし、説明できやしない。ただ、隣に寝転がってあんたの寝息聞きながらいつも考えてた。国も家族も捨てて生きてる俺には、あんたがいなくなったら何ひとつ大事なものは残らない」

 彼にとって自分が大切ななにかだったと初めて知って、カエンの胸はなぜか痛んだ。カエンにとってもヴァレリーは大事な相棒で、ほとんど唯一無二と言ってもよかった。

 だが、故郷で息災の家族──母は病で他界しているものの、十分に愛し、愛された──がおり、どん底など知らないカエンのそれはどこか気安く、中途半端なものに違いなかった。

「俺、望んで肌を合わせた女のことは忘れないよ。ひとりひとりのこと、よく覚えてる」

 今や、ヴァレリーの声はほとんど囁きに近かった。

「──だから、あんたと寝たら、あんたのことも俺の中に残しておけるかもしれないって思ったんだ。そうしたら、少し安心できるのかもしれないってね」

「お前──」

「だけど、そんなわけないよな」

 カエンを遮ってそこまで言うと、ヴァレリーは自分の膝頭に額を擦りつけるようにして目を閉じた。

「馬鹿だよ、俺は」


  着替えたかったし、落ち着いて考えたかった。

 幾ら考えたところで何が解決できるわけではなかったが、冷たい水で顔を洗うくらいのことはしなければ、混乱したままわけの分からないことをしてしまいそうだった。

 目の前の、美貌だが並みの男より背が高い刺青の傭兵にほだされて求愛し、拒まれるとか。カエンは頭を振り、眉間を揉んだ。

「ヴァレリー、荷物を取りに一旦戻る。ここで待っててくれ」

 ヴァレリーは顔を上げ、灰色の瞳でカエンを一瞥した。

「どこにも行くな。いいな?」

「──うん」

 頷きが小さかったので、不安に駆られて重ねて言った。

「約束してくれ」

「分かったよ。約束する。どこにも行かないで、ここにいる」

 はっきり言ってもう一度、今度は深く頷いたヴァレリーを暫し見つめ、カエンは部屋を後にした。

 既に陽は高く上り、通りは人で溢れていた。足元を駆けて行く子供や戦勝を祝う花を売る女を避けて速足で歩く。途中、騎馬の兵士とすれ違った。名前も顔も知らなかったが、向こうはカエンを見知っていたらしく馬上から略式の礼をされた。カエンも礼を返し、目的地に向かう角を曲がった。

 騎兵もどこか疲れた顔をしていたから、今回の戦闘に参加したのだろう。ラキタイ軍同様カーダン軍も疲弊しているし、今日明日に再出兵ということはないだろう。僅かな荷物はカスケルと一緒に鍛冶屋に預けてある。まずは荷物を受け取り、落ち着き先を決めなければならなかった。

 カエンは鍛冶屋に寄り、カスケルの様子を見てやった。大事に扱われ満足そうな馬を見ると心が和む。礼を言い、とりあえずの金を払って荷物と武器を受け取った。鍛冶屋の近くにある馴染みの宿屋に部屋を取ったカエンは、荷物を放り出し、冷たい水で顔を洗った。

 結局、考えは何一つまとまらなかった。そもそも考えるということ自体ができなかったと言ってもいい。

 幾らかさっぱりとした気分で服を着替え、カエンは再度ヴァレリーの宿へ向かった。

 階段を上り、部屋の扉を開ける。綺麗に整えられた寝台と座る者のない椅子が、カエンの帰りを待っていた。


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