第4章
第14話
約束は死んでも守る。内容は問題ではない。何故なら、それは名誉に関わることだからである。
実行に移すかどうかは個人差があるが、身分の高い軍人ほどそういう考えを持っている。
誇りを持つこと、名誉を重んじることは勿論大事なことではあるが、どんな約束でもすべて果たされて然るべきだと盲目的に信じ、何も考えられないようでは生き残れない。国を出てからそう学んだはずなのに、自分はまだ良家のお坊っちゃん気質が抜け切らないのかとカエンは心底呆れ果てた。
戦場での命令でもないというのにここにいろと告げられおとなしく従うヴァレリーではない。何事もないときならいざ知らず、今朝ヴァレリーは立ち去ろうとしていたのだ。口約束などなんの保証にもなりはしない。俺の目を見て嘘をついたなどとヴァレリーを責めることこそ愚かな話だ。
案の定駆け込んだ厩にアレクサンドラの姿はなく、昨晩とは別の厩番に、背の高い北方人の傭兵なら少し前に馬を連れて出て行ったと告げられた。
「少しとはどのくらい前だ?」
「さあなあ……あれから二頭ブラシをかけたけど」
男は並んだ馬房を眺めてのんびり言った。
「色が白くて、すごい美人だったねえ」
ひょろりとした厩番は昨日の男よりは年嵩で、年齢も身長もヴァレリーと同じくらいに見えた。馬の背にブラシをかけながら、感心したように何度も頷く。
「女だったらどこぞの姫君かと思うところだけね。背丈は俺とおんなじくらいあるし、それにでっかい、あまり見たことない曲がった剣をこう、二本もぶら下げててさ。おっかない顔して、これから戦いに行くみたいだったよ」
「どこへ向かうか、訊ねたか」
厩番は器用なことに、ブラシを動かす手を止めずに肩を竦めた。
「さあ。聞いたけど、答えてくんなかったよ。俺もしつこくは訊かなかった。少し立ち話をしたけど、笑ったのは馬を褒めたときだけ。いや、笑うと綺麗だった。見惚れたよ、ほんとにねえ」
にっこり笑う彼の顔に邪気はなかった。だが、カエンは不意に怒りを覚えた。つまらない独占欲だ。二度身体を重ねただけでそんなふうに思うこと自体が滑稽だったが、今は自分の愚かさを再確認している場合ではない。
厩番に礼を言い、カエンは宿屋を後にした。ヴァレリーがどこへ向かったにせよ、カスケルが必要だ。騎馬の者を徒歩で追いかけ、追いつけるわけがない。
短時間のうちに同じ道を二度も三度も行くのは腹立たしい。少し前に通った道を歩いていたら先程と同じ兵士が、今度は馬から降りて立っているのを見かけた。今は下りているが、騎兵であることからカーダンではそれなりの地位にある兵士だと分かる。
カエンの故郷では、作戦上どうしても必要があれば別だが下っ端から将軍たちまでみな騎兵である。獲物は得意なものを持つので様々だが、歩兵だけは存在しない。
カーダンの場合、戦闘は主に徒歩の兵で行われた。弓矢の使い手も騎馬なのがカルグーンでの常識だが、カーダンでは弓矢は主に隊列を組んだ歩兵のものである。行軍の際には基本的に軍属も歩く。カエンの常識からするととにかく騎馬の者が少ないのだ。
そこまで考えたところで踵を返し、カエンは方向を変えて歩き出した。
「何だ、お前さんか」
カエンが「軍属」から連想したナット──年寄りの方──は迷惑そうな顔をしたが、扉を閉めることはしなかった。
部屋の中か、そうでなければナット本人から、数種類の薬草の香りが漂ってくる。カエンが知っている匂いもあれば、嗅いだことのないものもあった。
金がないわけではないだろうにナットの格好はいつ見ても酷く質素だ。ナットは宮廷からの度重なる招きを断り、金を薬草につぎ込んでこの小さな家で暮らしている。ナットの細君は十年以上前に他界しており、今のナットの伴侶は乾燥させた草花だけだ。
「朝からお前みたいな大男の顔を見たくはないんだがな。まあ、せっかく来たんだから入れ」
「ヴァレリーが消えた」
カエンに背を向けて部屋に入ろうとしていたナットは、戸口を塞ぐカエンを肩越しに見やりゆっくりと身体の向きを変えた。
「何だって?」
「ヴァレリーが、いなくなった」
「あの坊主のことだ。女のベッドの中じゃないのか」
「違う。馬も剣も持ってだ」
「何も言わずに?」
「いや──」
ナットは年老いた者特有の透き通るような青い瞳でカエンを凝視した。黙って消えたわけではないが、姿を消すという明確な意思表示があったわけでもない。
カエンはこちらを探るように見据えるナットの目を見返したが、すぐに逸らした。
「あんたなら、あいつが行く先を聞いてるかも知れんと思って」
「何で俺が。傭兵一人にかかずらってる暇はない」
「そうなのか? アナトールに聞いた話だと、随分心配してるようだったと」
カエンがそう言うとナットは小さく舌打ちし、扉を押し開けた。
「……入れ。立ち話は腰に響く」
「腰なんか悪くないだろう」
ナットは鼻を鳴らし、部屋に入ったカエンの背後で大きな音を立てて扉を閉めた。
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