第16話

 気付けば陽は傾き、ブーレーズの町を市場に積み上げられた果物のような色に染めていた。

 ナットのところから鍛冶屋に戻りカスケルを連れ出してみたものの、カエンは暫し途方に暮れた。ヴァレリーは既に町を出たのか、どこかに留まっているのか。酒場に寄ることはあるまいと思い、あちらこちらに立つ市に立ち寄っては手当たり次第に北方人を見かけなかったかと訊ねてみたが、返って来た答えはどれも不確かで結局焦りが募っただけだった。

 せめて東西南北どちらへ向かったか分かればと思うが、四方すべてに可能性がありひとつを選ぶことなど不可能だった。ヴァレリーが今更故郷に戻ることはないだろうが、北方にあるのはカラエフだけでは勿論ない。

 どこに向かっても国はあり、国があれば争いがある。傭兵が向かう先はどこででもあり得た。城壁の四方にある門のどこから出たかを想像することさえカエンにはできず、それはすなわちヴァレリーについて何も知らないということを改めて実感しただけのことだった。

 不意に足元に何かの気配を感じて顔を上げると、栗色の髪の子供が母親に手を引かれつつ、カスケルの蹄の上に花びらを撒いていた。

「へいたい、さん」

 幾つくらいなのだろうか、格好から男の子だろうとは思うが、顔立ちからは判断ができない。幼く愛らしいその子はまだしっかりと発音できない「兵隊」という言葉を嬉しそうに繰り返し、カエンを見て笑い声を上げていた。ふっくらした頬はまさに花びらのような滑らかさで、産毛が夕陽に光っている。母親が愛しげに子供の髪に触れ、手を引いて離れて行く。

 意外なことに、涙が出た。

 一体何が涙を誘ったのか分からない。子供の髪の色がヴァレリーを思い出させたのは確かだが、それだけだった。視界が歪み、親子の姿が橙色の中に滲む。店仕舞いを始めた露天に並ぶ果実が夕陽の色に溶け出して見えた。

「南門だってよ」

 南方の訛りがあるしゃがれた声が後ろでがなり立て、カエンは掌で涙を拭って何となく振り返った。

「さっきのあれか、あの仕立屋が言ってた──」

「そうだ。最近ここらに出没する軍人くずれの盗賊団とか……それが、さっき南門から出たエシャレールの隊商を囲んでるらしい」

「エシャレール? 高価な荷が多そうだな……。あの盗賊に襲われた隊商は皆殺しになってると聞くぞ。今頃血の海だろう。こんな遠い国まで来て気の毒に」

「それが、さっき南門から来た奴の話じゃ護衛に雇った傭兵が一人で」

 そこまで聞いて、カエンは半ば無意識にカスケルの腹に踵を入れた。

 カスケルが驚いたようにいななき突然駆け出した。重たい蹄の音に驚き人々が道を開け、そこかしこから怒鳴り声や悲鳴が上がる。人をひっかけないように注意はしたが、物には構っていられない。

 カスケルが何かを蹴倒し、けたたましい音が上がった。音や怒号が背後に遠ざかる。頬に当たる風が涙の痕を乾かしていく。皮膚が引き攣れ、カエンはもう一度掌で頬を拭った。

 護衛に雇った傭兵、というのがヴァレリーだと思う根拠はひとつもない。

 南門はすぐそこだ。今、考えられるのはそのことだけだった。

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